ヘイズ・コード初期
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「ヘイズ・コード」の記事における「ヘイズ・コード初期」の解説
詳細は「en:Pre-Code Hollywood」を参照 1930年2月19日、バラエティ誌が、ヘイズ・コードの条文をすべて載せ、映画の検閲機関はすぐに廃止されるだろうと予測した 。なぜなら、1932年まで協会の代表を務めていたジェイソン・ジョイとその後任になったジェームズ・ウィンゲート博士(Dr. James Wingate)はまったくもって機能していなかったのである 。例えば協会の検閲を受けた最初の映画である『嘆きの天使』は協会の検閲では無修正で通った一方、カリフォルニア州ではわいせつとみなされた。ジョイが一部シーンのカットを求めたこともあったが、あからさまな場面が残っている状態で公開された 。ジョイは1年間に500の映画を少ないスタッフでチェックしなければならず、組織の影響力も乏しかった。彼はスタジオと制作したいと考えており、脚本を書くのが得意だった彼はフォックスに移籍した。一方ウィンゲートは山のように来る映画の企画書を読んでチェックするのに苦労し、ワーナー・ブラザースの制作部門の代表者であるダリル・F・ザナック が催促の手紙をよこすほどだった 。1930年当時の協会は影響力はなかったが、製作者を説得したり懇願したりすることはあった 。事態は複雑化しつつあったが、シーンのカットの有無は最終的にスタジオ自身が決めることとなった。 ヘイズ・コードがないがしろにされていた理由の一つに、1920年代から30年代初頭にかけて、自由を好む風潮が検閲をおかたいものとみなしていたことがあげられる。当時は ヴィクトリア朝のものを世間知らずで時代遅れのものとして笑いの種にされていた時期でもある。ヘイズ・コードが告示された際も、リベラル派の定期刊行誌 w:The Nationがかみついた。この雑誌は 「もし犯罪に同情の余地があれば、法と正義が文字通り一つの意味をもつとみなされる。と記した。ヘイズ・コードのため、ボストン茶会事件を映画で取り上げることができなかった。また、聖職者を悪く描くこともできず、偽善を題材とすることもできなかった。Outlookはバラエティ誌と同意見だったが、当初からヘイズ・コードを守るものは少ないだろうと予測していた。さらに、1930年代の世界恐慌のせいで多くのスタジオが資金獲得のためになりふり構わなくなってきていた。そのため、人種差別的な要素や暴力シーンで映画が売れることも出てきたため、そのような映画も増えてきた 。かくして、ヘイズ・コードは公然の秘密となった。1931年、ハリウッド・リポーター誌がヘイズ・コードを揶揄した記事を書き、1933年にはバラエティ誌もこれに続いた。また、同年バラエティ誌は、ある脚本家が「ヘイズのモラル・コードは冗談にすらなれない、記憶に残るのみです。」と語っていた記事を掲載した。
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