ブロワ三部会とギーズ公暗殺(1588年)
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「ユグノー戦争」の記事における「ブロワ三部会とギーズ公暗殺(1588年)」の解説
パリへ帰還することを拒んだアンリ3世は、1588年9月にブロワで三部会を招集した。三部会の間、アンリ3世は平民部会の議員たちがカトリック同盟に操られていると疑うようになり、更に10月に起こったサヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世によるサルッツォ侵攻はギーズ公による手引きによるものと確信する。ギーズ家が王権に対する脅威であると考えたアンリ3世は、先手を打つことを決意した。12月23日、ギーズ公と弟のギーズ枢機卿は国王衛兵隊が仕掛けた罠にかかった。その日、ギーズ公はブロワ城に到着し、弟の枢機卿が待つ会議室に入る。彼は国王室の隣の書斎で国王が会見を望んでいると告げられた。そこで衛兵がギーズ公に掴みかかり、心臓を刺して殺し、他の衛兵がギーズ枢機卿を逮捕した。ギーズ枢機卿は連行中に矛で突き殺されている。昂奮したアンリ3世は病床にあった母カトリーヌの部屋に駆け込み「私だけがフランスの王になった。私がパリの王を殺した」と語ったという。 もはや王権に対抗する者はいないと信じたアンリ3世は、ギーズ公の息子シャルルを投獄してしまう。この混乱の最中の1589年1月5日、病床にあった王太后カトリーヌが70歳で息をひきとった。 だが、カトリックの守護者と見られていたギーズ公アンリのフランス国内での人気は非常に高く、カトリック同盟はアンリ3世に対する宣戦を布告する。アンリ3世はユグノーの盟主であるナバラ王アンリの軍に加わってカトリック同盟に戦いを仕掛け、これに対してパリ高等法院が国王の有罪を申し立てた。
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