ブロワ三部会とギーズ公暗殺とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

ブロワ三部会とギーズ公暗殺とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ブロワ三部会とギーズ公暗殺の意味・解説 

ブロワ三部会とギーズ公暗殺(1588年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:31 UTC 版)

ユグノー戦争」の記事における「ブロワ三部会とギーズ公暗殺(1588年)」の解説

パリへ帰還することを拒んだアンリ3世は、1588年9月ブロワ三部会招集した三部会の間、アンリ3世平民部会議員たちがカトリック同盟操られていると疑うようになり、更に10月起こったサヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世によるサルッツォ侵攻ギーズ公による手引きよるもの確信するギーズ家王権対す脅威であると考えたアンリ3世は、先手を打つことを決意した12月23日ギーズ公と弟のギーズ枢機卿国王衛兵隊が仕掛けた罠にかかったその日ギーズ公ブロワ城到着し、弟の枢機卿が待つ会議室に入る。彼は国王室の隣の書斎国王会見望んでいると告げられた。そこで衛兵ギーズ公掴みかかり、心臓刺して殺し、他の衛兵ギーズ枢機卿逮捕したギーズ枢機卿連行中に矛で突き殺されている。昂奮したアンリ3世病床にあったカトリーヌ部屋駆け込み「私だけがフランスの王になった。私がパリの王を殺した」と語ったという。 もはや王権対抗する者はいないと信じたアンリ3世は、ギーズ公息子シャルル投獄してしまう。この混乱最中1589年1月5日病床にあった王太后カトリーヌ70歳で息をひきとった。 だが、カトリック守護者見られていたギーズ公アンリフランス国内での人気は非常に高くカトリック同盟アンリ3世対す宣戦布告するアンリ3世ユグノー盟主であるナバラアンリの軍に加わってカトリック同盟戦い仕掛け、これに対してパリ高等法院国王有罪申し立てた

※この「ブロワ三部会とギーズ公暗殺(1588年)」の解説は、「ユグノー戦争」の解説の一部です。
「ブロワ三部会とギーズ公暗殺(1588年)」を含む「ユグノー戦争」の記事については、「ユグノー戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ブロワ三部会とギーズ公暗殺」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ブロワ三部会とギーズ公暗殺」の関連用語

ブロワ三部会とギーズ公暗殺のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ブロワ三部会とギーズ公暗殺のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのユグノー戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS