ヒッティーンの戦い
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ヒッティーンの戦い(ヒッティーンのたたかい、アラビア語: معركة حطين Ma‘raka al-Ḥiṭṭīn, 英語: Battle of Hattin, 1187年7月4日)は、エルサレム王国とアイユーブ朝のサラーフッディーン率いるイスラム勢力の間に起こった戦い。この戦いに勝利したサラーフッディーンは進軍を継続して同年10月に聖地エルサレムの奪回に成功し、エルサレム王国を崩壊寸前(沿岸部に多少の領土を残すのみ)まで追い込んだ。地名については、ハッティーン al-Ḥaṭṭīn (en)とも言う。
- 1 ヒッティーンの戦いとは
- 2 ヒッティーンの戦いの概要
- 3 影響
ヒッティーンの戦い
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「オンフロワ4世・ド・トロン」の記事における「ヒッティーンの戦い」の解説
1187年前半、オンフロワ4世の継父ルノー・ド・シャティヨンが、エジプトからシリアに向かうキャラバンを襲撃した。このころはまだエルサレム王国とサラーフッディーンの間の和平期間中であったが、自身のOultrejourdan卿領はその対象外だというのがルノー・ド・シャティヨンの主張だった。ギー・ド・リュジニャンは賠償金を支払うようルノー・ド・シャティヨンを説得しようとしたが、聞き入れられなかった。サラーフッディーンはエルサレム王国に対するジハードを宣言し、1187年7月4日のヒッティーンの戦いでエルサレム王国の連合軍を壊滅させた。 オンフロワ4世はこの戦闘に参加していたが、他のほとんどのキリスト教徒指揮官らと共にサラーフッディーンの捕虜になった。サラーフッディーン自身の手で処刑されたルノー・ド・シャティヨンや、熱狂的なアイユーブ兵に虐殺された修道騎士たちを除き、サラーフッディーンは捕虜たちを助命した。彼は捕虜をダマスカスに移送したうえで、残るキリスト教徒支配下の都市や要塞を次々と攻略していった。 何とか抵抗を続けられたのは、Oultrejordanのケラク城とモンレアル城を含むごくわずかな要塞だけであった。10月、オンフロワ4世の母エティエネットはサラーフッディーンと交渉し、息子を解放してくれれば両城の守備兵を説得して降伏させると約束した。サラーフッディーンはこれを承諾し、オンフロワ4世を母のもとに返した。ところが両城の守備兵は頑として開城を受け入れなかったので、オンフロワ4世はダマスカスに帰って虜囚の身に戻った。しかし程なくして、サラーフッディーンは彼を身代金や新たな交換条件なしに解放した。ケラク城は1188年末まで、モンレアル城はその数か月後まで持ちこたえたが、最終的にサラーフッディーンの軍の前に落城した。
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