パイロットとしての活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 14:08 UTC 版)
「ハンナ・ライチュ」の記事における「パイロットとしての活躍」の解説
1939年、世界初のジェット戦闘機 メッサーシュミットMe262シュヴァルベやロケット戦闘機 メッサーシュミットMe163コメートなどのテストパイロットを務める。Me163の5回目のテスト飛行中、重傷を負い、意識不明のまま5ヶ月間入院した。 1941年3月27日、それまでのテスト飛行に対して空軍搭乗員に授けられる黄金の功労賞を帝国元帥ヘルマン・ゲーリングから授与される。この受章の際、ライチュが小柄(155cm)だったことにゲーリングから大きな驚きをもって両手を広げる大袈裟なジェスチャーで迎えられたが、これが癇に障ったライチュ自身も両手を大きく広げるジェスチャーで応じた。翌28日、総統アドルフ・ヒトラーより二級鉄十字章を受章。ドイツ人女性の鉄十字受章者はライチュを入れて二人だった。ヒトラー総統お気に入りのパイロットであったばかりでなく、程なくして、ローベルト・リッター・フォン・グライム空軍上級大将と親しくなる。 1944年2月28日には、ドイツ人女性唯一の一級鉄十字章を授与される。 1943年から1944年3月にかけて、日本の特殊攻撃機「桜花」に類似するフィーゼラー Fi103Rライヒェンベルクの試作の中心となって参加する。この“自己犠牲攻撃”の試案はライチュらの発案であり、まもなくオットー・スコルツェニーSS中佐も援助を申し出てきた。同年4月、ライチュらの要望が通ってヒトラー総統が第200爆撃航空団第5飛行中隊(レオニダス飛行中隊)を提唱した。ライチュ自身も、この“自己犠牲攻撃隊”に初期から志願したメンバーであったが、テストパイロットとして非凡な才能を持っていたこともあって実戦には殆ど赴くこともなかった。1945年4月19日にレオニダス飛行中隊は、快進撃を続けるソビエト連邦赤軍を足止めするため、、オーデル川に架かる橋梁に、爆装した航空機で体当たりすることを命じられた。メッサーシュミット Bf109が500kg爆弾を搭載して出撃したが、これは、日本軍の神風特別攻撃隊と同様に脱出不可能の決死任務であった。結局、36機のBf109が失われたが作戦は失敗し、17の橋梁を破壊したとレオニダス隊は主張したが、効果は限定的なもので、赤軍の進撃を止めることはできなかった。
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