バーミンガム暴動 (1791)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 23:19 UTC 版)
「ジョゼフ・プリーストリー」の記事における「バーミンガム暴動 (1791)」の解説
(記事「バーミンガム暴動 (1791年)も参照。) 非国教徒やアメリカおよびフランスの革命支持者に対する敵意は徐々に高まっていき、1791年7月に爆発する。プリーストリーと他の非国教徒らはバスティーユ襲撃2周年を祝う宴会を催した。これはフランス革命に大多数が反対し、自国にも革命の波が押し寄せるのではないかと恐れていた国では、極めて挑発的な行為だった。暴力沙汰になるのを恐れた友人らはプリーストリーに出席を見合わせるよう説得した。暴徒は宴会の行われたホテル前に集結し、宴会が終わって出席者が出てきたところを襲撃した。さらに暴徒はユニテリアンの2つの教会に押し寄せ、両方が全焼。プリーストリーと妻は自宅から逃げ出した。息子のウィリアムや他の人々が財産を守るために残ったが、押し寄せた群衆には勝てず、実験室を含めた家屋敷と家財が破壊され、燃やされた。他の非国教徒の家も3日間の暴動の間に燃やされた。プリーストリーらは数日間を隠れて過ごし、やっとロンドンに安全に行けるようになった。群衆による襲撃が極めて効率的になされていることから、バーミンガムの行政長官がこの暴動を計画したという噂が流れ、現代の歴史家にもそう考える者がいる。暴動鎮圧のために軍を派遣したジョージ3世は「プリーストリーが彼とその仲間が教え込んだ主義のせいで受難者となったこと、人々が真実の光で彼らを見たことをうれしく感じないではいられない」と述べた。
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