バーミンガム・ミッドランド音楽院
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「ラトランド・ボートン」の記事における「バーミンガム・ミッドランド音楽院」の解説
バーミンガム在住時(1905年から1911年)のボートンは、多くの新たなチャンスに恵まれ、また数多くの友人と出会っている。彼は優れた教師として、また傑出した合唱指揮者として頭角を現していき、それによって高い名声を勝ち得た。彼はジョン・ラスキン、ウィリアム・モリス、エドワード・カーペンター、ジョージ・バーナード・ショーらの著作を通じて、社会主義の思想に傾倒していく。その後ショーとの関係は生涯にわたる付き合いへと発展するが、それはボートンがショーにあるオペラへの協力を呼びかけ、ショーに断られたことに端を発するものだった。当初、ショーはボートンのあらゆる音楽に関わることを拒絶したが、これに対してボートンは諦めることなく呼びかけを続けた。ついにショーは2人の間に共通点を見出すようになり、これがそれ以降消えることはなかったのである。加えて、後年彼の伴侶として、さらに芸術面で彼の「右腕」としてグラストンベリーでの企画に加わることになる、若い美術学生のクリスティーナ・ウォルシェ(Christina Walshe)と親交を育むのもこの時期であった。 ボートンは独学で学びを深め発展させてきていたが、そうする中で生涯にわたって持ち続けるある芸術上の目標に行き当たった。若い頃、彼は14日間に及ぶキリストの生涯に関する劇を構想していた。劇中では演劇が行われるのはオーケストラの中央に配された小さな舞台の上で、ソロや合唱が演技に注釈をつけるという形式が想定されていた。この構想は実現しなかったものの、彼は着想自体を捨てずにおいていた。1907年までにボートンはワーグナーの理論と実践に触れ、またそれが教会によるキリスト教信仰の捉え方が幾分間違っているという彼の個人的な見解と相俟って、彼は次なる題材であるアーサー王へと軸足を移していった。バイロイト音楽祭の「ニーベルングの指環」を土台とし、若き詩人であったレジナルド・バックレー(Reginald Buckley)が記した「Arthur of Britain」の発想と並んで、ボートンは新たなオペラの形式を提案し、後に自らこれを「合唱劇 choral drama」と呼んだ。こうした点からボートン、バックレー、ウォルシェの3人の仲間は劇作の国民的祭典の創設を望むようになる。ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスは確立されたオペラの演目にとっては理想的な会場であったが、ボートンとバックレーの計画には適していないということがわかった。そこで、彼らは自ら劇場を建設するとともに、協力し合い共同体を作り上げるべく才能ある地元の人間を起用することに決めた。当初はハートフォードシャー州のレッチワースがプロジェクトに適した土地であると見込まれたが(当時、美術工芸運動が重要であった)、その後彼らはアーサー王永眠の地であるとの説が有力で、王の伝説が根付く地域であるサマセット州の町グラストンベリーに落ち着いた。その頃、指揮者のダン・ゴドフリー(英語版)と彼が率いるボーンマス交響楽団は新しいイングランドの音楽を支援する活動で名声を博していた。そうして、ボーンマスにおいてボートンのアーサー王シリーズの第1作目である「The Birth of Arthur」が初演される運びとなったのである。ボーンマスでは他にもボートンの「交響曲第2番」が初演され、オペラ「The Queen of Cornwall」が初めて管弦楽を伴って上演された。この演奏会にはオペラの題材となった詩の作者であるトーマス・ハーディが出席していた。
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