バーブと集団の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 03:08 UTC 版)
バーブは、1819年シーラーズのサイイド(ムハンマドの子孫とされる人びと。ペルシア語ではセイイェド)家系の商人の家に生まれた。本名をミールザー・アリー・モハンマドという。1840年頃にはカルバラーで学び、シャイヒー派の影響を受けるようになる。1843年シャイヒー派指導者セイイェド・カーゼム・ラシュティーが没すると、シャイヒー派に混乱が起こるがこれを受けてアリー・モハンマドは1844年5月12日、自らがバーブであると宣言した。同時にラシュティー死後の指導者を求めるシャイヒー派のモッラー・ホセイン・ボシュルーイー(英語版)がバーブ宣言を認知し、ここにバーブを中心とする集団が出現することになる。 そののち、集団の中核にボシュルーイーをはじめとする19人の「生ける文字(英語版)」を形成して各地のシャイヒー派に派遣、宣教につとめる。「生ける文字」の一人アリー・バスターミーはアタバートで1844年夏以降宣教し、ウラマーらの面前でマフディー[要曖昧さ回避]の到来など過激な言辞をはいてオスマン帝国当局、ウスーリー派(英語版)ウラマーの反発を招き、審問されている。また同じくボシュルーイーはエスファハーン・テヘランを経由してホラーサーンでの宣教につとめている。この時期の宣教はシャイヒー派ネットワークに乗せておこなわれたものといわれる。1845年1月、バーブはイマームの再臨の予兆を宣言して、信徒らにカルバラーに集うよう呼びかけた。自身も1844年9月にメッカ巡礼へと出発するが、バスターミーの有罪判決など状況の悪化によりカルバラーには入れず、1845年7月シーラーズに戻り軟禁される。1846年9月には町の混乱に乗じてエスファハーンに逃れ太守の保護下に置かれるが、太守死後1847年2月ガージャール朝政府によって逮捕され、テヘランでのモハンマド・シャーとの会見ののちアゼルバイジャンのマークーに送られた。1848年、さらにタブリーズへ移され、法廷において自らがイマームの再臨(ガーエム)であると宣言。虐待を受ける。1850年、処刑された(en:Execution of the Báb)。
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