バストーニュ
バストーニュ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 04:55 UTC 版)
12月18日に、攻勢は進行中へと復帰した。第26国民擲弾兵師団(英語版)はクレルベ川(英語版)に架かる橋を確保し、バストーニュの道路・鉄道集束地に至る経路を開いた。装甲教導師団の装甲偵察大隊は、ヴィルツ(英語版)の方面へ攻撃を仕掛けながら急ぎ前進し、次いでバストーニュに至る経路で師団に再合流した。馬による牽引を用いていた第26国民擲弾兵師団が装甲教導師団の隊列と混ざり合い、その進撃を大いに遅らせた。 12月19日、師団の装甲連隊はヌッフ(フランス語版)近くで、アメリカ軍第10機甲師団(英語版)傘下のチェリー戦闘部隊が守る路上遮蔽に行き当たった。当初の成功に続く、装甲教導師団の余勢を駆った攻撃は大きな損失を出す結果となった。チェリー戦闘部隊は後退し、バストーニュへの道が再び開かれた。しかしながら、師団の装甲兵力の大部分は北のマジュレ(フランス語版)へ、第26国民擲弾兵師団を援護するために送られていた。マジュレを占拠した後、ある地元民が師団指揮官のバイエルラインへ、およそ50輌のアメリカ軍戦車と歩兵部隊からなる隊列が、ロンヴィリー(フランス語版)へ向かうところを目撃されたと知らせた。バイエルラインは配下の部隊へ停止して路上遮蔽を築くよう命じ、配下部隊を再集結させて再編成を行う機会を設けた。装甲教導師団が再び行動を開始し、バストーニュの街に達した頃には、アメリカ軍第101空挺師団(愛称「スクリーミング・イーグルス(叫ぶ鷲)」)が既に当地を確保していた。装甲教導師団は次いで分割を受け、師団の半分が残留して第26国民擲弾兵師団によるバストーニュ奪取を支援し、装甲兵力の大半を含む師団のその他は、マース川への前進を続けることになった。 続く数日間で、大半が第901装甲擲弾兵連隊から構成され、第26国民擲弾兵師団を援護する戦闘団は、バストーニュの街への継続的な攻撃の中で消耗していった。師団のその他は東へ急ぎながら、アメリカ軍の大規模な輸送隊を捕捉するなどいくつかの小さな成功を享受したものの、サン・テュベール(英語版)近傍で厳しい抵抗に遭って停止状態となり、じきにバストーニュの南方で激しい戦闘に巻き込まれた。12月21日、マントイフェルはバストーニュを巡る戦闘から装甲教導師団を引き揚げて、ディナンとマース川への強襲のため、第2装甲師団や第116装甲師団ウィンドハンド(英語版)と集団を形成させた。
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