バスク語教授時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 17:33 UTC 版)
「レスレクシオン・マリア・デ・アスクエ」の記事における「バスク語教授時代」の解説
1888年にはビスカヤ県政府がバスク語教授職の志願者を募集し、アスクエ、ミゲル・デ・ウナムーノ(哲学者)、サビノ・アラナ(バスク民族主義者)らが受験したが、合格したのはウナムーノやアラナではなくアスクエだった。ビスカヤ県初のバスク語教授となると、30年間に渡って中等教育学校でバスク語を教え、その傍らでバスク地方の言語学や民俗学などを研究し、バスク語雑誌「エウスカルサレ」と「イバイサバル」の発刊を手掛けた。アスクエはバスク愛国者とみなされており、サビノ・アラナやラモン・デ・ラ・ソトなどのバスク民族主義者とも付き合いがあったが、カルリスタとはみなされておらず、またアラナやソトなどとは特にバスク語の正書法などの点で頻繁に意見が対立した。アスクエはバスク語とバスク文化に熱中し、政治的活動は回避しようと試みていたが、バスク語作家やバスク文化の支持者は長年アスクエ派とアラナ派に分かれて対立した。
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