バイバルスと信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 19:34 UTC 版)
バイバルスは熱心なスンナ派の信仰者であり、篤実な信仰心を持っていた。1266年から1268年にかけてメッカ、メディーナのシャリーフ(預言者ムハンマドの子孫)の争いに介入し、ヒジャーズに遠征を行った。1269年にバイバルスはメッカ巡礼を果たし、配下の将軍をメッカの総督に任じた。 バイバルスはスンナ派の四大法学派を公認し、それぞれの学派を代表する4人のカーディー(裁判官)を任命した。孤児、宗教財産、国庫に関する裁判は従来通りシャーフィイー派の大カーディーが担当したため、シャーフィイー派の大カーディーが最高位に立ち、ハンバル派、マーリク派、ハナフィー派の大カーディーがこれに続く地位に置かれた。スンナ派の四学派が名目上は対等の立場を持ったことでスンナ派全体の権威が向上し、カーディーの任命によってウラマー(法学者)への統制力も強化された。さらに国家の主要な収入源となっていた売春を厳しく取り締まった。 1261年にバイバルスはマムルーク朝に亡命したアッバース朝最後のカリフの叔父ムスタンスィル2世をカリフとして擁立した。ムスタンスィル2世を伴ってカイロで華やかな行進を行い、行進にはイスラム教徒だけでなくユダヤ教徒、キリスト教徒も参加していた。カリフの擁立に伴い、北インド、モロッコのイスラーム政権に使節を派遣してフトバにムスタンスィル2世の名前を入れることを要求し、イスラーム世界の各国からカリフの擁立は好意的に受け止められた。バイバルスはマムルーク朝のスルターンがカリフの庇護者となることで、武力でアイユーブ朝を打倒したマムルーク政権の正統性を示す役割を果たしたと考えられている。カリフを自称するハフス朝のアル=ムスタンスィルとの関係は悪化するが、対立は深刻なものにはならず、1270年にルイ9世がチュニスに向かった際にバイバルスはハフス朝に支援を申し出ている。ムスタンスィル2世の死後、カイロに亡命したハーキムを新たにカリフとして擁立し、疑似的なカリフ制度が長く続いた。バイバルスはカリフが必要以上に力を持つことを危険視しており、ハーキムにはカイロ市民との接触を禁じていた。 輿(マフミル)を乗せたラクダを先頭とする巡礼団をメッカに派遣し、カアバ神殿にかける絹の覆い(キスワ)を贈答する、年に一度の儀礼がバイバルスの治世から開始された。カリフの保護と合わせて、バイバルスは聖地の保護者であることを内外に誇示することで、スルターンの権力を正当化する意図を有していたと考えられている。メッカ・エルサレム2つの聖地、巡礼者の保護に注力したバイバルスは、「両聖地の保護者」を自称した。
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