バイオテック株式会社設立
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「執行草舟」の記事における「バイオテック株式会社設立」の解説
この頃、ミクロサイエンス研究所の名称で、個人研究として発酵菌及び食物の関連について実地研究を開始する。精神的確立において岩波書店が刊行し始めた『内村鑑三全集』全四十巻がすべての研究の根幹となり、「絶対負」という独自の思想を探求することになる。1984年、妻の死を機に、菌食・ミネラルによる酵素食品の会社であるバイオテック株式会社(現・株式会社 日本生物科学)を設立する。バイオテック株式会社は創業時、中央区日本橋本町にあるビルの一室に事務所を構えた。単なる健康のためになる食品ではなく、「自己の生命の燃焼を補完し、自分らしくきちんと死ぬために開発」した製品である。この「絶対負」の思想を裏打ちする科学としては、カナダのC.Eドールマン博士の菌や腸内細菌の研究、ルイ・パストゥールの免疫学と細菌学、南方熊楠の粘菌学、サー・アレクサンダー・フレミングの細菌学実践を土台とした。また製品化にあたって、父の友人でもあった聖マリアンナ医科大学学長の戸栗栄三博士に助けられ、微生物学教室の施設や研究所を使わせてもらう。 1986年には、製造部門として、群馬県藤岡市に日本生物科学株式会社(現・㈱日本菌学研究所)を設立し、1988年にはバイオテック株式会社 本社が港区虎ノ門に移転する。以降、2011年まで虎ノ門で営業を続ける。1989年、日本生物科学株式会社 新館工場が完成。完全一貫生産体制となる。1990年代には、担子菌類菌糸体の培養及び、有効成分の分離抽出法をはじめ菌類の特許5件を取得。また独自の生命燃焼論と思想・哲学を広めるための社内報の刊行が開始される。以降、10年間に亘って刊行される。 2001年、自身の名前を「草舟」と号す。号の由来は吉田松陰の「草莽崛起」から取られた。
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