ニューイングランドの諸植民地
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ニューイングランドの諸植民地」の解説
「ニューイングランド」、「ロードアイランド植民地」、および「コネチカット植民地」も参照 ジェームズタウンが南部のヴァージニアに創設された頃、ロンドン近郊の寒村から新王ジェームズの宗教政策に失望した少数の清教徒が低地地方へ移住したがそこも安住の土地ではなく、1620年にはメイフラワー号に乗って新大陸に旅立った。ヴァージニアのはるか北方にプリマス植民地を築いた清教徒たちは信教の自由を求めて移住を繰り返したことから、自らを巡礼者になぞらえた。これがいわゆる「ピルグリム・ファーザーズ(巡礼父祖)」であるが、実際にはこの集団(約100名)に女性が含まれていた点がそれまでとは違っていた。家族単位の移住と入植、この集団の歴史的な新しさは、むしろそこにあったのである。 ニューイングランドにおいて、プリマスよりもはるかに規模が大きく、やがてそれを吸収合併することになるのがマサチューセッツ湾植民地である。1630年、カンタベリー大主教ウィリアム・ロードによって清教徒迫害が始まると、ここには建設最初の年に1千人以上、以後10年あまりで約2万人の移住者が入植した。ここでも移住者の4分の1は女性であった。マサチューセッツの植民地で中心となったのは、清教徒たちのなかでもイングランド国教会から分離せずにキリスト教信仰の模範となるべく行動した「非分離派」であり、その指導者は本国で治安判事の経験をもつジョン・ウィンスロップであった。ウィンスロップが1630年の航海に際して語った説教『キリスト教的慈愛のひな形』は、アメリカ史やアメリカ文学の古典中の古典として知られ、そこには神の選民の砦を指す「丘の上の町」という聖書的な暗喩を用いた強い使命感が述べられている。この使命感には現代のアメリカ国家の自己理解に通じるものがあるうえ、その理念先行型の国柄の一端を示している。 しかし、マサチューセッツの非分離派は回心の経験を有する信徒の連帯を重んじて会衆派の教会をつくり、自由民の資格もその教会員に限って宗教上の目的を有する非寛容的な神政政治をおこなった。これに対し、分離派に属するバプテスト教会の牧師で1631年にケンブリッジから移住したロジャー・ウィリアムズは、イギリス国教会から分離しようとしない会衆派を批判して宗教的寛容の思想を説いた(詳細は後述)うえ、植民地政庁が先住民(ネイティブ・アメリカン)から土地を購入していないことにも疑義を呈し、土地の譲渡権は国王にではなく先住民にあると主張した。一方、1634年に移住したバプテストでジョン・コットン(英語版)を師と仰ぐアン・ハッチンソンは、反律法主義を掲げてカルヴァンの予定説を極限まで徹底させ、会衆派の教義に挑戦した(アンティノミアン論争)。1637年、植民地の指導者はハッチンソン夫人を総会に召還して審問し、ウィンスロップ総督は彼女に植民地からの追放処分を下した。また、ウィリアムズやハッチンソン女史以上にマサチューセッツでさらに厳しい弾圧を受けたのがクエーカー(フレンド派)の人々であり、1650年代後半から1660年代初頭にかけては4名のクエーカー教徒が絞首刑に処せられた。 ロジャー・ウィリアムズは、1636年にマサチューセッツ湾植民地から宗教的迫害を受けて逃げてきた仲間たちとともに、政教分離原則にもとづくロードアイランド植民地を設立し、その本拠地を「プロビデンス(神の摂理)」と名づけた。そこは先住民ナラガンセット族の首長カノニカスから贈与された土地であり、ここでウィリアムズはユダヤ教徒も対象に含めた信教の自由を実現すべく1644年に本国政府から特許状を取得し、北米植民地においてはじめて信仰の自由と政教分離を保障する自治領植民地を建設した。そこでは、「公共の事項」における多数決原則と「良心の自由」を定めた憲法が制定されたほか、聖職者に対する公的資金を援助することなく、教会と国家が分離された。一方、アン・ハッチンソンは先住民よりアクィドネック島(ロード島)を購入し、夫のウィリアム・ハッチンソン、仲間のウィリアム・コディントン(英語版)、ジョン・クラーク(英語版)らとともに現在のロードアイランド州ポーツマスに入植した。 1636年に建設されたコネチカット植民地では、政教分離を主張してボストンの長老と衝突して追放された清教徒の牧師トマス・フッカー(英語版)がハートフォードの町を建設した。コネチカットでは1639年にフッカーの思想を反映し、被統治者の同意を原則とする民主的な基本法が定められた。なお、コネチカット植民地はイングランド王政復古後の1662年に国王チャールズ2世から特許状を与えられ、ニューヘイブン植民地を併合して自治領植民地として発展した。 ニューイングランドの清教徒植民地では、各タウン(英語版)の中心部にミィーティングハウス(集会所)が設けられ、安息日ごとに集まっての礼拝が一般的であり、これを「タウンミーティング」と称したが、そこでは典礼を重視するカトリックや国教会とは対照的に、説教がきわめて重視された。カルヴァン派では説教によって聴衆を「真の宗教」へ導くことが目標とされたからであり、このことは植民地の文化形成にも大きく作用した。上述のウィンスロップやジョン・コットンは、優れた説教の語り手として知られている。しかし、タウン・システムの閉鎖性は上述したように宗教上・政治上の意見の対立を追放という形式での隔離によって正面衝突を回避する一方、急速に流入した多数の移住者を周辺の未定住地に集団的に押し流すものであり、他方では1637年のピクォート戦争において先住民ピクォート族が「サタンの手先」として「掃討」されたように、ある種の暴力性をはらむものでもあった。 自らの信仰にとって理想の地を求めて移住した清教徒たちが他の教派に対しては非寛容な共同体を建設することも、少なくなかった。タウン・システムが直接民主制的であったことは事実であるが、それは権利というよりも義務的要素の強いものであった。ニューイングランドでは1689年以前にも103人もの女性(主に中年)が「魔女」として処刑されているが、1692年の「セイラム魔女裁判」はこのような非寛容性を示す典型例である。当時のマサチューセッツ州セイラム(現在のダンバース)は厳しい禁欲を強いる清教徒社会であり、そこでは1692年3月以降に裁判が継続的に開かれては200名近い住民が魔女として告発され、数人の男性を含む20名前後が処刑、1名が拷問中に圧死、5名が獄死している。この魔女狩りはちょうどマサチューセッツ湾植民地の王領化の時期と重なっており、それにともなう住民の不安と共鳴する現象であったとも指摘されている。
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