ナイアガラ運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:18 UTC 版)
「W・E・B・デュボイス」の記事における「ナイアガラ運動」の解説
1905年、デュボイスはフレデリック・L・マクギー(英語版)、ジェシー・マックス・バーバー(英語版)、ウィリアム・モンロー・トロッター(英語版)ら幾人かのアフリカ系アメリカ人の公民権運動家とカナダのナイアガラの滝付近で会議を開き、アトランタの妥協に反対する綱領を作成した。これは1906年にナイアガラ運動(英語版)に取り込まれた。 デュボイスら「Niagarites」は、アフリカ系アメリカ人に対して運動の理念を公表したいと思ったが、黒人向けの定期刊行物の大半はワシントンを支持する出版社から刊行されていた。デュボイスは印刷機を購入し1905年12月に『Moon Illustrated Weekly』を創刊した。これは最初のアフリカ系アメリカ人向け挿絵入り週刊誌であり、デュボイスは同誌上でワシントンの立場を攻撃したが、8ヶ月で終刊となった。デュボイスは議論のための別の媒体として早くも1907年に『The Horizon: A Journal of the Color Line』を創刊し、フリーマン・H・M・マレー(英語版)、ラファイエット・M・ハーショー(英語版)と共同で編集した。 ナイアガラ運動の参加者は2度目の会議を1906年8月の奴隷制度廃止運動家(abolitionist)ジョン・ブラウンの生誕100周年にジョン・ブラウンが襲撃(英語版)したウェストバージニア州のハーパーズ・フェリーで行った。レヴァディ・C・ランサム(英語版)は演説で、ワシントンの主たる目標は、黒人が現在生きている社会において職を得るための教育であるとし、「今や、黒人の二つの階級が、...岐路に立っている。一方の階級は我々のこの屈辱的で不名誉な現状に辛抱強く従うよう勧め、他方は、屈辱を受け、貶められ、元の劣等な地位に戻されるような現状に従うべきではないと考えている。...後者にとっては金儲けと引き換えに人間性を手放すなどということは考えられないことだ」と語った。
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