ドイツ社会主義労働者党へ
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「全ドイツ労働者協会」の記事における「ドイツ社会主義労働者党へ」の解説
シュヴァイツァーはラッサールの親ビスマルク路線を継承したため、これに反発するマルクス系の社会民主労働党(ドイツ語版)(アイゼナハ派と呼ばれる。アウグスト・ベーベルとヴィルヘルム・リープクネヒトが指導)と長い抗争となり、ドイツ労働運動に深刻な内部分裂が生じていた。 しかしシュヴァイツァーの辞職後には全ドイツ労働者協会の親ビスマルク的傾向は減少し、また社会民主労働党もこの頃には小ドイツ統一に反対しなくなっていたので、両者を対立させる重要な論点がなくなっていた。さらに1874年1月10日の帝国議会選挙(ドイツ語版)で両派は同じぐらいの票数を獲得して共に議席を伸ばしたが、もし合同して選挙戦を展開していたら更に2、3議席取れている計算だった。この選挙結果がいきり立つ両者を鎮静化させる役割をもたらした。さらに官憲がラッサール派もアイゼナハ派も問わず弾圧を行っていたため、両者の連帯感は増した。特に検事ヘルマン・テッセンドルフ(ドイツ語版)による社会主義者弾圧はアイゼナハ派よりむしろ全ドイツ労働者協会に激しい弾圧を加えたため、アイゼナハ派の「ラッサール派は官憲の手先」という悪感情は急速に解消した(そのためベーベルはテッセンドルフを指して「合同の開拓者」と皮肉った)。 1874年10月10日にこれまで合同に反対してきたテルケが全ドイツ労働者協会を代表してリープクネヒトに合同を提案した。具体的な交渉は当時逮捕されていたハーゼンクレーヴァーの釈放を待つことになり、12月上旬にハーゼンクレーヴァーが釈放されると12月15日に両派の代表がベルリンで会合を持ち、初めて細目の合同条件を話し合った。今後の合同交渉は両派同数の委員を出し、双方の委員がそれぞれの綱領及び組織に関する提案を作成し、総務委員会は両派の草案を審議して最終案を作り、これを原案として大会に提出することになった。 1875年2月14日と15日にハーゼンクレーヴァーらラッサール派とリープクネヒトらアイゼナハ派の会合がもたれ(ベーベルは入獄中だった)、ここで新しい党の組織と綱領に関する草案が決定された。組織問題では、強固な中央集権体制をとること、一切の党機関は党の年次大会で選挙すること、党機関として議長2名、会計1名、書記2名の5名からなる幹部会、7人からなる統制委員会、18人からなる委員会を置くこと、両派の機関紙(当面並立して続刊)の編集部を設置することなどが決まった。綱領草案は両派の綱領を調和させた物となり、ラッサール派は労働収益全収、賃金鉄則、国家の補助による生産組合などを盛り込むことに成功し、アイゼナハ派は運動の国際性、労働階級の解放は労働者自身によってのみなされることを盛り込むことに成功した。 しかしアイゼナハ派のベーベルはこの草案に反対し、ロンドンのエンゲルスに合同問題の意見を求めた。これをきっかけにマルクスが書いたのが『ゴータ綱領批判』だった。しかしリープクネヒトらアイゼナハ派幹部はこれを発表すれば合同に差し障ると考えて握りつぶした。1875年5月のゴータ大会において両派はゴータ綱領(ドイツ語版)のもとに統一され、ドイツ社会主義労働者党(SAP)が結成されるに至った。
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