ドイツ社会主義労働者党
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ドイツ社会主義労働者党(ドイツしゃかいしゅぎろうどうしゃとう、ドイツ語: Sozialistische Arbeiterpartei Deutschlands, SAPD)は、かつてドイツに存在した政党。ただし、
- 1 ドイツ社会主義労働者党とは
- 2 ドイツ社会主義労働者党の概要
ドイツ社会主義労働者党
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「ドイツ社会民主党」の記事における「ドイツ社会主義労働者党」の解説
1875年5月22日から27日にかけてのゴータ大会で、ラッサール派とアイゼナハ派はゴータ綱領(ドイツ語版)のもとに合同してドイツ社会主義労働者党(SAP)を創設した。このゴータ綱領はほぼアイゼナハ綱領に沿ったものだったが、綱領草案を読んだマルクスはラッサール派の影響が強いとして批判した(『ゴータ綱領批判』)。例えば「労働者階級はまず民族国家内でその解放のために働く」という表現をラッサール特有の民族主義の影響と見做して「さぞかしビスマルク氏の口に合うことだろう」と批判した。他にも「賃金の鉄則」というラッサール的表現が入っていることや、「自由な国家」というブルジョワ的な目標を掲げる一方「プロレタリア独裁」についても「未来の共産主義社会の国家組織」についても記述がないことなどを逐条的に批判した。マルクスの抗議を受けてリープクネヒトは「民族的国家内で働く」の件を「かかる働きは国際連帯へ向かう予備的段階である」ことを明記する草案修正を施したが、それ以外の部分については修正を拒否して綱領を制定した。 ゴータ大会後も弾圧は続き、1876年3月にベルリン市裁判所がドイツ社会主義労働者党を違法として禁止したため、党は同年8月19日から23日に「一般社会主義会議」という名目で大会を開催。ここで中央機関紙を一元化し『フォアヴェルツ(前進)(ドイツ語版)』を同年10月からライプツィヒで発行することを決議した。 1877年1月10日に行われた帝国議会(Reichstag)の総選挙(ドイツ語版)において社会主義労働者党は得票率9%を獲得して12議席を獲得した。ビスマルクにとって直ちに脅威になるような議席ではないが、ビスマルクは社会主義者を「帝国の敵」と見做して忌み嫌っており、またビスマルク政府と不協和音が響き始めていた自由主義右派政党国民自由党(NLP)を再度政府の側に引き付けようという意図から社会主義者の活動を禁止する法律が目指された。1878年5月11日と6月2日の二度にわたって皇帝ヴィルヘルム1世暗殺未遂事件があり、保守系・政府系新聞によって社会主義の脅威が煽り立てられる中、総選挙での保守派の大勝を経て、10月19日に社会主義者鎮圧法が制定された。同法により既存の国家秩序・社会秩序を転覆しようとする社会主義・共産主義的な団体や活動(集会・祭典・行進・印刷物など)は禁止され、官憲は違反者を放逐できるようになった。また社会主義的な扇動に脅かされている地域は1年以内の戒厳令を布告できることになった。この社会主義者鎮圧法についてビスマルクは当初無期限での立法を望んでいたが、国民自由党からの要請で時限立法となった。 この法律により社会主義労働者党は官憲から徹底的な弾圧を受け、代議士が帝国議会で活動する以外は手も足も出なくなった。禁固刑に処せられた者は1500人に及び、ベルリン、フランクフルト・アム・マイン、ライプツィヒでは何度も戒厳令が布告され、約1000人の指導者が居住地を追われることになった。また社会主義者は「祖国なき輩(ドイツ語版)」として社会的にも迫害を受けた。しかしながらこれらの弾圧や迫害がかえって同党の結束力を高めることとなった。社会主義労働者党の党勢が衰えることはなく、むしろ拡大していき「赤い妖怪がどこの酒場にも現れるようになった」と評される状況になった。また党はドイツ国外、特にスイスに強固な組織を作るようになった。1879年からスイスで『ゾツィアルデモクラート(社会民主主義)(ドイツ語版)』紙を発刊し、毎週定期的に官憲の目を掻い潜って数千部がドイツ各地に配布された。 1890年の帝国議会選挙(ドイツ語版)では得票率のうえでは19%を獲得して第一党となるに至った(ただし保守系議員に著しく有利な選挙区制度により議席の上では第一党とはなれなかった)。
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