テーマと解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:11 UTC 版)
幸運と偶然 幸運と偶然はツルゲーネフの短編を通じて見られるテーマで、「ムムー」も例外ではない。物語で起きる事件は偶然の上に成り立っている。たとえば、ゲラーシムがムムーを最愛の相手として見つけるのは、タチヤーナが夫とともに出発したまさにそのときである。ムムーはやがて運命の犠牲となる。女主人の気まぐれな蛮行がその運命の原因である 。ツルゲーネフのこの仕掛けについて、何人かの批評家(ブリッグスが特に顕著である)は、不器用で「実にひどい」とすら呼ぶものの、本作においては他の作品ほど目立ってはいない。 愛と孤立 本作において広く論じられるテーマは、多くの登場人物の決定を左右する、愛情や孤立感の存在及び欠如である。 本作においては、愛情のない人間関係や事例が多く見られる。カピトンはタチヤーナを愛しておらず、女主人は家族がなく、本当に全編を通じて家族についての言及もない。作品の初めの方では、愛情の欠如は超えがたい障壁のようである。ゲラーシムがタチヤーナに恋を抱く中で、このギャップを埋めたり感情を表そうとしても、喋れないために克服できない。これは、しかしゲラーシムがムムーを見つけることで変化する。ムムーは最大限に純粋な愛情を示す。ゲラーシムが喋れないことは感情を表現する能力の妨げとならず、ムムーは疑いなくゲラーシムに捧げられた。 ゲラーシムのこれらの異なる愛は、物語を結びつける。タチヤーナの旅立ちとムムーとの出会い、最後にはムムーの死である。ゲラーシムがムムーを溺れさせる場面は結婚式を思わせ、悲恋というテーマを描き出している。この愛は一つには、ゲラーシムにとって代わりに見つけて愛し続けるものがないという点で、とても悲劇的である。 ゲラーシムは話さないために孤立しており、女主人は家から出て行くことを強いる。このように孤立させられて、ゲラーシムは愛を諦めることを余儀なくされる。ゲラーシムは愛を拒絶し続け、最後は一人のままで物語を終える。 発話障害 ゲラーシムを耳が聞こえず話すこともできない姿に描いた点について、ツルゲーネフがどのように偉大な観察者の役割を与えたのか、学者は議論している。ゲラーシムが感覚にハンディキャップを持つことで、作者は正確にゲラーシムの意識を代弁したり、考えや感情を推論することができない。物語の最初の場面では、ゲラーシムがほかの仲間と十分な意思疎通できないことで、ゲラーシムは孤立させられ、誤解を受けている。 学者は、ゲラーシムが犬をムムーと名付けることで、最後には言葉を得たのではないかと示唆している。彼がひとたび発した意味のないうめき声は意味ある言葉となり、他者と共有することができる。しかし、この言葉は長くは続かず、ゲラーシムはまもなく犬を死なすように命じられる。ムムーの死によって、ゲラーシムは持つことができた唯一の言葉もまた失った。 ラストでの反抗 評論家の意見は、ゲラーシムが最後に見せた二つの行動をめぐって割れている。何人かの評論家は、ムムーの殺害は「奴隷化された英雄の最後の示威」であると見なし、故郷への帰還は敗北だとしている。ゲラーシムが運命を諦めた奴隷なのか、それとも解放された反抗者なのかという議論は今なお存在する。一部の学者は、犬を殺すことは最終的な屈服である一方で、ムムーを殺した後に初めてゲラーシムが強さが自由になる方法だと気づくのだと考えている。 ゲラーシムは脱走する前に自分の品をまとめに帰宅しなければならなかったので、ムムーを殺す前に逃走を考えていなかったことをテキストは裏付けている。さらに、ツルゲーネフが動物のシンボリズムを使っていることによっても、最後の解放という考え方は支持される。ゲラーシムが女主人の領地に最初に連れてこられたとき、強いが飼い慣らされた動物である雄牛に譬えられている。対照的に、物語の最後ではゲラーシムは荒々しくて支配を受けない生き物であるライオンと比較されている。
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テーマと解釈
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「ヘンリー四世 第1部」の記事における「テーマと解釈」の解説
最初の出版の時の題名は『ヘンリー四世記(The History of Henrie the Fourth)』で、表紙には「ヘンリー・パーシー(ホットスパー)」「ジョン・フォルスタッフ」の名前もあるが、「ハル王子」の名前は見えない。現在では、観客も役者もハル王子は成人に達しているという解釈で、この劇の真の主役はハル王子であると見ているが、それまでは、ジェームズ・クイン(James Quin)やデヴィッド・ギャリックらがホットスパーを演じたころから、ハル王子はあくまで脇役の一人でしかなかった。 「成人に達している」という解釈で、フォルスタッフとのつきあいや居酒屋の庶民生活はハル王子に人間味と、エリザベス朝の人間観を与える。最初、ハル王子は熱烈なホットスパーと較べると迫力に欠けているように見える(なお、シェイクスピアはハル王子との引き立て役のつもりでホットスパーを実際の年齢より若く、23歳くらいに描いている。ちなみにハル王子の実際の年齢は16〜17歳)。多くの人はこの歴史劇をハル王子が成長してヘンリー五世になる話と解釈することだろう。ハル王子は中世イングランドの政治活動に『聖書』などの「放蕩息子の寓話」をあてはめた、シェイクスピアの全登場人物中おそらく最も英雄的な登場人物である。しかし、ハル王子を批判的に、芽を出しかけたマキャヴェッリと見る者もいて、そう考えて読むと、それは「理想的な王」ではなく、フォルスタッフを徐々に拒否していくことは冷たい現実政策(Realpolitik)を選ぶ、ハル王子の人間性の拒否と取れる。
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