ティークリッパーとして
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「カティーサーク」の記事における「ティークリッパーとして」の解説
カティサークは、中国からイギリスまで107日から122日で紅茶を輸送することができた。船倉には船員専用のベットは無く紅茶は全てブリキ製の大きな缶に詰めて湿度を乾燥する様に品質を保ち、それらを船倉の1番下の100個近く並べ置かれ船員たちはそれらの上に多くのハンモックを吊るして寝起きさせていた。船長のみが船首部分に部屋を持ったぐらいであった。とにかく品質の高いティーを1番早く運んだ船こそ良い運送費が支払えるとあり競争して成るべく短期間でインドからティーを運べば多くの利益が手に入った。その為に他の船より1日でも短い日数で着く事が大切であった。ティークリッパーとして極めて優秀な成績であったが、最短輸送期間の記録を更新することも、ティーレースに勝利することもできなかった。 1870年2月16日、ロンドンから上海へ向けて出発。船長はムーディーであった。新茶を積んで6月25日に上海を出発し、110日でロンドンに着いた。「カティーサーク」のライバルであった「サーモピリー」は福州からロンドンまで、所要106日であった。一方、汽船はより早く新茶を運んでいた。 1871年は「カティーサーク」は出遅れ、9月4日の上海出発であった。航海日数は107日であった。 1872年は「サーモピリー」との対決となった。両船共に6月17日に上海を出港[要出典]。7月17日に両船はスンダ海峡に至り、インド洋では東南東の貿易風に乗って疾走した。「カティサーク」は「サーモピリー」を400海里引き離したものの8月7日には無風となり、続いて暴風雨に遭遇。8月15日、「カティーサーク」は舵を失ってしまった。仮舵が作られたが、その間に「サーモピリー」に追い抜かれることになった。結局、上海からの所要日数は「サーモピリー」より1週間多い123日であった。この航海の後、乗船していた船主の弟と舵を失った際に意見の対立が生じたことが原因でムーディー船長は辞職した。ムーディーの辞職に伴い、元船長であったムアが復帰して「カティーサーク」船長となった。 帆船は石炭を搭載する必要がないため積載量が大きく、給炭地に寄航する必要もない。また蒸気船の船体に用いられる鉄は紅茶を劣化させると信じられていたために、蒸気船が普及した後も、しばらくの間は帆船が紅茶輸送の主役であった。しかしスエズ運河の開通により、状況が大きく変化した。スエズ運河はほとんど無風であり、帆船が通過できないのである。そのため、紅茶輸送の主役も蒸気船へと移行していく。 新茶輸送の担い手が汽船に代わると、ティークリッパーはオーストラリア向けの貨物輸送を行うようになった。「カティーサーク」も11月26日にロンドンからメルボルンへ向かった。それから上海へ向かって茶を積み、1873年7月9日に上海を出発。ロンドンまでの日数は117日で、遅れて出発した「サーモピリー」にも抜かされていた。ムアは陸上の仕事に戻り、ティプタフトが次の船長となった。 12月13日にシドニーへ向け出発し、シドニーからは石炭を上海へ運んだ。それから茶を積むため漢口まで揚子江を遡行した。もはや、そうしなければならない状況になっていた。この後、1875年、1876年、1877年と茶を輸送したが、1877年が「カティーサーク」が茶輸送を行った最後の年となった。 1877年11月3日に「カティーサーク」はロンドンからシドニーへ向けて出発したが、強風のためダウンズ泊地に避難。同地で嵐の中、他船と衝突し、さらに座礁しそうにもなったがタグボートに助けられた。 12月2日に「カティーサーク」はロンドンを出発してシドニーへ向かった。同じ日に「サーモピリー」もメルボルンへ向けて出発しており、一時は8日差をつけられたものの、最終的には「カティーサーク」の方が早く目的地に到着した。シドニーからは上海で石炭を運び、それから漢口へ向かうも十分な茶を確保出ず、上海から長崎への石炭輸送に従事した。その後、ティプタフト船長が病死。一等航海士のウオリスが船長となった。シドニーから上海への石炭輸送を行った後、茶からフィリピンの産物に切り替えた他のティークリッパー同様にマニラへ向かい、ニューヨークを経て1880年3月5日にロンドンに戻った。ここに至って、ウィリスは「カティサーク」のティークリッパーとしての運用をあきらめた。
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