チカマウガ戦争
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チカマウガ戦争(チカマウガせんそう、英: Chickamauga Wars、1776年 - 1794年)は、アメリカ独立戦争に併行して、チェロキー族の指導者ドラッギング・カヌーに率いられたインディアン達が、イギリスのアメリカ植民地からやってくる開拓者の侵略に対抗して、その土地を守るために続けられた一連の闘争である。戦争の地域は、バージニア植民地からジョージア植民地にかけてのアメリカ合衆国南部と、当時の考え方では西部であったケンタッキーやテネシーにまで拡がった。チカマウガという名前は、アメリカ植民地の人々がドラッギング・カヌーとその追随者のことをそう呼んでいたことによっており、チカマウガという人や部族がいたわけではない。ドラッギング・カヌーは多くのインディアン部族の力を結集したが、その時々の状況に応じて、イギリス、フランス、あるいはスペインの支援を受けた。
- ^ http://www.tcarden.com/tree/ensor/Watag.html "Watauga Petition". Ensor Family Pages.
チカマウガ戦争
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詳細は「チカマウガ戦争」を参照 チカマウガ戦争はアメリカ独立戦争に巻き込まれたチェロキー族と入植白人の間の一連の紛争であり、1794年まで続いた。チカマウガとは、最初はオーバーヒル集落から、後にはローワー集落、バレー集落およびミドル集落のチェロキー族が加わり、ドラァギング・カヌーたちの一団が、南西のチカマウガ地区(テネシー州チャタヌーガ)に、後にはファイブ・ローワー集落に住んだ者達を、白人が「チカマウガ」と呼んだものである。 これらの集落では、クリーク族、白人の王党派、逃亡黒人奴隷、およびチカソー族も加わり、後にはチカマウガ・チェロキー族戦士が100名北方に移動したのと入れ替わりに加わった、100名以上のショーニー族および他の部族70名があった。当初の攻撃目標は、ワトーガ川、ホルストン川およびノリチャキー川沿い、さらにテネシー東部のカーター渓谷の入植地とされ、1780年にはナッシュボロ砦を始めとするカンバーランド川沿いの入植地やケンタッキー、さらに後にはバージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナおよびジョージアまでにも拡がった。チカマウガ連合による攻撃の規模は、一握りの戦士による急襲から400から500名、時には1,000名を越える大部隊によるものもあった。ドラァギング・カヌーに近い同盟者アレクサンダー・マギリブレー一派の同盟下の北部ムスコギー族(クリーク族)はしばしばチカマウガの行動に加わり、また単独でも行動した。 カンバーランド川の入植地はチカソー族、北方のショーニー族およびデラウェア族からの攻撃を受けた。ドラァギング・カヌーやその後継者であるジョン・ワットの作戦行動は、北西部の作戦行動と連携して行われることがあった。これに対する植民地白人が採った手は、平和な地域のチェロキー族集落を破壊し尽くすということであり、どちらの側も人命に関して大きな被害を出した。この戦争は1794年のテリコ・ブロックハウスの条約で終結した。
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