シドニー湾奇襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 00:20 UTC 版)
「シカゴ (CA-29)」の記事における「シドニー湾奇襲」の解説
5月14日午前3時、シドニー方面の監視をおこなっていた伊29は、ウォースパイト型戦艦と駆逐艦を発見して追跡したが振り切られ、目標がシドニーに入港したのを確認した。潜水艦3隻(伊22、伊24、伊27)はトラック泊地で水上機(甲標的)母艦千代田より特殊潜航艇甲標的を受け取り、甲標的を搭載して5月18日に出撃した。飛行偵察でも、シドニー湾に戦艦1隻と大型駆逐艦の存在を認める。23日、伊29は黎明飛行偵察を実施し、修理中とおぼしき戦艦や大型巡洋艦数隻を認めた。5月29日黎明、伊21より発進した零式小型水上偵察機は、シドニー湾の事前偵察を実施した。英戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) を探したが見当たらず、ガーデン島付近で大型艦2隻を発見し、米戦艦および米重巡洋艦と報告した。この日、シドニー湾にはシカゴのほか、豪州海軍重巡キャンベラ (HMAS Canberra, D33) 、軽巡アデレード (HMAS Adelaide) などが停泊していた(シドニー湾在泊艦艇一覧)。日本軍は甲標的による奇襲攻撃を決断した。 5月31日深夜から6月1日未明にかけて、シドニー停泊中のシカゴは、攻撃してきた甲標的を対空砲により迎撃した。シカゴ艦長ハワード・D・ボード (Howard D. Bode) 大佐は陸上におり、シドニー要港司令官グールド少将と夕食をとっていた。 21時57分、シカゴは艦尾後方300メートルに潜水艦の司令塔を発見して応戦を開始、照射砲撃をおこなった。日本軍特殊潜航艇は3隻侵入してきたが、1隻(伊27搭載艇。第14号艇:中馬兼四大尉、大森猛一曹)は防潜網に絡まって自爆した。他の甲標的2隻は漁船を追尾して湾内に侵入した。このうち、伊24搭載艇(伴勝久中尉、芦辺守一曹)はシカゴに向けて魚雷2本を発射した。しかし魚雷は2本ともシカゴに命中せず、まず1本はガーデン島東岸に打ちあがった。もう1本はガーデン島の岸壁に命中し、爆発でガーデン島に係留してあった宿泊艦クッタブル (HMAS Kuttabul) が沈没し、その近くで係留されていた蘭潜K IX(オランダ語版)も損傷した。 シカゴはこれ以上の攻撃から逃れるべく、駆逐艦パーキンス (USS Perkins,DD-377) 等とともに急遽外洋に向けて出港することになったが、その途中で伊22搭載艇(第21号艇:松尾敬宇大尉、都竹正雄二曹)とすれ違う。松尾艇の魚雷が艇首部損傷により発射できず、さらに松尾艇の体当たり攻撃も小接触に終わって頭部の魚雷は爆発せず、シカゴは難を逃れた。特殊潜航艇3隻はすべて未帰還となり、オーストラリア側に収容された戦死者4名の遺骨は、貨客船鎌倉丸で日本に戻った。 シカゴを雷撃した伴艇(伊24発進の甲標的)は2006年になって海底で発見された。2007年にフリゲート艦ニューカッスル (HMAS Newcastle, FFG 06) やメルボルン (HMAS Melbourne, FFG 05) において、オーストラリア軍や海上自衛隊およびシドニー奇襲作戦の関係者を招いて記念式典がおこなわれた(伊24発進の甲標的発見と戦争遺産登録の経緯)。
※この「シドニー湾奇襲」の解説は、「シカゴ (CA-29)」の解説の一部です。
「シドニー湾奇襲」を含む「シカゴ (CA-29)」の記事については、「シカゴ (CA-29)」の概要を参照ください。
- シドニー湾奇襲のページへのリンク