シディブジッド(Sidi Bou Zid)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:50 UTC 版)
「カセリーヌ峠の戦い」の記事における「シディブジッド(Sidi Bou Zid)」の解説
詳細は「シディブジッドの戦い」を参照 結局、ロンメルは補給状態が改善されたことにより、アルジェリアの山脈の西方に存在したアメリカ軍補給基地を攻撃して、枢軸軍の側面におけるアメリカ軍の脅威を取り除くことを決定した。そして、ロンメルは山脈の内側の平野の占領には関心がなかったが、アメリカ軍の軍需物資を奪うことをアメリカ軍の行動を阻止することと同じぐらい重視、素早い行動を行った。 2月14日、アトラス山脈内部の平野(ファイドより西16km)のシディブジッドをドイツ第10装甲師団と第21装甲師団は攻撃した。激戦が一日中行われ、アメリカ機甲部隊は撃破された。そして3つの丘でアメリカ歩兵連隊がそれぞれ相互支援を行えないまま孤立した。そのため、その日の終わりまでにはドイツ第5装甲軍がシディブジッドを占領することとなった。アメリカ軍は反撃を行ったが、2月16日、ドイツ軍はスベイトラ(Sbeitla)を占領するために移動を開始した。 一方、防衛拠点を失ったアメリカ軍は山の西側でより防御が容易なカセリーヌ峠、シビバ(Sbiba)峠で新たな防衛線を築くために撤退した。この撤退でアメリカ軍は将兵2,546名、戦車103両、車両280台、野戦砲18門、対戦車砲3門、そして、全ての対空砲を失った。 その後、連合軍がアルジェリア、枢軸軍がチュニジアを占領することで落ち着きを見せたが、依然、一触即発の状態であることには変わりなかった。 一方、北アフリカ東部で退却を続けるドイツ・イタリア軍、進撃を続けるイギリス第8軍との間にも常に緊張が走っていた。予備戦力・補給物資をすでに持たないロンメルはチュニジアへの撤退を公言、イタリア統領ベニート・ムッソリーニはリビアを失うことにより権威失墜を恐れ、リビアで戦うことを望んでいたが、すでにヒトラーの関心の薄れた北アフリカ戦線に増援がすぐに送られる見込みは存在しなかった。リビアのドイツ・イタリア軍がチュニジアに派遣されたドイツ第5装甲軍との合流が間近になったことで今後予想される連合軍のチュニジア攻撃に対する防衛計画の立案に入っていた。
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