グリュックスブルク家
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グリュックスブルク家(デンマーク語ではリュクスボー家、ドイツ語: Haus Glücksburg, デンマーク語: Huset Glücksborg / Lyksborg)は、現在のデンマーク王国とノルウェー王国の王家である。一族からはギリシャやイギリスの国王も出ている。
- ^ アウグスト・フィリップの兄アウグステンブルク公エルンスト・ギュンターはオルデンブルク家のもう一つの有力な分家アウグステンブルク家の祖となった。
- 1 グリュックスブルク家とは
- 2 グリュックスブルク家の概要
- 3 概史
- 4 家名について
- 5 ギリシャ国王
- 6 関連項目
グリュックスブルク家
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「ギリシャの歴史」の記事における「グリュックスブルク家」の解説
詳細は「グリュックスブルク家」を参照 オソン1世退位後、イギリス・フランス・ロシアの三国は次の王にデンマーク王クリスチャン9世の次男ゲオルクを選定した。1863年、ゲオルクはギリシャにおいてゲオルギオス1世として即位し、イギリスからイオニア諸島の割譲を受けた。1864年に新憲法が制定されたが、これには国民に主権があることとなり、王権は著しい制限を受けた上で政治改革が行われた。 初期においては政局が安定しなかったが、ディリヤンニスとトリクピスらの率いる二大政党時代を迎え、安定にむかった。この時期の1896年4月には第1回近代オリンピックが開催され、ギリシャが西欧国家の一員であることを欧米に示した。しかし、ギリシャ国内においてイギリス人とイタリア人観光客が殺害される事件が発生、このため、ギリシャは「半野蛮な国」と評され、莫大な賠償金を払ったにもかかわらず、匪賊の鎮圧を行えなかったギリシャの評判は低下した。さらに1893年、ギリシャは国家破産を宣言、1897年のオスマン帝国との戦争でも敗北したことにより、ただでさえ経済基盤の弱いギリシャはさらに借款を重ねたため、列強国らの介入を許すこととなった。そして、1898年には債権者代表で作られた委員会の監視下に置かれることになった 。 一方、クレタ島はオスマン帝国の統治下に置かれていたが、ギリシャへの併合を求め1866年、蜂起が発生するなど不穏な空気が流れていた。1888年、クレタ議会において急進派が多数を占めたことにより、オスマン帝国はこれに派兵、急進派たちはギリシャへの併合を求めて革命議会を設立、ギリシャへの併合を目指した。1896年5月、オスマン帝国軍がキリスト教徒を虐殺したことにより、アテネの民族協会はクレタへ派兵、さらにギリシャ海軍も艦隊を向かわせたが、ヨーロッパ列強の圧力に屈した。翌年2月にクレタを占領することを意図してゲオルギオス1世がクレタへ派兵したが、列強国がクレタを封鎖したためにこれは断念された。しかしギリシャの匪賊らが非正規軍としてギリシャ北部のオスマン帝国との国境周辺へ集結、一触即発状態と化した 。 4月になると両国の間で戦闘が発生したがギリシャはわずか30日で敗北した。しかし、これらの騒乱から列強国はクレタに自治を与えることが決定、さらに1898年にはゲオルギオス1世の第二子、ゲオルギオス公がクレタ総督に着任、司法顧問にその後ギリシャ政界に名をとどろかすこととなるエレフセリオス・ヴェニゼロスが着任した。後に、ヴェニゼロスとゲオルギオス公との対立が表面化したことにより、ヴェニゼロスは総督の交代とギリシャへの併合を主張して革命宣言を行ったが、国際監視委員会の介入により、改革されることが決定、新たな総督としてザイミスがギリシャから送られた 。さらに1908年、オスマン帝国で青年トルコ人革命が発生したことにより、クレタ島はギリシャへの併合を宣言したが、これは列強三国の圧力のために、断念された。 さらにマケドニアでもセルビア、ルーマニア、ブルガリアの各国が1878年のベルリン会議によって独立を承認されたことにより係争地域と化し、各国はマケドニアに民族学校を設立するなど、民族意識の向上を図り、自国に有利な条件を作り出そうとしていた。特にギリシャはブルガリアと対立することとなった 。
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