カナダ移住後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 02:45 UTC 版)
カナダ政府の制度は自作農個人に農地を提供することを基本としていたが、ドゥホボール派にはメノナイトなどと同様に村単位で生活することが認められた。さらに兵役免除も認められた。ドゥホボール派の入植地として現在のサスカチュワン州に、人口1,000人ないし3,500人からなる4箇所が造られた。村はロシア式に造られ、ロシア語で元と同じ名、または新たに宗教的な名がつけられた。 しかし当地の冬はザカフカジエと比べものにならないほど寒かったため、農業を断念し鉄道建設などの仕事に就く人も出てきた。1902年に移住し再び指導者となったP・V・ヴェリギンは、土地の私有化を防ぐため、土地をコミュニティの名で登録しようとしたが、カナダ政府は個人名で土地を登録させることにした。多くのドゥホボール派信徒はこれを拒否したため、1907年には三分の一以上の土地が公有に戻ることとなった。その後さらに問題となったのは「ドゥホボール派はカナダ国民すなわち大英帝国臣民として忠誠を誓わねばならない」という内相の方針である。これによりドゥホボール派は次の3派に分裂した。 個人所有派(Edinolichniki):1907年、10%ほどの信徒が参加した。信仰は維持したが、土地の共同所有は廃止し、指導者を中心とする伝統的生活は不要とした。 多数派(コミュニティ派:Community Doukhobors):P・V・ヴェリギンに忠実で、en:Christian Community of Universal Brotherhood(CCUB)を結成した。 自由主義派(en:Svobodnikiまたは「自由の子en:Sons of Freedom)」:1903年に興り、ヴェリギンの著作を熱狂的に支持し過激な行動に走った。 個人所有派はカナダ社会に容易に同化し、土地登録して大部分がサスカチュワンに残った。後(1939年)にはP・V・ヴェリギンの曾孫ジョン・J・ヴェリギンの権威を否定した。
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