イェニチェリとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:42 UTC 版)
「マフムト2世」の記事における「イェニチェリとの対立」の解説
オスマン朝マフムト2世のトゥグラによる署名。「アブデュルハミトの息子マフムト・ハン、永遠の勝利者」と読める 即位後、10月には帝国のアーヤーンをトプカプ宮殿に集めて一同の前で「同盟の盟約」(セムディ・イッティファーク)というアーヤーンの保護とアーヤーンとスルタンが互いに助け合う協定がなされた。 マフムト2世を即位させたアレムダルは自ら大宰相に就任し、セリム3世の編成した洋式軍を再建させるなど西洋化改革の復活をはかったが、11月にイェニチェリの蜂起によって殺害された。この時、イェニチェリ反乱の勃発を知ったマフムト2世はすぐさま、廃位・殺害の危険を逃れるため過去の例に倣い、唯一の帝位継承権者である異母兄、廃帝ムスタファ4世を殺害させた。 ムスタファ4世の死によって、マフムト2世が帝位継承権をもつオスマン家唯一の男子になったため、イェニチェリは彼を廃位することができず、マフムト2世は帝位を保った。だが、イェニチェリを中心とする反西洋化改革勢力のもとで政治的には長らく隠忍自重を余儀なくされた。しかしマフムトは長い時間をかけてイェニチェリ軍司令官に自分の支持者を少しでも多く配置していき、その一方で反改革派を地方の行政官にするなどの左遷によって数を減らしていき、場合によっては処刑することもあった。
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