アポマトックス
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「ジョシュア・チェンバレン」の記事における「アポマトックス」の解説
1865年4月9日朝、チェンバレンは、南軍の参謀士官が休戦の旗の下に近付いて来たとき、リー将軍が北バージニア軍の降伏を望んでいることを察知した。「サー」その士官はチェンバレンの前に立ち、「私はゴードン将軍の所から来た。リー将軍はグラント将軍から提案されていた降伏に関して考えを聞けるまで、敵対関係の中断を望んでいる」と告げた。翌日、チェンバレンは作戦本部に呼び出され、そこでチャールズ・グリフィン少将からチェンバレンが4月12日にアポマトックス・コートハウスで行われることになった正式な降伏儀式の一部として南軍歩兵のパレードを差配することになったと告げられた。 かくしてチェンバレンは南北戦争の中でも最も胸を打つ場面に立ち会うことになった。南軍兵達は道を行軍してきてチェンバレンの下にその武器や連隊旗を渡し、チェンバレンはその発案で自隊の兵士達に集まるように命じ、尊敬の印として「捧げ銃」をさせた。チェンバレンは次に起こったことを次のように書いた。 ゴードンは行軍隊列の先頭におり、儀礼で我々と張り合った。彼は伏し目がちに馬に騎り、沈痛さを通り越していたが、武器がガチャガチャ鳴った時に目を上げ、即座にその重大さを理解し、彼が熟達している最高の優雅さで馬を回し、その鐙に剣先を落とし、号令をかけた。このとき彼の後に付いていた大きな南軍降伏の記しが降ろされ、その少なくなった旅団が我々の右手に出て「捧げ銃」に返礼した。この間、我々の側ではトランペットや太鼓の音も無く、歓声も言葉や人の動きも無く、死者の横を過ぎるかのように厳かな静けさがあった。 チェンバレンの南軍兵に対する敬礼は北部の多くの者には不人気だったが、チェンバレンはその回想録『軍隊の通過』の中でその行動を弁護している。かなりの年数が経って、ゴードンはその回想録の中でチェンバレンのことを、「北軍でも最も騎士道精神のある軍人の1人」と思い起こしている。ゴードンは40年以上後にチェンバレンの証言を読むまで、このときの逸話に言及することは無かった。
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アポマトックス (1865年)
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「東部戦線 (南北戦争)」の記事における「アポマトックス (1865年)」の解説
詳細は「アポマトックス方面作戦」を参照 1865年1月、リーは南軍の総司令官になったが、この人事は南部を救うには少し遅すぎた。 ピーターズバーグの包囲戦が続き、グラントは部隊を東から西に動かして防御を破るか南軍を取り囲もうと何度も務めた。3月までに、両軍共にこの包囲線に莫大な労力を費やしていたので、リーはピーターズバーグから引くことを決断した。ジョン・B・ゴードン将軍が北軍包囲線の東端にあるステッドマン砦を攻撃して北軍の包囲線を短くさせる作戦を立てた。この作戦は当初はうまく行ったが、数的に劣勢だったので最終的には撤退を強いられた。 シェリダンがバレーから戻り、南軍の側面を衝く任務を与えられた。これに対応するためにリーはジョージ・ピケット少将の部隊を側面の防衛に送った。グラントはピケット軍を遮らせるために軍団を派遣したが、3月31日のディンウィディ・コートハウスの戦いでピケット軍を敗れなかった。翌4月1日、北軍は攻撃を続行してファイブフォークスの戦いでピケット軍の側面を衝き、南軍の左翼を崩壊させた。 ファイブフォークスでの勝利の後の4月2日、グラントは南軍の前線への全面攻撃を指示し、第三次ピーターズバーグの戦いとなって劇的な局面の打開に繋がった。その夜、リーはピーターズバーグとリッチモンドから兵を引き、アメリカ連合国政府を逃がす目的地である西のダンビルに向かった。そこから南のノースカロライナにいるジョンストン軍と合流する意図もあった。首都リッチモンドは4月3日に降伏した。 ここでの戦いはリーとシェリダンの競争になった。リーは撤退しながら補給を確保しようとし、シェリダンはリー軍の動きを遮断しようとした。4月6日、セイラーズクリークの戦いで、南軍の約4分の1(約8,000名、2個軍団の中心部隊)が切り取られ降伏させられた。南軍の補給列車の多くが捕獲された。4月9日、リーの最後の作戦として、ゴードンの消耗した軍団が北軍の前線を突破しリンチバーグの補給物資に辿り着こうとした。ゴードン軍はシェリダンの騎兵隊を簡単に追い払ったが、北軍第5軍団に行く手を抑えられた。ゴードン軍は三方を抑えられて降伏し、リーもアポマトックス郡庁所在地でグラントに降伏した。 その後も南軍による小さな戦闘と降伏が続いたが、4月9日のリーの降伏が南北戦争の実質的な終わりであった。南軍の主力と最大の将軍が敗れたことで、寛大で名誉有る条件の降伏の申し出がなされた。リーはその参謀数人の助言を拒否し、兵士達が田園地帯に逃げ込んでゲリラとして戦争を続けないようにすることを望んだので、それはその地域の回復に計り知れない助けとなった。
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