アサル朝
アサル朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:23 UTC 版)
殺されたダンカン1世の子で青年期までサクソン風に育てられ、サクソン好みのアサル家のマルカム・カンモーは、1054年にマクベスをスクーンの戦いで破り、1057年のランファナンの戦いで戦死させた。そして王位がケネス3世の曾孫ルーラッハ(マクベスの継子)に移ると、マルカムはその4ヶ月後ストラスボギーでルーラッハを討ち取り、マルカム3世として即位した。これ以降、1290年までアサル王家が支配することとなる。 マルカム3世は、サクソン王の血を引く王妃マーガレットとともにフューダリズム(西欧封建主義)を推し進めた。また、宮廷の習慣をサクソン方式に改め、教会の行事や典礼を伝統的なケルト式からローマ式に改革した(マーガレットは、その功績から後に列聖された)。イングランドへはたびたび侵攻したが、1071年にウィリアム1世に攻め込まれて、イングランドへの臣従を誓い、長男ダンカン(後のダンカン2世)を人質に取られた。マルカム3世はその後もイングランドへの侵攻を繰り返したが、1093年、5度目のイングランド侵攻において戦死した。 マルカム3世の弟であるドナルド・ベインはイングランド嫌いで知られ、中・南部を中心としたマルカム3世の政治に不満を持っていた北・西部の豪族たちに支持されて、マルカム3世の長男ダンカンを差し置いてドナルド3世として王位についた。ドナルド3世は王位につくや、宮廷の様式・習慣をケルト式に戻した。翌1094年、イングランドに人質となっていたダンカンはイングランド王ウィリアム2世の援助を受け、王位奪還に立ち上がった。ドナルド3世は敗れてわずか7ヶ月で王位を奪われ、ダンカンはダンカン2世として即位した。しかし、マルカム3世以来のイングランド臣従に対する重臣たちの反発は大きかった。半年後、ドナルド・ベインは支持者やダンカン2世の異母弟エドマンドたちと謀ってダンカン2世を殺害し、王位に復帰してエドマンドと共同統治を行った。それに対して、ダンカン2世の異母弟エドガーは1097年にイングランド王ウィリアム2世の援助を受け、ドナルド3世廃位の軍を起こし、ドナルド3世を捕らえて自ら王位についた。 エドガーは、イングランドに対して従順な姿勢をとる一方で、1098年にはノルウェー王マグヌス3世に屈服して、キンタイアやヘブリディーズ諸島といった西部領域をノルウェー領として認めた。こうした弱腰の外交のため、エドガーは「平和愛好者」と呼ばれた。また、彼はエディンバラ城をスコットランド王の王宮として使用した最初の王として知られる。エドガーは生涯を独身で通し、後継者として次弟アレグザンダー1世を王位につかせた。 アレグザンダーは兄エドガーの遺言通り、スコットランドの中部と北部のみを直接統治し、弟デイヴィッドには南部を統治させ、その他の地域は領主に任せきりであった。しかし、1115年頃に起きた北部のマリや西部のマーンズでの反乱には徹底的な討伐を行い、その過酷さから獰猛王(Fierce)と呼ばれることになった。アレグザンダー1世はイングランド王ヘンリー1世の庶子シビラを王妃とし、イングランドとの関係を深めていった。アレグザンダーの妹マティルダはすでにヘンリー1世に嫁いでおり、アレグザンダーはヘンリーの義兄であるとともに義理の子という関係にあった。アレグザンダーは宗教の面でもイングランド色を強め、キリスト教の影響力がさらに強まっていった。当時スコットランドはイングランド北部のヨーク大司教の管轄にあったが、ローマ教皇にこうした状況を改めるように請願し、またセント・アンドリューズの司教を独自に招致したりした。 1124年にアレグザンダー1世は世継ぎを残さずに死去したため、デイヴィッド1世が王位を嗣いだ。デイヴィッドは兄たちと同様イングランドで育ち、ノルマン風の教育を受け、ノルマン青年たちと親しく交わった。そういうこともあり、イングランドで知り合ったノルマンの友人たちをスコットランドに招き、要職につけた。こうして、デイヴィッドは司法・行政などをノルマン流に改革し、王権の強化に努めた。イングランドでスティーブンと姪マティルダの間に王位争い(無政府時代)が起こると、それに介入した。1136年、マティルダ支持を宣言してイングランド領に攻め込み、カーライル、ニューカッスルを占領した。1138年に、スタンダードでスティーブンに敗れ、いったんはカーライル、ニューカースルを失ったものの、1140年に結ばれたスティーブンとマティルダの和議の結果、ノーサンバーランド、カンバーランドなどの支配権を獲得した。このときにイングランドより得たカーライルの貨幣鋳造所により、スコットランドで初めてコインを鋳造した。これにより、スコットランドでコインが流通し、経済が発展した。宗教政策においても、司教区を整備し、教会や修道院を建設するなど、改革を進めたため、スコットランド国内にキリスト教が広く普及した。また、スコットランド化した英語(スコットランド語)が共通語として通じるようになった。デイヴィッド1世の統治した時代、スコットランドは国家と呼ぶにふさわしい国に仕立て上げられ、デイヴィッド1世は最初の偉大な王と呼ばれることになった。 1153年、マルカム4世が即位した。イングランド王ヘンリー2世に屈して、1157年に北部イングランドのノーサンバーランドとカンバーランドの領有権を放棄した。その跡を継いだウィリアム1世は、マルカム4世が奪われた北部イングランドの奪還を当面の目標とした。1168年、フランス王ルイ7世と秘密同盟(いわゆる「古い同盟」(Auld Alliance))を結んで、イングランドと対抗した。イングランドでヘンリー2世と三男リチャード(後のリチャード1世)、その弟ジョン(後のジョン王)の親子・兄弟の内紛が起こると、リチャードやジョンと同盟を結び、1174年にノーサンバーランドへ攻め込んだ。しかし、ウィリアム1世はヘンリー2世軍に敗れ、捕らえられた。そして、スコットランドはイングランドに完全に臣従すること、スコットランド南部の城にはイングランド軍が進駐することなど、屈辱的な講和(ファレーズ協定)を結ばされた。1189年にイングランド王となったリチャード1世は、十字軍に熱意を燃やし、その資金源としてスコットランドとの臣従関係を金銭で清算することを狙った。ウィリアム1世は1万マークを支払い、イングランドとの臣従関係の解除、スコットランド王としての主権回復、イングランド軍のスコットランドからの撤退を内容とするという協定(カンタベリー協定)が結ばれた。また、北部のマリ地方やケイスネス、サザランドを鎮圧し、国王の支配下に置くことに成功した。こうして、ノーサンバーランド以外の全スコットランドを掌握した。宗教面では、1192年にローマ教皇ケレスティヌス3世と交渉し、スコットランドの教会は、イングランドのカンタベリー大司教から独立し、自前の教会組織を持つことに成功した。また、ウィリアム1世は1199年にイングランド王となったジョンとノーサンバーランドを買い戻す交渉をしたが実らないままであった。ウィリアム1世は49年間在位していた。スコットランド国王として初めて紋章にライオンを用いたため、獅子王(William the Lion)と呼ばれる。 1214年、アレグザンダー2世が跡を継ぎ、1219年、イングランドと友好関係を復活させた。1238年ヘンリー3世に言いがかりをつけられたこともあるが、1249年にニューカッスルで和解した。1236年にヨーク条約でイングランドとの国境線を確定した。1261年、父アレグザンダー2世が果たせなかったヘブリディーズ諸島のノルウェーからの奪還に成功し、1263年には西部のクライド湾でノルウェー王ホーコン4世を討ち破った。3年後の1266年にパースで両国は条約を結び、ヘブリディーズ諸島は正式にスコットランド領となった。アレグザンダー3世の時代、イングランドとの関係は良好で、国内は安定し、「黄金時代」と呼ばれるほど国民生活が向上した。 アレグザンダー3世が嗣子のないまま亡くなり、長老・重臣たちはアレグザンダー3世の血を引くノルウェー王女マルグレーテ(マーガレット)を後継者に選出した。こうして、わずか3歳のスコットランド初の女王が誕生したが、マーガレットはノルウェーの王宮にとどまったままだった。隣国イングランドのエドワード1世はスコットランド王位の継承権を狙って、4歳の王太子エドワード(後のエドワード2世)とマーガレットの結婚を迫った。スコットランドの長老・重臣たちにはこの要求を拒否できず、1290年に2人の結婚に同意することをエドワード1世に通知した。スコットランド南部で結婚条件が取り決められたが、国境地帯にイングランド軍を配置するばかりか、スコットランドの王位継承権をイングランド側に移すという屈辱的な内容であった。結婚のためにスコットランドに渡ることになったマーガレットを乗せた船が、ノルウェーのベルゲンからスコットランドを目指した。荒海の中、9月26日にオークニー諸島に船が着いた。しかし、マーガレットは極度の船酔いによりわずか7歳で死去した。マーガレットの死によってスコットランドのアサル王家は断絶し、13人の王位請求者が乱立する事態となった。
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