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Ⅷ メイフラワー
「キキョウ」「はい」「リンドウ」「はい」「コスモス」「はい」 紀久子きくこが注文票を読みあげ、ミドリが花材を確認し返事をしていく。デンマーク産三輪自転車のマルグレーテを車庫からだして店先に停め、ふたつの前輪のあいだのカ…
「キキョウ」「はい」「リンドウ」「はい」「コスモス」「はい」 紀久子きくこが注文票を読みあげ、ミドリが花材を確認し返事をしていく。デンマーク産三輪自転車のマルグレーテを車庫からだして店先に停め、ふたつの前輪のあいだのカ…
『死にたがりの君に贈る物語』で若者たちから圧倒的な支持を集めた綾崎隼さん。待望の新刊『冷たい恋と雪の密室』が10月に刊行となります。 2018年に新潟県三条市で起きた大雪による電車の立ち往生事件を舞台に、高校生三人の恋と…
『死にたがりの君に贈る物語』で若者たちから圧倒的な支持を集めた綾崎隼さん。待望の新刊『冷たい恋と雪の密室』が10月に刊行となります。 2018年に新潟県三条市で起きた大雪による電車の立ち往生事件を舞台に、高校生三人の恋と…
「なにやってんですか、ミドリさんっ」 いきなり背後から呼ばれ、ミドリは驚きのあまり、危うくスケッチブックを落としかけた。 「ごめんなさい」蘭らんくんだ。前にまわってミドリの顔を覗きこみ、詫びてきた。「おどかすつもりはな…
「ミドリちゃん」 午前八時前に出社してすぐだ。水揚げをするために、店内の花桶をバックヤードに運びこむと、店長の李多りたに呼ばれた。 今日は金曜日、彼女は日の出とほぼ同時に、世田谷の花卉かき市場へいき、切り花を仕入れて…
シリーズ累計50万部突破!風早の街のどこかにあるという、不思議なコンビニ「たそがれ堂」。大切な探しものを見つけるために、いろんなお客さんが訪れて……。 温かな気持ちで心が満たされる、村山早紀さんの大人気シリーズが、7月に…
野球のユニフォームを身に着けた女の子達が十数人群がり、だれもがみな、満面の笑みで喜びあっている。いい写真だとミドリは思う。だが喜びを分かち合うことはできなかった。 三月下旬の一週間、埼玉にある球場で高校女子硬式野球の…
夕闇通り商店街にたたずむ、レトロな喫茶店「純喫茶またたび」。お代は、そのメニューに対する「思い出」を店主に話すこと――。 大好評の「夕闇通り商店街」シリーズ最新刊の刊行を記念して、サイン本があたるフォロー&リポストキャン…
フゥフフフフフフゥウン、フゥフフフフゥン、フゥフフフンフンフゥン。 なんの歌だ、これ。 自分でも知らないうちに鼻歌を唄っていた。だがなんの歌だったか、まるで思いだせない。首を傾げながらアトリエをでる。そして玄関脇に…
駅前のお花屋さんを舞台にしたハートフルストーリー『花屋さんが言うことには』(山本幸久さん)が大好評発売中。 あっという間に大きな重版となりました! 大ヒットを記念して、本をお店にできちゃうPOPプレゼントキャンペーンを開…
赤、ピンク、白、紫、オレンジ、黄色、青。 さまざまな色が並び、目にも鮮やかだった。これならば鯨沼くじらぬま駅からでてきたひと達の目を引くだろう。 いずれもスイートピーだ。花の中でもとりわけカラーバリエーションが豊富…
世界は無彩色でできている。 花も空も季節でさえ、 この目には灰色に映る。 けれども君がそばにいて、 当たり前に笑っていたから、 僕はずっと、大切なことに気づけなかった。 三百六十五日。 君が残した言葉のすべてが 僕に恋…
序章 あちらの屋台からは、串打ちの肉を焼く煙。 こちらの蒸せい籠ろからは、ふかした饅まん頭じゅうの匂い。 威勢のいい呼びこみの声と、雑踏を包む喧けん噪そう。 大通りでも靴を踏まれず歩けないほど、幻げん国こくの市し井せ…
プロローグ 涼りょう太たは三月二日という日付を忘れない。その日、六歳の彼は母を失った。 涼太の母は美しいひとだった。いつも忙しくしていて何日も出かけることが多かったが、家にいるときは彼の知らない歌をハミングしながら料…
プロローグ 1 『家族による代筆で、訃報を申し上げます。ミマサカリオリは二十六日の未明に、心不全で息を引き取りました。これまで応援して下さった皆様に、心より感謝致します。本当にありがとうございました。』 それは、S…
2 感謝された。オーナーからだ。 やはり面倒な客から逃げ出したというのが真実だったようで、夕方ごろに店へ帰ってきた彼女から「深川カヌレ」と小箱に書かれた洋菓子を渡された。門前仲町まで行っていたらしい。「急に怒り出す…
駅前のお花屋さんを舞台にしたハートフルストーリー『花屋さんが言うことには』(山本幸久さん)が3/5に文庫化! 「王様のブランチ」でも紹介された話題作で、文庫化を楽しみにしていた人も多いのではないでしょうか。 文庫化を記念…
十三 人に歴史ありというけれど 私のコーチをしてくれていた仁太さんは〈花咲小路商店街〉の名物男でした。 世界を放浪した後に商店街に帰ってきて、おじいさんがやっていた〈喫茶ナイト〉を受け継いで商売をやってきて。 商店街で…
黒い夏のうたかた③ 五年前のひどく蒸し暑い七月、宇う佐さ見み椎しい奈なは中学二年生だった──。 「はじめまして。わたしは雪ゆき代しろ宗そう司じといいます」 子ども相手にもかかわらず、そのひとは丁寧な口調で話しかけてき…
第一話 嗤う婚約者 1 第一印象は、堂というよりも蔵だった。 最寄り駅からバスに乗り三十分揺られた後、終点で下車。それから二十分ほど、人通りの少ない坂を上り閑静な住宅街へ進むと、ほどなくして古びた土塀に囲まれた一軒…
空から白い雪が、音もなく舞い落ちている。 今年も冬がこの街に訪れた。 心に積もる悲しみは、この雪のように溶けることはない。 もう何年も、冬に閉じこめられているようだ。 暗闇の中でじっと身を潜めて生きてきた。 なにも見な…
1 緑色の化け物が笑っている。 私はそいつに振り回され、子供の頃に海水浴場で大きな波に巻かれた時のように天地がわからなくなり、渦の中で回っている。 化け物の笑い声が遠のき、水中特有のくぐもった聴こえ方でさまざまな音…
序 雨が止やまない。 ずぶ濡れの体は冷えて、脇腹から流れる血だけが生ぬるい。 立ち上がる力は、虎とら彦ひこには、もうなかった。板塀に預けた背中も、地面に投げ出した足も、感覚がない。 あかん……とつぶやこうとしたが、す…
5 「どうしてですか?」 狭い個室に、悲痛な声が染み渡った。シンガー志望という本人の申告に相違ない、相変わらず、よく通る声だった。「先生の言う通り、もう少し大阪で頑張ろうと思って、心斎橋っていう駅にあるボイストレーニ…
プロローグ 「ねえ、ほかの女と浮気してるでしょ」 仕事終わりに陽よう介すけを駅前のカフェに呼び出し、そう告げた。 交際を始めて四ヶ月。今までで最長記録だった。 陽介とは私が勤めているネイルサロンで知り合った。彼は私の常…
序章 言葉を巡る旅への離陸 他者と向き合うとき、本当は私の話など興味ないんじゃないかと、疑いたくなる悪い癖がある。 相手の相あい槌づちが多いほどそうだ。自分を見ているようで、せつなくもなる。 私は、取材現場で無駄に相…
星を見る度に、性懲りもなく考えてしまう。 君が余命百食なんていう、悪魔のような病に侵されていなければ。 自分たちには、もっと別な日々があったんだろうなって。 人を振り回すのが生き甲斐の君は、腰が重い俺をいろいろな場所に…
滅亡しない日 教室から近い、二階女子トイレ。鏡に向かいながら、荒れた唇に、新しいリップグロスを塗る。ドラッグストアで、口コミサイトで大人気だというようなことが書かれた派手なポップが添えられていたものだ。薄い赤に色づく…
4 「先生、先生」 ヒールの音を鳴らして秋あき津つが後をついてくる。朝のS駅地下街は通勤の人々で混雑していた。途中で「あっ」という声と共にパンプスが脱げる音が聞こえて、秋津の靴のかかとが溝か何かに嵌まったのを察したが…
このたび『藍色時刻の君たちは』(東京創元社)にて、第14回山田風太郎賞を受賞された前川ほまれさん。前川さんの最新文庫『セゾン・サンカンシオン』(ポプラ文庫)は、前川さんいわく受賞作と「ある意味対になっている作品」。受賞を…
序章 中なか泉いずみ琥こ珀はくは十六歳の誕生日に、父から衝撃の事実を知らされた。「君は、猫又の生まれ変わりなんだ」 養父である劉りゅう生せいと血縁関係はない。両親は子に恵まれず、十六年前に子宝祈願の寺を訪ねた。偶然…
序 怨恨と謀たばかりと ──許さない。 許さない。許さない。許さない。絶対に、許さない。 眼前は白と薄闇に覆われ、大地は冷たい氷と雪に包まれている。 うずくまった身体に、凍てつく風と真っ白な吹雪の細かなつぶてが、絶え間…
3 「ねえ、あんたすごいね」 思い出すのはいつだって、パーテーションの上から顔を突き出してそう話しかけてきた時の彼女の顔だ。 狭い個人ブースの中でタロットカードを片付けながら、確か、こちらは彼女を睨んだと記憶している…
ポプラ文庫最新刊、『人間やめたマヌルさんが、あなたの人生占います』(音はつき)が11/7に刊行! それを記念して、最新刊のサイン本があたる、フォロー&リポストキャンペーンを行います。 <あらすじ> 喫茶店「マーヌル」には…
縦横四列に組まれた、十六のテーブル。 席に着いた者たちは静かにそのときを待っている。 腕組みをして俯うつむく青年、頰杖をついて周囲を眺める少年。 微笑を浮かべる女、大あくびをする男。 手元の駒を整える少女、整え終えた駒…
2 十二畳のリビングには、坂ばん東どうの呼吸音だけが響いていた。 南向きの窓からは朝の光が柔らかく差し込み、キッチンカウンターの上に置かれたアジアンタムの細かな葉がきらきらと輝いている。 脇腹にダンベルを引きつける…
第一話 甘くって酸っぱくて、しっとり爽やかな満月のウイークエンド 住宅地に凜りんとたたずむ、その洋菓子店には、ストーリーテラーと美しいシェフがいる。 ◇ ◇ ◇ 疲れた、もう会社辞めたい。 岡お…
プロローグ 二〇二〇年 二月五日 花束を持った男が祇ぎ園おん四し条じょう通どおりを東に向かって歩いていた。 午前七時。街はまだ眠っている。 普段ならこんな時間でも中国人の観光客たちが早朝営業のカフェ目当てに大勢出…
第一幕 ブランコ乗りのサン=テグジュペリ 拍手は雨のようだった。 羽衣の薄さをした幕が割れると、スポットライトが身体に降り注いだ。伸縮性が高く薄い生地しかまとわない肌に感じたのは、刺すような熱だった。その一方で身体の…
1 「なぜですか?」 愕然とした声が狭い個室に響いた。シンガー志望という本人の自己申告に相違ない、よく通る声だった。 その女性はオフショルダーの服から出た肩をいからせて膝に両手を置き、テーブルの上に並べられた七枚のカ…
これは、たかしくんがななほちゃんやお友達と遊んだ、ながい人生のなかの、ちょっとだけながい、おやすみの記録である──。 一章 鬱、ときどき休職当番 突然だが石いし狩かり七なな穂ほは肉じゃがが好きだ。 まず芋いもが好き…
上体を反らされる感覚がした。 両腕を後ろから引っ張られ、胸が開く。直後に篤あつしはヒュゴッと息を吸い込み、目を見開いた。飛びたくても飛びたてない夢を見ていた気がしたが、咳き込むと口から唾液が散り、目の前にはフローリング…
第一話「草くさ迷めい宮きゅう」 長く続いた武士の世が終わり、元号が「明めい治じ」と改められてから二十一年目、明治二一年(一八八八年)の二月初めのある日の昼下がり。 かつての加か賀が藩はんの城下町にして、今や石いし川か…
月曜日 萩原紗英 朝は白い。いつもそうだ。空だけでなく、目にうつるすべてのものが淡い。すれ違う人の顔も、遠くに見える建物も、すべての輪郭がぼやける。でもそれは、ただ目が完全に覚めきっていないせいかもしれない。電車の吊…
一走、受川星哉 「オン・ユア・マーク」 二度、軽くジャンプしてから地面に手をつき、まず左足、それから右足を後ろの踏ふみ切きり板ばんに乗せる。スターティング・ブロックのセッティングは足の長さで測るやつも多いけど、俺はメジ…
天井のシーリングファンが空気をかき混ぜている。 それにより春先にもかかわらず店内は斑(むら)なく高温多湿に保たれていた。「レプタイルズ・メサ」の中はいつも生き物の匂いと音に満ちている。ここの空調が常に熱帯じみた温度と湿…
第1章 夜の爪 赤黒い血液が染み込んだナプキンを、トイレの汚物入れに捨てた。最近は軽い腹痛を覚えることも多い。少量だが続いている不正出血は、胸に暗い影を落としていく。 ヒット曲を奏でるオルゴールの音を聞きながら、待合…
夜も更けつつある時間、帝都の下町に女性の悲鳴が響き渡る──。「きゃあああああ!」 夜闇に響いた声の主を、助ける者はいない。 女性は必死になって逃げていたものの、彼女を追う者はいなかった。 目には見えない〝なにか〟から、…
鳥籠の鳥は、なにを考えているのだろう。 外の世界を渇望したりしないのだろうか。 自由がないと絶望したりしないのだろうか。 無邪気にさえずる小鳥を眺めながら、少女はそっと息をもらす。 夏の盛り。外の世界は眩しいくらいなの…
原田ひ香さんの最新作『図書館のお夜食』の第一章をマンガで公開中! 作品の雰囲気を、お気軽にお楽しみください! 気になる続きは、書籍にてお楽しみください! ★書誌情報はこちら
明治三十七年 四月「風が入ってくるな」 夕飯の後片付けをしていると、五左衛門がふと顔を上げ食事場と奥の三畳間を仕切る襖に目をやった。襖の上のほうに模様付きの横格子があり、外からの風が入ってきている。四月なので風はさほど…
序章 朱色や金色に塗られた柱に軒反りの屋根の建物が立ち並び、枝垂れ柳が風にさらさらと葉を揺らす。瓦は全て国色である碧みどり色で統一され、整然とした美しさのあるその場所は、四し獣じゅう封ほう地ちの西側を治める誠セイ国の…
君の涙 やけに蒸し暑い日曜日の深夜。僕は部屋の片隅にある扇風機のスイッチを入れ、勉強机に向かった。 椅子に腰掛けてノートパソコンを起動し、映画やアニメなどを視聴できる動画配信サイトに飛び、僕に刺さりそうな物語を物色す…
北口改札を出ると、女性はまっすぐ智とも子この家とは正反対の方面に向かった。 周りには終電を降りた北口利用者がちらほらおり、智子は彼らに交じって彼女のあとをついていった。 しばらく高架沿いの明るい居酒屋通りを歩いた。 ほ…
第一話 天風姤てんぷうこう 昨夜の冷たい秋雨から一転。青く澄んだ空の下、停車場に八はっ卦け見みの看板が立っている。 東京の新興住宅地だとか宣伝され、小金持ちが居を移してくるようになった目め白じろ界隈だが、駅前の景色は…
一九九五年 明石弓乃 二十二歳 わたしの名字が明あか石しだからアカシヤだ。 スーパーではなく、コンビニ。出入口上部の店舗看板には、アルファベットでConvenience、そのあとにカタカナでアカシヤと書かれている。 …
プロローグ 私達は、多かれ少なかれ漢字を操り生きている。でも、ある人に言わせれば操られているのは私達人間の方らしい。 漢字なんて、所詮は止め跳ね払いの集合体。それに一喜一憂する人間は、文字の精霊に弄ばれているに過ぎない…
生まれてきてごめんなさい定食 ふらっと立ち寄った定食屋に、『生まれてきてごめんなさい定食』というメニューが載っていた。 これってどんな定食なんですかって店員さんに聞いたら、言葉通り生まれてきたことを申し訳なく思ってる…
第一章 女学生支配人、誕生す 時は大正、日は良好。 麗らかな陽の光を受けるのは、春真っ盛りの荒川あらかわ近くに立つ木造りの校舎。その青々とした垣根の内側で、桔梗や牡丹の花々が揺れるように見え隠れしていた。 よくよく見…
まただ。 自室の扉を施錠し、一歩踏み出したところで野々森ののもり一はじめは足を止めた。 アパートの廊下には朝の光が満ち、安物のスーツを着た肩を肌寒さで竦めながら、野々森は隣室のドアノブにぶら下がったそれをじっと見つめた…
僕は今日、命からがら十六歳になった。 総合病院のジメジメしたロビー。こんな辛しん気き臭い場所で五月十二日の誕生日を迎えるなんて最悪だ。退院手続きを済ませ、硬いソファで母の迎えを待っている。 春の陽気も重たくなってきた五…
左手に書かれた「国語びん」に気づいたとき、ぼくは商店街を走っていた。 一瞬スピードをゆるめたが、家に戻るほどの時間もない。それにいまのところ、一度も信号に引っかかることなくここまで来ているのに、走りを止めるのはとてもも…
甘くてからい。煮詰まる音はくつくつとかわいい。四国の醸造元から取り寄せた醬油にてんさい糖で甘みをつけて、弱火で焦がさないようゆっくりと煮詰めた。里芋にこのタレを絡めて、みんながすきな味にする。 濃くておもい。味噌にぎゅ…
「おじさんは本当に律儀な方ですよ。死んでからも義理を尽くすなん…………すみません」「もう一回」「おじさんは本当に律儀な方ですよ。死んでからも義理を尽くすなんてまあ」 演出のカイトの言葉に従って、勝まさるは頷き、演技を続け…
どこまでも続く真っ白な大地を一歩一歩踏み締める。 足首の上まで分厚いブーツで覆われているのに、積もったばかりの柔らかい雪に踏み入れると、足首どころかふくらはぎのあたりまで埋もれてしまった。 ずぶっ、ずぶっ、と用心深く進…
第一章 余命銀行の新入社員 ロッカーに貼ってある【生内いけうち花菜はな】の名前が書かれた薄っぺらい磁石をはがすとき、胸はたしかに痛かった。 三月二十四日、金曜日。最後の出勤日である今日、引き継ぎをしているうちにいつの間…
春一番に飛ばされたものは 本田さん。斎藤さん。水谷さん。小川さん。千葉さん。佐々木さん。中野さん。東さん。 左に曲がって。 若林さん。多田さん。児玉さん。長谷川さん。武藤さん。島さん。河合さん。大塚さん。 配りつつ、…
1 どんぐり生ハム ──ポインセチア仕立て 十二月の寒い夜、ポストを開けると封印したはずの過去が待ちぶせていた。 写真つきのポストカードは、遠くイギリスからだった。 結婚しました。 イベリコ豚、もう食べま…
第1章 余命一年のふたり 「先生。俺は……あとどのくらい生きられるんですか?」 清潔な診察室。皺のない白衣を纏った、初老の医者。机の上のカルテと、対面のホワイトボード。 ついさっきまで俺は──待合室にいたときに入ったク…
第一話 甜花、新しい夫人にお仕えするの巻 序 「……君をお嫁にもらってあげる。そしたらいつも一緒にいられるよ」 白く小さな花が房になって下がっている。その花陰で少年はわたしに囁いた。「いいよ、おにいちゃんが──にな…
第一話 どうせあいつがやった 男のスーツは、見るからにくたびれていた。 背広は襟のあたりがほつれ、黒地のスラックスは表面がつるつるに擦り減っている。実際、彼が着ているものは高級品とは言えない。量販店のセールで購入した…
プロローグ 運命の出会いは、時に驚くようなあじわいがあるものだ。 たとえるなら……唐突に渡されたホカホカの肉まんのように。 * 雨の夕暮れ。 倉庫整理のアルバイトを終えた俺は、トボトボと中華街を歩いていた。 その日…
序 其れは、図られし縁 大陸に、最大の面積を占める大国、陵りょう。 この地ではかつて、無数の悪鬼が跋扈ばっこし、人々は悉ことごとく疫病や災いに苦しめられていた。草木は生えず、水は涸れ果て、空にはいつも暗雲が垂れ込め…
「Aの図とBの図、『静けさ』を表しているのはどちらだと感じる?」 担任で美術担当の二木にき良平りょうへいが、教室の生徒全員に問いかけた。美術室の黒板には、大きな白い紙に印刷された二枚のシンプルな図が、四隅をマグネットで留…
ママはダンシング・クイーン 「ママ、チアリーダーになる!」 突然の宣言を、家族はことごとくスルーした。「ママ、おかわり」と息子は茶碗ちゃわんを突き出し、「あ、俺も」と夫がつられ、「ねえ、お弁当まだ? 早くしないと遅刻しち…
賢王と花仙の伝承 「だから! いったい貴様はどこの誰だと聞いているんだ!」「だから! ここがどこかって聞いてるんだってば!」 百花国ひゃっかこくの後宮こうきゅうは、本来ならば男性立入禁止。妃と宮女と宦官かんがんのみの世俗…
一筆啓上仕候 和久様 古今東西、ひとかどの人物ってのは、てえしたことを言いなさるもんだ。 あんまり感心しちまったから、お前さんにも教えてやろうと思ったが、同じ家に住んでいるってのになかなか話す時間もない。俺もいい年…
プロローグ 一九八〇年 八月七日 立秋 泣いていたらいつも抱き上げられ、背中を撫なでてもらえた。 とてもあたたかい、大きな手だ。手を広げてその人の首に抱きつくといい匂においがした。 あれはおとうさんかな、と思うけ…
プロローグ 六月半ば、そろそろ梅雨が近づいてきたある雨の日の夕方。十五歳の葛かつら城ぎ汀てい一いちは金沢駅で特急電車から降りた。大きな荷物は既に引っ越し先の祖父母の家に送ってあるので、リュック一つ、それと駅の売店で買…