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「どうしてですか?」
狭い個室に、悲痛な声が染み渡った。シンガー志望という本人の申告に相違ない、相変わらず、よく通る声だった。
「先生の言う通り、もう少し大阪で頑張ろうと思って、心斎橋っていう駅にあるボイストレーニング教室に通い始めたんです。そしたら」
〈歌手志望〉の女が、個室を仕切る薄布の赤紫色に満ちた空間で、唇を震わせた。
「講師が、私には──詩吟の才能があるって」
坂東は卓の上でタロットカードを混ぜながら、言った。
「いいじゃないですか、詩吟」
「嫌です!」
わっと声を上げて〈歌手志望〉が卓に突っ伏した。
「詩吟って長唄でしょ!? おばあちゃんみたいじゃないですか! 私はアリシア・キーズみたいになりたいのに!」
詩吟と長唄、正しくはその二つは別物だったはずだが、坂東は「詩吟はテクニカルだし、身につければ確かな地力になりますよ」と、六芒星形に並べたカードから一枚を取り上げた。
「〈現在〉の位置に〈正義〉のカードが出ています。これはバランスが整ってきていることを示し、また、今の状況があなたにとって非常に正当であるというメッセージです。このカードは時に、名誉や地位の到来という結果を強く示します」
坂東は卓に両肘をつき、組んだ両手の甲に顎を乗せた。
「もしかするとあなたは、稀代の詩吟アーティストになる御方かもしれませんね」
「嫌ーっ!」
卓に伏した〈歌手志望〉が頭を抱えてさめざめと泣いた。その手首には先日、大阪在住の彼女がメール注文で取り寄せた坂東作のパワーストーンブレスレットが光っている。状況からして今日はさらにもう一個、売れるかもしれない。良いリピーターを得たものだと頭の中で金勘定をしながら、坂東は次々とカードをめくった。現状に対するポジティブなカードが出るたびに彼女の口から発される悲愴な叫びが、ことごとくつくづく本当に、新たに始めたというボイトレの成果もあるのだろうか、よく澄んでいる。これはひょっとしたら本当にひとかどの歌い手となる力を身につけ始めているのかもしれないが、それは坂東の与り知るところではない。
モロッコ風の個室カフェは、今日も繁盛していた。
前回同様カフェの前で〈歌手志望〉と別れると、坂東は今日は向かいのコンビニの灰皿には寄らず、駅にある整体院へと向かった。自宅マンション最寄駅にも系列店が存在する、行きつけの安価なチェーン店である。
案内された治療ベッドでうつ伏せになると、坂東の肩に触れた整体師が開口一番、「うわっ」と声を上げた。
「えらいことになってますよ、これ」
坂東はうつ伏せのまま低く呻いた。
「いや、肩じゃないんです」
「わかります、キてるのは足腰ですよね。触った瞬間わかりましたよ」
さっそく背中から揉みほぐしにかかられ、押されて肺から出た空気でまた呻きが漏れた。額を付けているドーナッツ状の穴あきヘッドレストの中心で坂東は、眼前の床に声なき呪いの言葉を吐き捨てた。いまいましい。明治の詩人の歌に「この俺に一度でも頭を下げさせた奴らは皆死ね」というような内容のものがあったと思うが、近い感情だ。中年に全力疾走を強いた奴は皆死ね。全員死ね。先日、夜道を駆けた際の無茶が、激しい筋肉痛となってここ数日の坂東を苦しめていた。
痛みの中で坂東は、否が応でも、先日の出来事を思い起こしていた。
低く鈍い音と同時に、枝が大きく軋んだ。
高低差はさほどではないにせよ自由落下した秋津の喉から「グウ」とも「ギュウ」ともつかない声が漏れ、コードの食い込んだ首に向かって両手が空を掻く。圧迫のせいなのか、面白いほど一気に顔が膨らんだようになり、見開いた目が飛び出さんばかりになり、一瞬にして赤黒くなった顔色でもがきながら夜の林の中でぶら下がる秋津の姿を見上げて、坂東はポケットから煙草の箱を取り出した。
「気持ちいいか?」
片手を風除けに囲んで煙草に火をつける。深く吸い込み、煙を吐いた。
「返事しろよ。どうなんだって聞いてんだよ。おい」
言いながら目の前の脇腹を手で突いて秋津の体を前後に揺すると、押された秋津が今度こそ「ギューッ」と絞められたニワトリのような声を上げながら体を左右にねじり、振り子の運動で宙を行き来した。顔が紫蘇漬けの梅干し色になっている。もうこちらの言葉は聞こえていないだろう。
もはや反射神経だけで暴れている彼女の動きと重みで、コードを結わえている枝が大きくしなった。いちばん簡易な携帯ストラップの取り付け方、とでも言えばいいのだろうか、杜撰な秋津の性格らしく、片側に輪を作って引っかけるだけの方法で中腹あたりにコードを結びつけられたその枝は、最初、先端を下にして根本からミシミシと弓形に曲がり、ひょっとすると、このまま折れてしまいそうな形になった。
しかし簡素な方法で取り付けられたコードの結び目は、もがく秋津の動きで少しずつ根元のほうにずれ、最終的に、幹にもっとも近い枝の一番太いところで止まった。運の悪い奴。真ん中にあったその結び目がずれたのが枝先のほうだったならば、もしかしたら枝が折れたかもしれないものを。
たっぷり、一本の煙草を半分吸い終わるまで待った。
坂東にとって煙草がもっとも美味いラインである中ほどまでを灰にして携帯灰皿に捨てた頃には、秋津はもう、どどめ色の顔色で動かなくなっていた。左腕と右足という、なぜか体の対角だけがセットで時々、ピクピクと痙攣している。坂東は彼女の足元を見た。人間、こういう時はクソも小便も一気に漏らすと聞いたことがあるが、失禁はないようだ。
そろそろ頃合いか。坂東は首を鳴らして溜め息をつき、秋津の股の下に頭をくぐらせると、彼女を再び持ち上げた。
首に巻き付いたコードを外し、下ろした彼女を地面に横たえる。仰向けでぐったりしている秋津を前に坂東はスマホで119番にコールすると、場所だけ伝えて通話を切った。地面の秋津はぴくりとも動かず、頭上の木の枝から垂れ下がったタコ足コードだけが枝葉のそよぎでわずかに揺れていた。林の暗闇に白いコードが浮き上がっている。
──〈狐〉は最後のその時、どういう手段を選んだのだろうか。
「勝ち逃げなんか許さない」
横たわる女に吐き捨て、坂東はバッグから布を取り出した。秋津に突っ返された、あの深緑色のストールだった。
「これで本当に最後だ。もう一切迷惑かけるんじゃねえぞ」
裏地にある「EMETH」の刺繍を一瞥し、それから秋津に視線を戻した。
「じゃあな!」
言って、坂東は横たわる秋津にストールを投げつけ──ようとしたところで手を止め、念のために、タコ足コードやその他、自分が触れた場所の指紋をストールで手早くちゃかちゃかと拭ってから、改めて、
「あばよ!」
と秋津にストールを放って、その場を後にした。公園を出てしばらく大通りを歩いたところで、赤色灯を回して公園方向に急行している救急車とすれ違ったが、素知らぬふりで歩き続けた。一応、タクシーに乗るのはやめておいたが、途中でコンビニに寄り、冷凍のピザを買った。食いそびれるのは癪にさわる。予定を乱されるのは、大嫌いだ。
翌日は一本の電話で起こされた。
『パールヴァティ』のオーナーからだった。
『秋津さんが来てないの』
苦情と心配が半々といった声でそう言う彼女に、坂東は腹についた寝巻きのゴムの痕を掻きながら、声色だけは真剣なものを作って言った。
「ゆうべ、色々あって結局ポーチを渡せなかったんです。それでですかね」
『じゃあ、体調の問題なのかしら』
彼女の声が心配気なトーンのほうに傾いた。「そうかもしれません」と坂東は神妙な声で両手を腰に当て、「申し訳ありません。こちらからも、連絡してみます」と片足を後ろに伸ばして腰を落とし、右、左、とまんべんなくアキレス腱のストレッチ運動をしながら通話を切った。当然、連絡などしない。そのままいつも通りに仕事をし、一日を終えた。唯一のイレギュラーは、そのさらに翌日になってから、激しい足腰の痛みに襲われたことだった。中年の筋肉痛は翌日以降にやってくるということを、普段から鍛えているからこそ、逆に忘れていた。数日が経った今でも、体の不調は続いている。
まったくいまいましい。
整体師に腰を揉まれながら思わずため息をつくと、それを痛みによるものだと勘違いした若い整体師が手心を加えて力を緩めた。遠慮なくやってよいと伝え、揉みに揉まれて自宅マンションに帰ってきた頃には、隣近所の部屋から夕飯の匂いが漂い始めていた。
帰宅すると、坂東はパソコンを立ち上げた。今夜はZoomを使ったリモート占いの予約が入っている。対面よりも情報量が少ないため料金を割高に設定したリモート占いの依頼は、くたびれるが大歓迎である。
予約まで少し時間があるので、電話でピザを注文した。リモートのセッティングを終えたところで、インターフォンが鳴った。
ドアを開くと、ピザ屋の制服を着た若い配達員が立っていた。彼は一瞬、横にデカくてフルメイクをしたババアの登場にギョッとした様子を見せたあと、ピザをこちらに手渡した。そんなに怖がるなよとチップでもくれてやりたい気分になったが、坂東は静かに箱を受け取った。
「追加のハラペーニョを二十円でお付けできますが」
「結構です。ありがとう」
帽子を取って頭を下げた配達員が、顔を上げる際にちらっと室内へ目を走らせたのが見えた。ささいな好奇心なのだろうが、坂東はドアを閉める間際に、彼のそのささやかな無礼に対する返報として、言葉を放った。
「友達と仲直りしなさい」
「え?」
帽子をかぶり直して帰りかけていた配達員が、目をまたたいた。
「そうしたいんでしょ。言ってる意味、わかるわよね」
配達員は明らかに戸惑いながらも、はっとした顔をしていた。坂東は立ちすくんだままの彼の手にある配達バッグの網ポケットからハラペーニョの小袋をひとつ抜き取ると、網ポケットをポンと叩いた。私はプロだ。占いの料金はもらう。強奪したハラペーニョを手に今度こそドアを閉めようとすると、
「あの」
と、意を決したような張り詰めた声で、配達員が言った。
坂東が彼の顔を見ると、配達員は真剣な顔で何かを問いたげに何度か口を開閉してから、結局は口を閉じて、帽子を深くかぶり直した。
「──来週は割引ウィークです。またのご利用を」
坂東は彼の帽子のつばにある摩耗の毛羽立ちを見つめたあと、言った。
「セールは九月までじゃなかったかしら」
「毎月あるんですよ」
言って彼は去った。
台所でピザを食べ終えると、口をゆすいでからパソコンの前に座った。
時間通りに音声チャットルームへ入室する。しばしの間を置いて客とビデオ通話が繋がった。以前からたびたびリモート霊視の予約を入れてくる三十代の女性だった。今回もこれまでと同様、交際中の男性との関係を継続するか否かを相談された。
「別れなさい」
間髪を容れず坂東は言った。私の占いはどこまで行っても方便だ。結婚・出産を希望している三十代の女性に対して「俺といると君は不幸になる」と言いながらも相手が自分を捨てやすいよう悪者になってやる気概も見せずに相手の情に訴えかけるような発言ばかりを繰り返している職なし・誠実さなしの男と付き合っている女に、中年のオバハンとして至極まっとうなアドバイスを述べるだけである。さも意味ありげにタロットカードをめくりながら。
霊視の結果を話している最中に、デスクの横に置いていた坂東のスマホが灯った。サイレントにしているそれに表示されていたのはショートメールが届いたことを示す吹き出しの小窓で、枠の中には短いメールの本文が映っていた。
パソコン画面のほうでは『でも、貫き通すことが愛だと思うんです』と、相談者の女がなおも食い下がる様子を見せている。坂東は傍らのスマホ画面に向けていた視線をパソコンへ戻して、言った。
「お好きになさればよろしいけれど、〈核心〉の位置には『力』が出ていますよ」
『それって確か、良いカードですよね。ライオンが描いてあるやつ』
「逆位置ですよ。このライオンは死んでいます」
ああ、とそれなりにタロットの読み方を知っている客が悲しみの声を上げた。それでも彼女は『だけど』と悪あがく。
『他の位置には何のカードが? そうだ、〈未来〉には何が出ていますか』
「『月』ですね。残念ながら正位置です。不安を表すカードですから、このまま付き合ってもあなたの心はずっと霧の中」
女性が呻いて萎れた。今日の客たちはカードの結果に抵抗する人間ばかりだ。こちらの手元にある『月』のカードには、坂東が扱うマルセイユ版タロットの絵柄の作法に従って、二匹の犬が描かれている。逆位置のライオン、正位置の犬。どちらを取り沙汰すべきか。でもでもだってを繰り返す客の前で坂東は、最後のカードをめくった。一番好きなカードが出たが、これは努力や奉仕、何かひとつのために尽くせば報われることを示してしまうので、相手の女性には伝えず結果を握り潰すことにした。
坂東は組んだ両手に顎を乗せ、デスクの横のスマホ画面を見た。相談者の女性は相変わらずカードの結果を受け入れずに意思を貫こうとしている。
窓の外には黄色い十月の月が浮かんでいる。
隣近所からは夕飯の匂いが漂っている。
スマホ画面のショートメールには、
『メガネを返してください。ないと困ります』
と表示されていた。
(終わり)