プロローグ
二〇二〇年 二月五日
花束を持った男が祇園四条通りを東に向かって歩いていた。
午前七時。街はまだ眠っている。
普段ならこんな時間でも中国人の観光客たちが早朝営業のカフェ目当てに大勢出歩いている。しかし今、彼らは大幅に渡航が規制されている。日本でも感染者が発見されて大騒ぎになっている新型肺炎の影響が、この街にはいち早く及んでいた。人影はなく車もほとんど通らない。
静まり返った花見小路の交差点を悠々と横切っているのはカラスだ。黒い影は一瞬飛び立ち、飲食店のテナントビルの前にうずたかく積まれたレタスやらネギやら卵のパッキングやらの箱をついばみだした。嘴が朝の陽を受けてメタリックな光沢を放っている。
その脇をウグイス色の市バスが追い越して行った。201系統。百万遍方面に向かうバスだ。男はちらとバスの中を見た。乗客は一人もいなかった。カラスは動じることもなくダンボールに残ったレタスの切れ端をつついている。
祇園のT字路の向こうに八坂神社の階段が見えた。
階段に続く横断歩道の手前にある交番の中を横目で覗く。誰もいない。
隣には四十年前、「八百文」という名のフルーツパーラーがあった。当時は「東の千疋屋、西の八百文」と言われたほどの名店だったが、今はドラッグストアになっている。
街は変わる。そして、人も。八坂神社の赤い楼門だけが昔と変わらずそこにあった。
交番前の信号が青になった。東大路通りを横切る横断歩道はたかだか十メートル余りの幅なのに、信号が青になっても誰一人歩いていない大通りはやたらと広く見え、まるで橋のない冷たい川を素足で渡っているような心細い気持ちになった。
なんとか渡りきり、目の前の石段を見上げた。
覚えている。石段は、たしか十九段。
男は一段ずつ数えながら上る。
一段上るごとに白い息が目の前に立ち込めた。
花束を持った手が、かじかむ。男は息が切れ、途中で立ち止まり、顔を上げる。
見上げる階段の先に、「彼」の後ろ姿が蘇った。
あの日の深夜、あるいは未明、「彼」はこの階段を、どんな気持ちで上ったのだろうか。今日よりもずっと冷たい凍てつく風に身を縮ませ、ボロボロの服をまとい、穴の開いた靴を引きずるようにして、「彼」は、なぜこの階段を上らねばならなかったのか。
三十六年経った今も、それは男の中で謎のままだった。
男は視線を自分の足元に移し、再び石段を上る。
十九段数えたところで、再び顔を上げる。男は楼門をくぐった。
境内に人影はない。古びた大八車だけがまるでずっと昔からそこに打ち捨てられていたように佇んでいた。疫病社という名の小さな拝殿を右に曲がると、男が訪れるのを待ちかねたかのように、明かりの消えていた何十もの提灯が一斉に灯った。男は息を呑んだ。
地面の下から、さらさらと水の流れる音がかすかに聞こえる。
白装束に白マスク姿の神職がどこからか現れ、ゴロゴロと立て看板を引きずって本殿の方に向かう。看板には「ご祈禱予約」と書かれている。
舞殿を越え、まっすぐに進んで赤い鳥居をくぐると円山公園に出た。
正面に東山が見える。鉛色の空はかすかに赤みを帯びているが、まだ朝日は見えない。
やはり人影はない。枯れた桜の木に留まっているカラスの群れがぐわっぐわっと不気味な声で啼いている。
右手に鉄筋コンクリート造りの巨大な倉庫が見えた。独立したグレーの扉がいくつも並び、それぞれに立派な錠前がつけられている。扉の上には木板に金文字で名が記されている。
木戝山、芦刈山、伯牙山、郭巨山、油天神山、浄妙山、黒主山、孟宗山、岩戸山。すべて、中京、下京の各町が持つ山鉾の名前だ。各町には祇園祭の際に巡行する山鉾を収納する倉庫があるが、町で管理できない山鉾がこの格納庫に集められて収納されているのだった。
「彼」は、三十六年前の今日、二月五日、「岩戸山」の軒下で死んでいた。
凍死だった。
男は人避けの鎖をまたぎ、敷地に入る。
軒下のコンクリートに手を当てる。ひんやりと冷たい感触が伝わった。
遺体が発見されたあの日の京都の午前七時の気温は、氷点下二・九度だったという。
当時の京都の冬は今よりずいぶんと寒かったが、あの朝の「底冷え」は格別だった。
彼の死の床は今日よりもずっと冷えていただろう。
男は持っていた花をそっと置いた。
その脇に鳥の羽根が一枚落ちていた。
ひざまずき、目をつぶって手を合わせた。
男は立ち上がり、鎖をまたぎ、公園の道に出た。
道の先に赤いテントがあった。
無人の御籤売り場だ。「名前は貴方の宝」と墨書きがあり、男女別に名前を書いた御籤が多数差し挟んであった。料金箱に百円を入れて自分の名前の籤を引く方式だ。
おそらくは千以上はある名前を、男は端からひとつずつ見ていった。
自分の名前の籤に興味はない。もう人生の半ばはとっくに過ぎている。今更「運勢」が判ったところでどうなるというのだ。
男が探しているのは、「彼」の名前だ。
「彼」の名前はすぐに見つかった。ありふれた名前なのだ。
しかしこの京都の街で、誰も「彼」のことを、本名で呼ぶ者はいなかった。家族以外にその名を知る者はなく、その家族も恐らくはもうこの世にいない。「彼」の本当の名を知っている者は、もう自分だけかもしれない。
男はそう思い、もう一度、御籤売り場の墨書きを見た。
名前は、貴方の宝……。
そうかもしれない。
男は、そっと口の中で、その名を転がした。
「本名」ではなく、この街でずっと呼ばれていた、「彼」の名前を。
河原町のジュリー。
それが、「彼」の名前だ。
*
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■著者プロフィール
増山実(ますやま・みのる)
1958年大阪府生まれ。同志社大学法学部卒業。2013年、『勇者たちへの伝言』(第19回松本清張賞最終候補「いつの日か来た道」を改題)でデビュー。同作で第4回大阪ほんまもん大賞受賞。2022年、『ジュリーの世界』で第10回京都本大賞受賞。他の著書に『空の走者たち』『風よ 僕らに海の歌を』『波の上のキネマ』『甘夏とオリオン』『百年の藍』がある。