第一話 甜花、新しい夫人にお仕えするの巻
序
「……君をお嫁にもらってあげる。そしたらいつも一緒にいられるよ」
白く小さな花が房になって下がっている。その花陰で少年はわたしに囁いた。
「いいよ、おにいちゃんが──になったらおよめさんになってあげる」
わたしは笑って答えた。少年の顔は花に隠れて見えない。差し出された細い手首に、七色の石がはめ込まれた腕輪が光っていたことは覚えている。
「ほんと? 約束だよ」
少年はわたしと手のひらを合わせ、指を絡めた。
「うん、やくそく。やくそくする」
だからいつかわたしをお嫁さんにして。待ってるわ、待ってる……。
「……る」
呟いた自分の声で目が覚めた。甜花は顔を上げ、寝台の上の祖父を見て、ほっとする。
久しぶりに懐かしい夢を見た。もう一〇年も昔の幼い約束の記憶。
今では記憶もところどころ薄れ、少年の名前も会話の一部も抜けてしまっている。
それでも彼が初めて好きになった男の子だったのは確かだ。胸の奥に大切にしまい込んだ初恋の思い出。いつかまた出会えるだろうか? そうしたら再び求婚してくれるだろうか……。
(いけない、いけない。今はそんなこと考えているときじゃないわ)
周り中が本で埋まった書棚となっている小さな部屋で、祖父が死を迎えようとしているのだ。甘い記憶に浸っているひまはない。
医者が言うにはあとひと月ほど、ということだったが、祖父は自身の死期をきちんと把握しており、孫娘に今日明日だと伝えていた。
老人は規則正しい呼吸を繰り返していた。その呼吸の間隔がひどく長くなっている。このまま間隔が開き続け、やがて止まってしまうのだろう。
「おじいちゃん……」
手燭の明かりを近づけて、甜花は祖父の顔を見守る。やつれた顔には深いしわが刻み込まれ、口元を覆う銀色の髭はすっかり薄くなってしまった。
かつては「知の巨人」として数々の相手の弁を打ち負かしてきた唇はかぼそく息を吐き、多くの書物を著した手は、力なく寝台の上にある。
那ナ ノ国の優れた知恵と知識は、死という闇に飲み込まれようとしている。
ぴくりとしわのひとつが動き、ゆっくりと薄い瞼が押し上げられた。
「おじいちゃん」
「……甜々、」
祖父、士暮は孫娘を愛称で呼び、優しく灰色の瞳を向けた。
「夢を見ていたよ」
「そう? どんな夢?」
「おまえに会ったときの夢だ……」
「山の夢?」
甜花は表向きは士暮の孫という立場ではあるが、血のつながりはない。彼女は一四年前、一歳になる前に士暮に山で拾われたのだ。そのことは祖父からきちんと聞いていた。
血のつながりがないのは寂しいが、士暮はそんなものよりも大きな愛情で甜花を包み育ててくれた。
士暮はふうっと大きく息をついた。
「甜々、わしはもうそろそろのようだよ」
「はい」
引き留めるような言葉は言わない。祖父の心残りを引き出してはいけないからだ。心を残せばその魂は鬼霊となり、永遠にさまようことになる。
「楽しい人生だった。わしは十分生きたよ。知りたいことを調べ、集め、分類した。好きなことをして生きた」
祖父は孫に笑って見せた。
「ただ、わしの集めたこの資料や書物たちの行く末が心配だな」
「大丈夫。わたしが蔵を借りておじいちゃんの資料は全部保管する。だから安心して」
甜花は用意していた考えを述べた。祖父の心残りをなくすために。
「保管か……」
しかし、祖父の目は陰った。
「保管するだけではだめだな。ここの資料や書物は人の役に立つ。大勢の人が自由に使えるようにならなければ」
「そんなの……」
古い書物の一部は綴じが壊れたり、頁が破れたりしているものもある。他の人が閲覧するにはそれを修復しなくてはならない。
「むずかしいだろうな」
祖父は疲れたように目を閉じた。その目をもう一度開けさせたくて甜花は必死に考えた。
「……そうだわ、図書よ! 後宮の大図書宮! そこに保管してもらえばいいんだわ」
士暮の目が再び開き、そこに輝きが戻る。
後宮の大図書宮。そこにはこの那ノ国の知識がすべて納められているという。
心躍る冒険の物語、胸震える愛の物語などの創作物、そして万物のなぞを納めた博物誌や天球誌、医学薬学妖学にいたるまで、知の専門書がきちんと保管されていて、国民は手続きを踏めば誰でもそれを閲覧できるのだ。
「それはいい考えだ。しかし一介の年寄りの書物など保管してくれるだろうか?」
「一介の年寄りなんて……おじいちゃんは元宮廷博物官じゃない。孤高の士暮、知の巨人。
そんなおじいちゃんが集めた資料ならきっと……」
「宮廷博物官か……」
士暮は苦い笑みを浮かべた。
「一〇年前に皇宮を追われ、その官位もなくなった。今や誰も覚えておらんよ」
言いながら悲しくなったのか、祖父の目の光が弱くなる。甜花はその手を握って励ました。
「じゃあわたしが図書宮の書仕になる! そして必ずおじいちゃんの資料を大図書宮に収納するわ、約束する!」
ぐっと手を握り返された。我ながら素晴らしい思いつきにわくわくする。本を集め、本を管理し、本に仕えるのが書仕の仕事だ。自分も本は大好きだし、祖父の思い出の詰まった書物に囲まれて生きられるなら幸せだ。
「おまえが書仕か……向いているかもしれんのう」
祖父の顔に表情が戻ったことが嬉しく、甜花は力強く手を握った。
「ええ、そうよ。わたし、書物が大好きだもの、読むのも集めるのも修理だって!」
「だが、書仕への道は険しいぞ」
「わかってる、でも書物のための努力ならいくらでもできるわ」
祖父は微笑んだ。
「わしのもうひとつの心残りはおまえのことだったのだが、おまえが自分の生き方を選んだのなら、安心だ……。おまえにはあの力もあるから余計に……」
「ほんとはおじいちゃんには心残りを持っててほしかったの。おじいちゃんが鬼霊になったらまたお話ができるかもしれないと思ったから」
甜花は冗談めかして言った。半分は本心だ。祖父はその言葉にかすかに顔を横に揺らした。
「残念じゃがわしは自分の死に納得しておる。いい人生じゃった」
そう言われて甜花はがっかりする。いつもはうとましく思っていた力がようやく役に立つかもしれないと思ったのに。そんな甜花に士暮は優しい目を向けた。
「おまえが書仕になるまで見守りたいがそれも無理だ。だが、代わりにおまえを守ってくれるものがいる」
「え?」
「甜々、その机の一番下の引き出しを開けてごらん」
士暮は目線で甜花の背後の机を示した。言われた通り引き出しを開けると赤い絹布が貼られた小箱があった。
「赤い箱があるわ」
「開けてごらん」
手のひらに載る小さな箱を開けると、中には大粒の胡桃がひとつ、入っていた。大きさ以外はなんの変哲もないように見える。甜花はそれを取り出して灯籠の灯にかざした。胡桃の殻はつやつやとして小さな光を跳ね返す。
「その胡桃を割るのだ」
「え? 食べるの?」
祖父は首を振る。
「割りなさい」
「わかったわ、ちょっと待ってて」
甜花は首を傾げながらも部屋を出て厨房へ向かった。胡桃割りの道具があったはずだ。
「おじいちゃん、今胡桃を割るからね」
ねじを回すことで力をかけ、硬い殻を割る仕組みの道具──それに胡桃をはさみ、甜花は横についたねじを回した。
大きな胡桃はたいそう硬そうに見えたが、軽くねじを回しただけで、ぴしりとひびが入る。
「ああ、これで──」
士暮はため息をつくように囁いた。そのとたん、そのひびから白い光があふれ、胡桃の殻が砕け散ると同時に光が部屋中に広がった。
「なに、これっ!」
甜花が悲鳴をあげる。光は収縮し、強く光る球体となり、部屋の壁をすり抜けて外へ出てしまった。
甜花は急いで窓に駆け寄り、その光の行く先を目で追った。光はあっという間に東の空へと飛んで、やがて消え去った。
「おじいちゃん、今のなに……」
振り向いた甜花は言葉を失った。祖父であり、元宮廷博物官である士暮は、満足げな笑みを浮かべて息をひきとっていた。
一
それから二ヶ月後、秋の終わり。甜花は那ノ国の後宮にいた。色づいた葉が、はらはらと散る中庭の回廊、その欄干を膝をついて磨いている。
祖父が死んだ後、家中の金目のものを集めて売り払い、蔵をひとつ、一〇年契約で借りた。そこに祖父の残した資料をとりあえず保管する。そうして無一文になった甜花は、後宮に使用人を斡旋している口入屋の門を叩いた。
「後宮で仕事をしたいの」
口入屋はいい顔をしなかった。後宮は若い女性に人気のある職場だ。甜花のような貧しい少女を紹介しなくても、娘に行儀作法を身につけさせたり箔をつけさせたりしたい裕福な親が、金を払って斡旋してもらおうとする。
「いくつになったんだい?」
「先月十五になったわ」
「十五か……。別な仕事のほうがいいんじゃないのか」
「別な仕事?」
「そうだな」
口入屋は甜花をじろじろと見た。
「茶屋なんかの水商売には色気も胸も足りないな。用水路工事の飯場仕事も、ほそっこくてちびだから力仕事はできそうにない。商家への奉公もあるが、もう少し愛想をよくしないと……素材は悪くないんだからちょっとにっこりしてみろ」
後宮以外に勤めたくなかったので甜花はむすっとしたまま口入屋を睨んだ。
「強情な子だね、かわいげがないと仕事はできないよ?」
このままでは断られるだけだと思った甜花は、仕方なく、普段はうとましく思っている自分の力を使うことにした。
「………あなたの奥さん、長いこと患っているでしょう?」
「な、なんだ、いきなり」
「わたしにはそういうことがわかるの」
甜花は目を細め、口入屋の肩のあたりを見つめた。
「わたしを後宮に紹介してくれるなら、その病を治してあげるわ」
口入屋は疑いながらも長患いの妻が回復するなら、と甜花の話を聞いた。
甜花は「前の奥さんの墓を掃除しなさい、その人が好きだった花を飾り、毎月お参りに行くと墓の前で約束しなさい」と伝えた。
口入屋は最初は甜花の言うことを信じようとしなかったが、甜花が前妻の容姿や死んだ時期を当てたので、怖くなって言う通りにした。
前妻の墓を掃除し、花を飾り、毎月お参りに来ると約束すると、その直後から妻の体調が回復した。
口入屋は喜び半分、気味悪さ半分で、自宅で待っていた甜花を後宮に紹介した。
こうして甜花は後宮の下働きになった。後宮に入ったものは、夫人付きの使用人でないかぎり、まず、下働きから始める。
そこで二年勤めると、次には夫人付きか、専門職の召使となる。そこで認められれば役職がつき、部屋を持ち、給金もあがることになる。
甜花が目指すのは後宮の図書宮の召使だ。そこからさらに書仕へと進みたい。
そうは言っても希望通りの職につけるとは限らない。できるだけ上のものに気に入られ、便宜を図ってもらわなければならなかった。
そのためにはまず、下働きの仕事を真面目にこなすことだ。
甜花の入った現在の後宮は、多少微妙な状態にあった。
第二十代皇帝が昨年亡くなり、弱冠十八歳の皇太子がこの春、皇帝に即位した。現在の後宮はその若い皇帝のために新しく作られている。皇后に一番近い地位の后たちは四人、いずれも大貴族や大臣の娘たちだ。その次の位の妃は佳人と呼ばれ、その数は九人、こちらは地方の有力な領主たちのもとからやってきている。ただし、九番目の佳人だけは入宮する旅程の中で体調を崩し、故郷へ戻って以来空席となっていた。
そんな後宮に、皇帝は春、夏、秋と、まだ一歩も足を踏み入れていない。若さゆえに後宮の必要性を感じていないのかもしれない。主がいない後宮は花ばかりが豪華に咲き誇り、芳香は澱み、蜜はたまって腐り出していた。
このまま皇帝が渡らなければ、後宮はなんのために存在するのか。
「ちょっとそこの黄仕 、このたらいを洗濯房へ持っていっておくれ」
厨房から召使の一人に声をかけられた。そのとき甜花は渡り廊下をぐるりと取り囲む欄干の拭き掃除をしているところだった。
甜花たちのような下働きはみんな黄色い腰布を巻いていて、黄仕と呼ばれる。召使以上の身分なら、誰でも自由に彼女たちを使うことができた。
甜花は一瞬顔をしかめた。厨房にはいくつか出入り口があるが、声をかけた召使が立っている場所にはあまり行きたくない。しかし、
「はい、わかりました。この欄干を拭いたらすぐに」
命じられればなんでも従う。できないと言ってはいけない。ただ優先順位は守らなければならない。
「なるたけ急いでよ」
召使はそう言うと厨房の中へ戻っていった。
甜花は急ぎはするが決して手抜きはせず、欄干を磨いてゆく。欄干のあとは廊下に下げられている吊り灯籠の掃除も仕事のひとつだが、その合間に洗濯房へ行くことはできるだろう。
ぐるりと廊下を取り囲む欄干をようやく磨き終え、甜花は厨房へ向かった。できるだけ足下を見つめ周りは見ないようにする。とくに厨房へ至る廊下の壁は。
厨房の壁に立て掛けられているたらいの前に立つ。甜花が丸まって寝られるほどの大きさで、手で運ぶなら二人は必要だろう。
甜花はよいしょ、とそれを立てると側面を軽く押した。ゴロリ、とたらいが転がる。この運び方で外に出ると怒られるかな、とチラと思ったが、あとで泥汚れを落としておけば気づかれないだろう。
たらいを押しながら廊下を進む。落とした視線の先に赤い靴を履いた足があった。甜花はそれを無視する。
ごとり、とたらいがその足を踏んだ。たらいはその足の持ち主にぶつかっているはずだ、彼女に実体があるのならば。
(ごめんなさい)
甜花は胸の中で呟いた。
(わたしにはなにもできないのよ。あなたがそこにいる理由もわからないもの)
理由がわからないのは彼女が話せないからだ。美しい女なのに、その口の中は真っ赤な血で溢れている。おそらく、舌とのどを焼く毒を飲んでしまったのだろう。女はいつもごぼごぼとのどの奥で血を噴きあげ、うつろな目で空を睨んでいた。
彼女はずっとそこに立っている、昼も夜も。心を遺して死んだ、鬼霊。
以前、仕事をしながらそれとなく聞いてみたことがある。「血を噴いて死んだ女の幽霊の話、ご存じですか」と。
年上の下働きの女はぶるぶると震えて声を潜めた。
「春先にね、苑恵后の召使が毒をあおって死んだんだよ。あてつけに苑恵后の宮から見える廊下でね」
女は四后の一人の名を言った。
「あてつけ?」
「ひどくいじめられていたらしいよ」
「苑恵后さまにですか?」
「いや、召使同士でね。おお、怖」
自死、とは思えなかった。立ち尽くす鬼霊の手首には縄目のあともあったからだ。
束縛され、むりやり毒を飲まされたのか。死に物狂いで逃げ出して、その廊下で死んだのか。
甜花にはわからない。鬼霊は語らずそこにいるだけだからだ。
祖父が心配した甜花の能力はこの力だった。鬼や妖など、人ならざる異形を視る能力 。生きていく上ではなんの役にも立たない力。恐ろしいもの、いやなものを見るだけのうっとうしい力。
他の人には視えないのだ、ということがわかったのは、数を数えられるようになった年だ。なんでも知っている祖父でさえ、鬼霊は視えない。
鬼霊が視え、時には話をすることもできる甜花は、幼い頃からよく鬼霊たちに追いかけ回された。甜花の怯えを楽しむものもいれば、自分の話を聞いてもらおうとするものもいる。
あまりに鬼霊と近すぎると、この世ではない鬼道へ落ち込むこともある。
それを懸念した祖父から、甜花は鬼霊の祓い方や近寄らせないようにする方法を教わった。しかし、残念ながら甜花にはそちらの才能はなかったようで、力の弱いものならともかく、念の強い鬼霊や力のある妖には対処できなかった。結局、できるだけ関わらないという消極的な対策しかない。
それに鬼霊が視えると言って喜ばれたためしがない。
幼い甜花の無邪気な言葉で、祖父は何度も引っ越しをするはめになった。成長してからは他人に言ってはいけないのだと理解したが、視えればつい口にしてしまう。そのため、大人は気味悪がり、自分の子供たちに甜花と遊ぶなと言った。子供たちも大人のそんな空気を感じ取り、甜花に近づくのはいじめるときだけだった。
だから今まで友達の一人もできたことがない。
「平気よ、わたしには書物があるもの。書物の中にたくさん友達がいるもの」
ひとりぼっちの甜花を心配する祖父に、甜花はそう言って笑った。そして書物の表紙の裏でこっそりと涙を零す。
「こんな能力、いらない」
だから無視する。鬼霊には関わらない。
甜花は早足で血を噴き出す女の前を通り過ぎた。
厨房から洗濯房までは外庭を通ればすぐだ。
洗濯房は外庭を流れる自然の川の水を利用して、後宮内の洗濯を一手に引き受けている。下働きの誰もがやりたくない仕事としてここをあげる。冬は川の水が冷たく、夏は洗濯物の量が増え、一年中忙しい房だ。
洗濯房の敷地に入り込むと、一日外へは出してもらえないと恐れられていた。
甜花もできれば重労働はしたくないので、洗濯房の召使たちに見つからないようたらいを返そうと思った。
敷地を隔てる植え込みの中から洗濯房を窺うと、幸い建物の外には誰もいない。甜花はたらいを急いで運び、壁に立て掛けた。あとは周りの汚れを落とすだけだ。
甜花は黄色い腰布をはずすと、それを持って川に走った。川の水で濡らし、たらいを拭こうと思ったのだ。
その川辺に少女が一人しゃがみこんでいた。甜花と同じ、黄色い布を身につけているの
で下働きに違いない。
彼女は川の流れに布をつけ、それをごしごしともみこんでいたが、時折目をぬぐっていた。
泣いているらしい。
面倒事は避けたいと思っていたが、甜花は少女のそばに寄った。彼女の洗濯物はどうやら手にした布だけらしいのに、泣いているのが気になったからだ。
「……どうしたの?」
甜花は用心深く声をかけた。洗濯をしていた少女はびくっと顔をあげ、甜花が同じ下働きらしいとわかってほっとしたように息をついた。少女はふっくら丸い頰をして愛らしかったが、泣きすぎて目が腫れていた。
「なにか悲しいことがあったの? いじめられたの?」
甜花の言葉に少女は首を振った。
「違うの。この汚れがとれなくて……これをきれいにするまで部屋に帰っちゃだめだって言われて」
少女は甜花に布を見せた。白い生地に、桜桃の実くらいの大きさの茶色い染みがついている。
「全然薄くなってくれないの……あたし、お昼ご飯も食べてないの」
「そんなにやってるの!?」
今はもう昼時間から二限(二時間)は過ぎている。甜花は驚き呆れて少女の隣にしゃがみこんだ。
「見せて」
受け取った布は薄い長下衣で、赤ん坊の手のひらほどの大きさの染みがついていた。色は赤茶色で、甜花はそれを日にすかしたり匂いをかいだりしてみた。
「食べ物か血か……長下衣のお尻のあたりだから、もしかしたら経血かもしれないわ。血の染みは落ちにくいのよ」
「どうしよう……」
「ちょっと待ってて」
甜花は少女に布を返すと、厨房に走って戻った。夕餉の準備に忙しい厨房を覗き、さっきたらいを運ぶように言った召使を捜す。
「いた」
彼女は瓶から麦をマスですくって鍋にいれているところだった。甜花はその女に小走りで近づいた。
「あの、すみません」
「わあ、びっくりした! なによ、あんた」
女は驚いたようだったがマスを落とすことはしなかった。
「さっき、たらいを運ぶように言われて運んだんですが」
「ああ、そうなの、ご苦労さん」
女はもう甜花を見ずにまた瓶にマスを差し入れた。
「申し訳ないのですが大根をひとかけいただけませんか?」
「大根だって? なにをするの」
「実は夫人がちょっと粗相なさって大事な布をお汚しになって……。その染みをとるのに必要なんです」
「そんなの洗濯房に頼めばいいじゃない」
女は手を休めずに答えた。
「洗濯房には頼めない代物なんですよ……大根をいただいて染みを落とせたら、きっと夫人はお喜びになって、親切な厨房の召使の名前を尋ねるでしょう。夫人に名前を憶えてもらえると、いろいろといいことがあるかもしれませんよ?」
「あら……」
厨房の召使はさっと周りを見回した。いろいろないいこと、と具体的ではないにしろ、悪い目には遭わないと思ったらしい。
「いいわ、待ってて」
手早く鍋に麦をいれる作業を終わらせると、女は厨房の奥に走ってゆく。甜花は房の外で待っていた。
「お待たせ、これでいい?」
召使は小さな大根のさきっぽをよこした。
「あんたの夫人って誰なの?」
「第八座の斉華さまです」
甜花は佳人の一人の名を言った。後宮では三番目に身分の高いその九人を九佳座と呼ぶ。
「ありがとうございます。あなたのお名前は?」
「あたしは蓮っていうのよ。夫人によろしくね」
甜花は受け取るとさっと駆け出した。もたもたして他の用事を頼まれてもまずい。
もちろん甜花は斉華という佳人の館に仕えているわけではない。たまたま覚えていたのがその名だっただけだ。だが館付きの下働きは大勢いる。蓮が斉華の館に行って甜花を見つけるのはむずかしいだろう。
甜花が洗濯房の敷地に戻ると、少女は無気力な様子で布を水に浸していた。
「お待たせ、これを使ってみよう」
甜花は少女の横に座って大根を小石で細かく砕き、それを自分の小手布で包んだ。少女の腰の黄色い布をたたんで地面に置くと、その上に血であろう染みのついた布を置く。
大根を包んだ布でとんとんと染みを叩くと、染みが下の布に移ってゆく。布を叩くことと水洗いを繰り返していくと、茶色い染みがじわじわと薄くなっていった。
「すごい! 染みがとれていくわ」
少女が目を丸くして嬉しそうに叫ぶ。
「もう少し待って」
甜花は根気よく大根を包んだ布で染みを叩き、水で洗う。かなりきれいになったようだ。
「完全にとれたわけじゃないけど、これ以上は無理でしたって見せてみて。ここまでやったなら叱られはしないはずよ」
「ありがとう!」
少女は大きな目に涙を浮かべた。
「あたし、明鈴っていうの。あんたは?」
「甜花」
「そう、甜花、ね。どうしてこんなことができるの? これってみんな知ってることなの?」
「教えてくれる人がいればね。明鈴は家で洗濯したことがなかったの?」
「うちでは洗濯は洗濯女がすることだったんですもの。あたしは洗濯どころか汚れ物にさわったこともなかったわ」
なるほど、明鈴はお金持ちの家で育ったらしい。染みの落とし方も教えないとは、洗濯房のもののいやがらせなのだろう。
「後宮では貴族の娘か、平民だったらよほどお金を積まないといきなり召使以上になることはできないわ。仕方がないとわかってるけど、下働きがこんなにつらいなんて思ってなかった」
明鈴はため息をつく。
「あたし、家では下働きたちに簡単にものを言いつけていた。年季が明けて家に帰れたら下働きたちを大事にするつもりよ」
明鈴の言葉に甜花は微笑んだ。彼女は金持ちの甘ったれではないようだ。きっといい女主人になるだろう。
「甜花、ありがとう。あたし、後宮に来て親切にしてもらったの初めてよ。ねえ、よかったら友達になってくれない?」
「友達?」
「ええ、後宮は広いからまた会えるかどうかわからないけど、友達がいると思うだけで嬉しくなるわ。それに会えたらもっと嬉しいわ」
「友達……」
甜花はためらった。考えてみれば自分は友達というものを持ったことがない。鬼霊が視えることで嫌われたり、祖父の手伝いで資料を整理したりで子供らしいことをしていなかった。友達という言葉は知っているがどうやって作るのかも知らなかった。でも。
(そうか、友達になろうって言えばいいだけだったんだ)
「甜花? だめかしら……」
明鈴がまた泣きそうな顔になる。甜花はあわてて首を振った。
「違うの。わたし、嬉しかったからぼうっとしちゃって……」
「ほんとう? じゃあ、友達になってくれる?」
「ええ、こちらこそ……そのぅ、よろしく?」
明鈴はぱっと甜花の手を摑んだ。
「嬉しい! これであたしたち友達よ! ねえ、あたしのことは小鈴って呼んで。親しい友達はみんなそう呼ぶの」
明鈴の手の力強さに甜花はどぎまぎしながら答えた。
「うん……。わたしは大体西の回廊のほうで仕事をしているわ」
「西ね! あたしもそっちの仕事をもらうようにしてみるわ」
そう言うと明鈴は手を離し、布を拾いあげた。
「じゃあ、あたし房に戻るわ。また会いましょうね」
「うん……小鈴。あ、あの、」
「ん?」
「わ、わたしのことは甜々って呼んで。おじいちゃんはそう呼んでたから」
それを聞いて明鈴はうふふとくすぐったそうに笑った。
「わかったわ、甜々!」
名を呼ばれて心がぽっと温かくなる。
「じゃあね、甜々! またね!」
明鈴は手を振って駆け出して行った。その背中に甜花も手を振る。
「……またね」
またね、だって! こんなこと言ったことなかったわ!
甜花は明鈴に握られた手をもう片方の手で握った。心臓がドキドキして首から上がぽうっと熱くなる。
友達! 初めての友達!
書物の中でしか知らなかった友達がこの後宮でできるなんて!
でも鬼霊が視えることは言っちゃだめ。小鈴を怖がらせてしまうし、噓つきって言われるかもしれない。だけど、だけど。
甜花は手を組んで空を見上げた。午後の明るい日差しが優しく目の中に落ちてくる。
(おじいちゃん! わたし、友達ができたよ)
天の星になった祖父は喜んでくれるだろうか?
甜花は鼻歌を歌いながら、運んできたたらいの泥汚れを水で落とした。そのあと歌に合わせて踊るような足取りで、次の仕事へ向かった。
*
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霜月りつ
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