「キキョウ」「はい」「リンドウ」「はい」「コスモス」「はい」
紀久子が注文票を読みあげ、ミドリが花材を確認し返事をしていく。デンマーク産三輪自転車のマルグレーテを車庫からだして店先に停め、ふたつの前輪のあいだのカゴに花材を入れたあと、いまは配達前の最終チェックだ。毎月第二・第四水曜に百日紅苑という老人ホームで、馬淵先生が生け花教室を開いている。そこまで運ぶのが、ここ最近のミドリの役目だった。十月第四水曜の今日で十回目になる。花材はどれも三十本ずつで、無作為に詰めこんだにもかかわらず、ちょっとしたフラワーアレンジメントのようで見応え十分だった。マルグレーテの脇には、ミドリの兄、誠がつくったどでかいかぼちゃのジャック・オ・ランタンが鎮座している。
「トルコギキョウ」「はい」「ススキ」「はい」「サンザシの実」「え?」
「どうした? 入れたよね、サンザシの実」
「はい。ちゃんとあります」
「だったらいまの〈え?〉はなに?」
紀久子が訝しげな顔で訊ねてくる。
「たいしたことじゃないんです。さっきまで読んでた『赤毛のアン』にサンザシがでてきたんで」
「それ、サンザシじゃないよ」
「どういうことです?」
ミドリが聞き返したものの、紀久子に答える余裕はなかった。「ごめんなさい、ちょっといいかしら」と店内の客に呼ばれたのだ。
「あとで教えてあげる。配達がんばってね」
あ、焼いてる。
飲屋街を抜けたところで、ミドリはマルグレーテを停めた。三叉路の先に間口が二メートルもない、ちっぽけな鯛焼き屋がある。そこで後期高齢者と思しきオジイサンが鯛焼きを焼いていた。
配達の度にこの前を通りながらも、その勇姿を拝めたのは数える程度だった。この機会を逃すまいと、たすきにかけたバッグからスケッチブックと筆入れをだす。前々から描きたいと思っていたのだ。
もう少し近づきたいが、そのためには道路にでていかねばならないので無理だった。三叉路は信号はないものの、意外と車の通りがあるのだ。マルグレーテに跨がったまま、4Bの鉛筆を紙の上に走らせていく。オジイサンは痩身で少し腰が曲がっていても、体幹はしっかりしており、動きに無駄がない。素早くあんこを入れる手つきに、ミドリは少なからず感動を覚えるほどだ。
五分ちょっとで描きおえる。これ以上、時間をかけてはいられない。スケッチブックを閉じて、鞄に入れていると、「ミドリさん?」と名前を呼ばれた。
「カナ先生。こんにちは」
彼女のフラダンス教室にハワイの首飾り、レイの材料になるデンファレを配達したのは三ヶ月前、夏のはじめだった。その後、カナ先生はときどき川原崎花店を訪れ、いまではすっかり常連だ。ふだんからハワイアンというかトロピカルな恰好で、今日もゆったりとした長袖シャツにはハイビスカスをはじめ、南の島の花々がプリントされていた。
「あなたにお願いがあって、いまさっき花屋さんにいってきたのよ。でも配達中だって言われてね。あとで出直そうと思ったけど、ここで会えてラッキーだわ」
「私にお願いって、なんです?」
「あなたの絵、ひとみママに見せてもらったの。女の子の野球選手がこうやってるとこの」ミドリの問いには答えず、カナ先生はバットを振るジェスチャーをその場でやってみせた。「ひとみママが撮った写真で、スマホの小っぽけな画面でもあの絵の素晴らしさはわかった。上手下手じゃなくて、いえ、もちろんとっても上手だった、でもそういうのを超越して、あの絵から熱量っていうかパッションをビンビンに感じたの。見ているだけで身体が火照ってきて、元気になれる気がしたんだ」
そう語るカナ先生の熱量も相当なものだった。ミドリは気圧されてしまい、「ありがとうございます」と礼を言うのがやっとだった。
「私は全然、気づかなかったんだけど、ウチに配達にきたとき、私や生徒さん達が踊っている姿を鉛筆で描いていたんでしょ? ひとみママに聞いたわ」
「あ、はい。町中で気になったひとがいたら描くのが習性みたいになっているんです。すみません、勝手なことをしてしまって」
「やだ、謝らなくていいのよ。それってつまり、私達のフラダンスがあなたの御眼鏡に適ったわけよね。光栄だわ。でね、こっからが本題。それをちゃんと油絵で描いてくださらない?」
「は?」ミドリは妙な声をだしてしまう。
「全然急いでないの。ミドリちゃんの都合でかまわないのよ。もちろんタダとは言わない。それ相当のお金はちゃんと払うから。ね? お願い」
「それはかまいませんが」
「ほんとに? やった。うれしいわ」カナ先生は胸の前で両手をグーにする。「野球の女の子って、ほぼ等身大だったのよね。あんなおっきな絵じゃなくていいの。教室に飾っておきたいんだ。できれば近いうちにきてくださらない?」
「ぜひ」と答える自分が、やけに力んでいることにミドリは気づく。
「とりあえずLINE交換しておきましょうか」カナ先生がスマホを取りだす。ミドリもだ。「ミドリさんがどんなふうに描いてくれるのか、すっごく楽しみ。私、ワクワクしてきちゃった」
その言葉に嘘はなさそうだ。無邪気に微笑むカナ先生の目はキラキラと輝いていたのだ。
アトリエの近くに獅子ではなく狼が狛犬の、小さな神社がある。入鹿女子高校野球部が甲子園まで勝ち進み、優勝できますようにと願ったものの、残念ながら叶わなかった。だがそれと同時に、私が画家になれますように、ほんのちょっとだけ手助けをしてほしいともお願いしたのは三ヶ月以上も前だ。
いまになって効いてきたのだろうか。
百日紅苑にはその名のとおり、庭に百日紅の木が生えている。けっこう立派で存在感があった。なにしろ二階建ての老人ホームとほぼおなじ高さなのだ。聞くところによれば樹齢百年以上だという。
百日間、花が咲きつづけるので百日紅と書く。たしかに七月上旬には、伸びた枝先に小さな花が房のようにまとまって咲いていた。赤みが強いピンク色で、遠目からわかるほどだったが、十月も後半のいま時分になると、さすがに花も咲きおえ、これからは葉っぱが赤く染まっていくのを楽しむのだと、先日、馬淵先生に教えてもらった。
百日紅苑の庭には他にもさまざまな木々がある。マルグレーテを百日紅の間近で停めると、甘い芳香が鼻をくすぐってきた。金木犀だ。カゴから花材をだしながら、ミドリは妙に思う。前々回、つまり先月の第四水曜に訪れたとき、金木犀は花が咲き揃い、この匂いを漂わせていた。ただし金木犀の花は三日から長くても一週間程度しか持たず、二週間前の前回には、花はすっかりおわっていたはずなのだ。
このあいだとはちがう木なのかな。
ミドリは香りがする方向に目をむける。おなじ木だったように思うがどうだろう。そう考えを巡らせていると、視界の端で木製の自動ドアが開くのが見えた。
「ご苦労様」でてきたのは馬淵先生だった。
「すみません、ちょっと遅れちゃって」
一時の約束だったが、五分ほど過ぎていた。もちろん鯛焼き屋のオジイサンをスケッチして、カナ先生に掴まっていたからだ。
「いいわよ、これくらい」
馬淵先生は百日紅の下を通り、ミドリの元まで寄ってきた。今日も着物姿だ。近くで見ると橙色から焦茶色のグラデーションで、一見シンプルでありながら、箱根の寄木細工を思わせる凝った縞柄だった。帯は明るめのベージュ、帯締めは着物にあわせて茶系色にしている。
「ぜんぶは持ち切れないわよね」と言いながら、まだカゴに残っていたススキとサンザシの実を手に取って抱え持つ。そして玄関へ戻ろうとするのを「馬淵先生」とミドリは引き止めた。
「なぁに?」
「ここの金木犀って、花が咲きおわってませんでした?」
「ああ、あれはね」馬淵先生も金木犀に目をむける。「二度咲きしているの」
「おなじ季節に花が二度咲いたんですか」
「私も詳しくは知らないんだけど、どうやら温暖化の影響で珍しいことじゃないらしいわ」
「マジですか」
ミドリはつい口にしてしまう。馬淵先生を疑ったわけではない。しかし金木犀のような身近な花に、温暖化の影響があらわれているなんて俄に信じ難かったのだ。
「昔だったら十月に入ればすぐ、着物も袷にしていたけど、ここ何年かはしばらく単衣でじゅうぶんだもの。秋を楽しんでいる余裕もなくなってきているし。ほんとこの先、どうなっちゃうのかしらね」
ふたたび歩きだす馬淵先生のあとをミドリは追いかけていく。
百日紅苑ができたのは二十年ほど前だが、昔の民家をイメージしたという、切妻屋根でぜんたいに趣のある建物だった。木々に囲まれているせいか、軽井沢あたりの避暑地の別荘のように見えなくもない。内装は天井や床、壁、窓枠に至るまで木材で、その魅力と温もりが存分に味わえるよう、露出した造りになっている。
「千尋さん、元気にしてます?」
階段をのぼりながら、ミドリは馬淵先生に訊ねた。生け花教室をおこなう〈お楽しみルーム〉は二階なのだ。
「元気は元気。でもまだまだ空元気」
馬淵先生の孫、千尋は三ヶ月近く前、高校女子硬式野球の夏大会二回戦で、ヒドい怪我を負ってしまった。強豪校で優勝候補だったにもかかわらず、その試合で敗退、千尋は診断の結果、左膝の十字靭帯断裂と半月板損傷とわかった。まだまだ空元気ということは、周囲に気を遣い、無理して明るく振る舞っているのだろう。以前、会ったときにはミドリの前でもおなじで、それが却って痛々しく思え、どう応じたらいいかわからず、戸惑うばかりだった。
「松葉杖はもう使わなくなったし、日常生活には大きな支障はないのよ。でも週に二、三度は高校の近くの病院へリハビリに通っていて、野球ができるようになるのは早くても来年の春らしいわ」
「そう言えば」階段をのぼりきり、陽射しが差しこむ廊下をふたり並んで歩いていく。「千尋ちゃん、高校でたあと、どうするんです?」
そういうおまえは大学でたあと、なにやっているんだと、ミドリは胸の内で自分にツッコミを入れる。
「春夏二連覇した静岡にある寿言高校の西さん、わかるでしょ」
「中学の頃、千尋ちゃんとバッテリー組んでいた子ですよね」
「あの子とおなじ大学にいって、ふたりで女子野球部に入って、またパッテリーを組むんだって言ってるけど」
「けど、なんです?」
「千尋の学力だと、その大学に合格するのはだいぶ厳しめなのよ。学校で先生に相談したら、いまから目指すのは無茶すぎるって言われたって。ただ千尋自身は浪人してもいくって、妙に張り切っているの。言いだしたら聞かない子だし、好きにさせておくしかないわ」
そう言いながらも馬淵先生は大きなため息をついた。孫娘が心配なのだ。でも彼女もまた、ミドリとおなじく、どうすることもできずにいるのだろう。その歯痒さに苛立ちを感じてさえいるようだった。
「フッフフフフフフッフゥゥゥ、フッフフフフフウゥ」
百日紅苑の配達をおえ、川原崎花店に戻って、マルグレーテを車庫に置き、ビルの玄関口を横切って、バックヤードに入ったところで、音量大きめの鼻歌が聞こえてきた。紀久子にちがいない。歌は天地真理の『ひとりじゃないの』だ。半世紀以上も昔の歌謡曲を知っているのは、〈つれなのふりや〉へ呑みにいくと、光代さんを筆頭に年配の客がカラオケで熱唱しているからだ。自然と耳に入ってきて、気づいたら口ずさんでいることもよくあった。紀久子などは気に入った曲があればネットで歌詞を調べ、〈つれなのふりや〉で自ら唄う。『ひとりじゃないの』などはいまや彼女の十八番だった。
この三日間、紀久子は浮かれ気味だ。理由はわからないが、以前も似たようなことがあった。大手クライアントから大きな仕事を依頼されたときだ。今回もきっとそうにちがいない。
「ただいま帰りました」
エプロンを着けてバックヤードから店にでる。
「お帰り、ミドリちゃん」
鼻歌の音量が大きかったのは、客がひとりもいないというのもあったらしい。紀久子は作業台で、ハロウィン仕様のスタンドブーケをつくっていた。コスモスにピンポンマム、ナスタチウム、トルコギキョウ、ガーベラなど、橙色あるいは黄色の花の中にソラナムパンプキンという枝物が入っていた。枝には直径三センチほどの小っちゃいカボチャに似た実が成っているが、じつはナスの仲間で、本名はエチオピアナスという。
このブーケは今月アタマから店に並べており、税抜きで三千五百円とちょっとお高めながらなかなかの人気だ。ハロウィンが近づくにつれ、さらに売行きが期待できそうだった。
そうだ、客がいないうちに。
「紀久子さん、さっきの話、聞かせてもらえますか」
「なんの話?」
「『赤毛のアン』のサンザシがサンザシじゃないって話です」
「ああ、それね。昔々」
まるでおとぎ話のでだしみたいだが、さほど昔ではなかった。紀久子がバイトに入る前なので、七、八年前のことである。『赤毛のアン』が好きな女性からウェディングブーケの依頼があった。できれば作中にでてきたサンザシでブーケをつくってほしいと頼んできたという。
「そしたら光代さんが、あれはサンザシではありませんって言ったんだって」
「どういうこと?」
「ミドリちゃんが読んでる『赤毛のアン』はだれの訳?」
それとなんの関係があるのかと思いつつ、「なんとか花子さんです」と答えた。
「やっぱそうなんだ。光代さんの話では原文だとメイフラワーと書いてあって、ヨーロッパだとたしかにサンザシのことだけど、カナダだとちがう花だったらしいんだ。おかげで花子さんは勘違いして訳しちゃったってわけ」
「ほんとはなんていう花なんですか」
「なんて言ったっけかな」紀久子は首を傾げる。「イワイチゴ? ちがうなぁ。イワなんとかだった気がするんだけど、いまいち思いだせないや」
依頼のウェディングブーケはおなじく『赤毛のアン』にでてくるスミレにしたらしい。
「あ、そうだ。レジに黄色い付箋、貼ってあるでしょ」
「はい」
「ミドリちゃんがでてったあとすぐ、読書会に参加したいって、ひとがきてさ。詳細はのちほど係の者がお知らせしますって、名前と携帯の番号、聞いといたんだ。その付箋に書いといたから、かけてあげてくれない?」
「わかりました」
そう答えたミドリはスマホを取りだし、素直書店の鈴本にLINEを送り、読書会の席にまだあまりがあるかを確認した。すぐさま既読になり、〈だいじょうぶです〉と秒で返事がきた。
〈素直書店・川原崎花店共催/花にまつわる読書会/第一回『赤毛のアン』/舞台となったプリンス・エドワード島から生中継を予定/定員十名(先着順)/参加費無料・ただしお一人様一品以上のご注文をしていただきます〉
場所は素直書店奥のカフェ、日時は三日後の土曜、午後七時からと、紀久子がデザインしたポスターが川原崎花店のショーウィンドウに貼りだされている。〈定員十名〉の前に〈二〉を赤の油性ペンで足したのはミドリだ。
このイベントの言いだしっぺは、素直書店店長の鈴本である。川原崎花店の店先の黒板の看板に花にまつわる短歌や俳句、詩、小説の一文、映画や芝居などの台詞が書いてあるのが、前々から気になっていたらしい。それがパートの光代さんの役目だと知ると、ウチのカフェで花にまつわる小説についての講座をしてほしいと依頼してきた。
鯨沼の高校で国語を教えていた光代さんにすれば、昔取った杵柄と言えなくもない。だが講座というのはいささか荷が重い。ならば読書会にして、ディスカッション形式にしませんかと、光代さんのほうから提案し、開催の運びとなった。
プリンス・エドワード島からの生中継をだれがするのかと言えば、ミドリの前にここでバイトをしていた芳賀泰斗だ。彼はカナダのツンドラ地域にある小さな村で植物調査をおえたあと、おなじカナダのその島で働きだしたのだ。勤め先は気候変動について研究する大学の機関らしい。
光代さんが第一回の読書会に『赤毛のアン』を選んだのは、芳賀がプリンス・エドワード島にいると蘭くんに聞いて、知っていたからだ。芳賀にガイド役を頼み、『赤毛のアン』の舞台を生中継で見られれば、読書会も盛り上がるはずと考えたのである。蘭くんを通して、お願いしたところ、他ならぬ光代さんのためであればと快諾を得ることができた。
その後、芳賀は素直書店の鈴本と連絡を取りあい、生中継のテストを何度か繰り返している。それでも念のため、〈当日はインターネット環境や機材トラブル、その他の諸事情により、止むを得ず生中継を中断または中止することがございます〉と注意書きが明記されていた。
ひとりじゃ心細いからいっしょにいてくれない?
ミドリは光代さん直々にそう頼まれ、この読書会の手伝いをすることになった。直接ではないにせよ、芳賀に会えるからだ。
兄の誠とおなじ大学で、実家の農家にときどき手伝いにきていた、自分より十歳年上の芳賀は、ミドリにとっって憧れのひとであり、初恋のひとでもあった。とは言え、その気持ちを芳賀に伝えたことはない。
じつは美大の一年生のとき、芳賀の秘密を偶然知ってしまい、自分の思いがぜったい通じないとわかった。十九歳のミドリはあまりのショックに耐え切れず、立ち直るまで時間がかかった。四年以上経ったいまも少し引きずっているほどだ。それでも芳賀には会ってみたい。その顔を拝むだけでもよかった。
読書会ではとくにこれといった役割はないのだが、ひとまず事前に読んでおこうと『赤毛のアン』を素直書店で買い求めた。大きな出版社二社から文庫がでているらしいが、生憎どちらも売り切れだったので、子どもむけのだった。まだ半分以下しか進んでおらず、明日の定休日には最後まで読み切るつもりだ。
二週間前から両店舗にポスターを貼り、レジ横にチラシを置き、さらにはSNSで参加者を募った。すると五日で十名に達し、定員を急遽二十名に増やした。まだ二、三名余裕があるものの、当日までにはいっぱいになるだろうと光代さんと鈴本が昨夜、川原崎花店の店先で話していた。ポスターとチラシには〈参加希望の方は店員にお声がけください〉と書いてあったものの、大半はSNSのDMでの応募だった。今回のように〈店員にお声がけ〉してきたのはごく稀である。
ミドリは身体を横にして、紀久子のうしろを通り抜け、レジカウンターにむかう。川原崎花店のレジはキャッシュレス決済にも対応できる、いわゆるPOSレジだ。その画面の端に付いた黄色い付箋を手に取る。電話番号と越澤という名前が記されていた。
「そのひとん家に、〈花天使〉経由の花を配達したことが何回かあったと思うんだけど」ほぼ完成形のブーケを、橙色と黒の二枚の紙で包みこみながら、紀久子が言う。「差出人が鳥取か島根じゃなかったかな」
「鳥取ですよ」
そう答えながらミドリは壁に取り付けられた電話の受話器を外し、090からはじまる数字を押していく。
「もしもし」呼び出し音二回半で相手がでた。
「こちら川原崎花店ですが、越澤様の携帯で間違いないでしょうか」
「あ、そうです。読書会の件ですか」
「はい、まだ参加できますので」
「さっき言い忘れたんですが、じつはふたりでして」
「ふたりでもだいじょうぶですよ」
「ほんとですか。よかったぁ」電話のむこうで越澤さんが安堵の胸を撫で下ろしているのがわかる。「私よりもいっしょにいく友達が『赤毛のアン』の熱烈なファンなんですよ。プリンス・エドワード島の生中継はぜひ見たいって、そのためにわざわざ鳥取からでてくるもので」
「お友達って、アナウンサーの?」
「ええ。あっ。もしかして、あなたが深作さん? 私の代わりに芙美子と〈みふね〉でディナーを食べた?」
「は、はい。すみません」
「やぁね」越澤さんは声をあげて笑う。「謝らなくてもいいのよ」
半年ほど前のことだ。越澤さんに会うため、鳥取のお友達が鯨沼を訪れたことがあった。鳥取らくだテレビのアナウンサーで、名前を貝塚芙美子という。彼女は〈みふね〉のディナーを予約していたものの、越澤さんの都合がつかず、その代わりにミドリを誘ってきたのだ。
「深作さんに会えてよかった、パワーをもらえたってあのあと芙美子、何度も話していたわ。どんな困難が立ちはだかっても、きちんとむきあって挑もうとする姿勢が素晴らしいって」
「そ、そんな」ミドリは恐縮しつつ、慌てて否定する。「私は全然そんなことないんです」
「深作さん自身、それに気づいていないだけじゃない? 芙美子はひとの本質を見抜く目があるのよ。高校の頃に人気の教師がいたんだけど、芙美子だけがアイツは信用おけんって言っててね。そしたらその教師、よその町で女子高生をナンパして、カラオケボックスでイタズラして捕まったんだから」
貝塚さんのシャープな目つきを思いだすと、納得できる話ではある。しかし私については誤解だとミドリは思う。そしてそれとはべつに越澤さんの口ぶりから、彼女にとって貝塚さんは自慢の友達なのだとわかった。ふたりが強い友情で結ばれていることが、ミドリは羨ましかった。自分にはそんな親友がいないからだ。
「深作さんも読書会に参加するの?」
「参加というか手伝いにはいきます」
「いることはいるのね。芙美子に伝えておく。彼女、深作さんに会いたがっていたもの。ぜったいよろこぶわ」
「私も楽しみにしています」
▲
「ラララリラリラリラララ、タッタタリララルルルル」
作業台にふたり並んでSDGsブーケをつくっていると、客がいないのをイイことに、紀久子はふたたび唄いだした。今度は広瀬香美の『ロマンスの神様』だ。最初は鼻歌だったのが、興に乗ってきたらしく、遂に唄いだしてしまった。間奏のメロディも口ずさみ、二番に入ろうとした途端、ピタリとやめた。
カボチャやオバケ、ガイコツ、コウモリ、クモなどハロウィン仕様のステッカーが貼ってある窓ガラスのむこうに、常連客の女性が見えたからだろう。六十代後半と思しき彼女は店頭に並べた花を吟味しはじめている。ミドリは花束をつくる手を休め、作業台を離れた。表の女性に声をかけ、いっしょに花を選んであげようと思ったのだ。だがその必要はなかった。
「こんにちは」
蘭くんだ。ミドリが店をでたところで、女性の元に走り寄ってきたのだ。
「あら、蘭くん。おひさしぶり」常連客の中には蘭くん目当ての女性が何人かいる。彼女もそのうちのひとりだった。「最近、見かけなかったけどどうしちゃったの? 風邪でもひいてた?」
「いいえ、そんなことはありません」
プリンス・エドワード島にいる芳賀に、読書会の件をお願いしてくれたのは半月以上前、その後も川原崎花店を訪れ、店の手伝いをしていたものの、ここ一週間近く、蘭くんは姿を見せていなかったのだ。どうしたのかとミドリ達も心配だった。すると昨日、スタッフの食事を買いに隣のスーパーの食品売場にいくと、蘭くんのママを見つけた。セルフレジで精算していたのだ。彼女もミドリに気づいたのだが、軽く会釈をしただけで、そそくさと去ってしまい、蘭くんについて訊くことはできなかった。
「じつはぼく、塾に通いだしたんです」
蘭くんは背中に水色の鞄を背負っていた。キラキラヶ丘団地内にある進学塾のモノだ。おなじ鞄を背負う子どもを鯨沼の町中でよく見かける。
「まだ小学四年生なのに、勉強ばかりしなくてもいいんじゃない?」
女性の言う通りだ。カンリョーになりなさい、そのために塾に通って受験勉強をしなさいと、お父さんに言われたと蘭くんから聞いたのは先月末だった。
「ぼくの師匠は知っていますよね」
「ここで働いてた芳賀くんでしょ」
「はい。ぼくが一年生だった頃、植物学者になるにはどうしたらいいか、芳賀さんに訊ねたら、いちばん大切なのは、いつも花について考えていることだって言われたんです。これはできています。だけどその他にもいっぱい勉強しておかないと、芳賀さんが通っていた農大に合格できません。つまり植物学者にもなれない。だから塾に通うことにしたんです」
カンリョーを目指すわけではなさそうだ。蘭くんとお父さんのあいだで、どんなやりとりがあったのかはわからない。だがどうやらお父さんの言うことを聞きながらも、屈することはなく、自分の道を目指すつもりらしい。
「それじゃあ、ここにはこなくなるの?」
「回数は減ります。今日はこれから塾にいかなければなりません。でも土日とか学校がお休みの日には手伝いにきます」
女性に話しながら、蘭くんはミドリをちらりと横目で見た。もしかしたらそれを条件に塾へ通うのを承諾したのではないか。彼は花の知識もさることながら、セールストークも達者だった。お父さんをウマいこと、説得したと考えられなくもない。
「お買い求めになる花について、相談に乗るだけの時間はあります」
「そう? このあいだ、勧めてくれた青いリンドウもよかったんだけど、今日は明るめの色のが欲しくって」
「おなじリンドウで?」
「できればべつの花がいいわ」
「でしたらこちらのワックスフラワーはいかがです? 日持ちがいい花でして」
蘭くんはピンク色の花を勧め、説明をつづけた。
「こんにちは」
塾へむかった蘭くんと入れ替わるように、折敷出がやってきた。中折れ帽にクラシカルなデザインのスーツと相変わらず往年のハリウッドスターみたいないでたちだ。
「鯨沼に用事があったもんで、寄ってみたのですが」帽子を取って折敷出は言った。いつもどおりの前置きだ。訊いてもいないのに必ず言う。「外島さん、いらっしゃいますか」
「いますよ」
「え?」
紀久子の答えに、折敷出は目をまん丸に見開いた。気持ちはわからないでもない。これまで幾度となく折敷出は川原崎花店を訪れていたが、店長の李多はぜったいいなかった。居留守などではなく、必ずどこかしらにでかけていたのである。
だが今日はちがった。ミドリは配達の前に、店長の李多とランチを食べている。そのとき今日、午後四時からの遅番だが、それまで三階の自宅の掃除や洗濯に専念すると彼女が話すのを聞いていた。
「呼びましょうか」ミドリは壁に付いた電話の受話器に手を伸ばす。
「待ってください」折敷出が制した。その顔を見ると、頬がヒクヒクと震え、目が泳いでいた。一気に緊張が押し寄せてきたらしい。「い、いきなりは困ります。心の準備ができていないものですから」
「でも店長に会いにきたんですよね」と紀久子。口元が綻んでいるのは、この状況を面白がっているからだろう。
「それはそうですが、まさかいるとは思っていなかったので」
「どうします?」
ミドリの問いには答えず、折敷出はその場で数回、深呼吸をおこなう。
「電話はしなくてけっこうです。いまから三階へいってきます」
「ラリラリラァ、ラリラリラリラァリラァ、ラァリアァ、ラララァリラァラァラァルゥルララァ」
メロディを口ずさみながら、紀久子は牛シマチョウを七輪の網に載せる。安室奈美恵の『CAN YOU CELEBRATE?』だ。もとから彼女がカラオケでよく唄う歌だった。
ここは飲屋街の一角にある焼肉屋だ。花の配達で前をよく通っていたものの、入ったのは今夜がはじめてだ。ただし正確には入っていない。五時前にきたのだが、十席もない店内はすでにギュウギュウだった。すると店員がどこからかテーブルと椅子を運びだしてきて、店前の狭い路地に即席のテラス席をつくってくれた。紀久子とミドリはそこに向かい合わせで座っている。店オススメの泡盛のホッピー割りを一杯半呑んだいま、行き交うひとの目も気にならない。
アルバイトを四時におえ、荷物を取りに三階へあがったとき、このあと用事ある? と紀久子が訊ねてきた。
とくにないですけど。
焼肉食べいかない?
この焼肉屋には二ヶ月ほど前に、撫で肩のカレシときたという。おいしかったので、もう一度いきたいと思っていたものの、カレシは仕事でなかなか時間が取れない。女ひとりでいくには気が引ける。そこでミドリに白羽の矢が立ったというわけだった。じつは今日、アトリエの大家の大屋さん家で食事会だった。しかし紀久子の熱心な誘いに抗い切れず、前々から気になっていた店でもあったので、大屋さんに電話をかけ、今日の食事会は欠席することを伝えておいた。
「カレシさん、なんかまた新しい花をつくっているんですか」
撫で肩のカレシは〈国立研究開発法人〉からはじまり、科学に開発、機構という単語が並び、その中に研究という二文字がぜんぶで四つか五つもある研究所で働く研究員だった。主になんとかビームを用いて、植物に突然変異を人為的に増加させることで、品種改良をおこなっており、川原崎花店で扱っているフリル菊などはその成果のひとつである。
「いまは花じゃなくて野菜だって言ってた。それも植物工場用で、育つ速度をいかに速めることができるかがネックらしいんだ」
「それで忙しい?」
「忙しいっていうか、なにせ相手は野菜だからさ。昼夜問わず、泊まりがけで観察しなくちゃいけないときもあるんだ」
「大変ですね」
「うん。だから研究所の近くに引っ越そうと思って」
「いつです?」
「とはいってもまだ先の話。来年の春くらいかな」
「寂しくないんですか」
「なにが?」
「だってカレシさんと遠距離ではないにせよ、片道一時間半は離れちゃうわけですし」
牛シマチョウの脂が炭火に滴り落ちたせいで、七輪から煙がもうもうと立ちこめる。そのむこうで紀久子が声をだして笑った。
「あのひと、ひとりだけで引っ越すはずないでしょ。私もいっしょよ」
そうか。そりゃそうだよな。
「でね。これを機に結婚することにしたんだ、私達」
この世界では毎日、だれかとだれかが結婚している。だがこうして身近な人物から報告を受けるのは、人生ではじめての経験だった。
「おめでとうございます」
ミドリが言うと紀久子は目をまん丸に見開いた。
「そういうの、ちゃんと言えるひとだったんだ、ミドリちゃんは」
「私をどんな人間だと思っていたんですか」
「怒んなくたっていいじゃない」と紀久子は笑いながら言う。
「いつ、そういう話になったんです?」
「日曜の夜」
なるほどとミドリは合点がいった。この三日間、紀久子が浮かれ気味だった理由はこれか。だから今日一日、ひとりではないことが素敵と訴え、ロマンスの神様に感謝し、お祝いしてくれますかと確認する歌を唄っていたのだと気づく。どれもいまの紀久子の心情にピッタリなのだろう。
「この話をしたの、月曜に母親、火曜に瑞穂、そして水曜の今日はミドリちゃんで三人目なんだ」
瑞穂とは紀久子の高校時代からの親友だ。一八十という、地元ではトップクラスの優良企業である練り物製品の会社に勤めていた。出張で東京にきた際は紀久子に会おうと鯨沼まで足を延ばし、川原崎花店を訪れるので、ミドリもよく知っており、三人で食事にいったことも何度かあった。瑞穂が送ってきた自社製品を、紀久子が川原崎花店に持ってきて、スタッフみんなで食べるのも恒例だ。紀久子の地元のかまぼこは板に貼り付いておらず、昆布と共に巻いているのがスタンダードで、一八十のもそうだった。光代さんなどは大のお気に入りで、一八十のオンラインショップで毎月、購入しているらしい。
「私、けっこう早めなんですね」
「そりゃそうよ」若干、焦げ気味の牛シマチョウを紀久子は口に運ぶ。「瑞穂のほうが古いってだけで、どっちも私にとっては大事な友達だもの」
「私、紀久子さんの友達だったんですか」
「ちがうの?」
「ちがいはしませんが」
ミドリはちょっと、いや、かなりうれしかった。自然と緩む口元をごまかすために、半分残っていた泡盛のホッピー割りを呑み干す。そして出入口の引き戸を十センチほど開き、「すみません、ホッピーの泡盛、お代わりくださぁい」と空のグラスを差しだす。「あいよ」と受け取ったのはカウンター席に座るオジサンだった。彼からカウンター内の店員がグラスを受け取り、すぐさま泡盛を注ぎ入れ、オジサン経由で戻ってきた。「ありがとうございます」とミドリは礼を言い、引き戸を閉める。
「これ見て」
紀久子が差しだしてきた紙を受け取ると、そこにはたくさんの鯛がいた。本物ではない。漫画っぽい造形の鯛だ。とはいえイラストではなく立体的だ。他にも鶴や亀、富士山、七福神などがあり、セットで箱詰めにされた写真が並んでいた。
「なんですか、これ?」
「細工かまぼこ」紀久子はナンコツとハラミを網に載せる。「すり身に着色して、そうやって絵を描いたり、形作ったりする地元の特産品で、それは結婚式の引き出物の一覧。瑞穂の会社のウェブサイトの商品カタログをプリントアウトしてきたんだ。ミドリちゃんだったら、そん中でどれがいいと思う?」
一応、税別五千円のはどうかと答え、紙を紀久子に返したあとだ。
「だけどいくらなんでも気が早過ぎません?」
「注文が早ければ早いほど割引するって、瑞穂が言うんだ」
「いつどこで結婚式をするかも決めてもいないのに?」
「引っ越してしばらく経ってからとは思ってるよ。だいたいゴールデンウィーク明けかな。それとほら、私、このあいだまで結婚式場のパンフレットのデザインをしてたじゃない?」
「〈寿々殿〉ですね」
ありとあらゆる場所がハートのカタチに象られ、絨毯や壁紙もハートに埋め尽くされた結婚式場だ。紀久子がデザインしたパンフレットも、彼女のアイデアでハート型だった。場所は鯨沼から電車だと上りに乗って、数駅先で乗り換えるので、三十分以上かかるが、車ならばその半分以下で辿り着く。
「結婚式を挙げるならばぜひウチでって、お世話になった担当者に言われてたから、早速、昨日の昼間に電話をしたら、殊の外よろこんでくれて、通常の半値以下でやってくれるって言うんだ。あとミドリちゃん、ウェディングブーケつくってくんない?」
「それも半値以下でですか」
「値段の交渉は李多さんにするって」
ミドリは泡盛の入ったグラスにホッピーを注ぎ入れ、かき回しながら、はたと気づいたことがあった。
「研究所のそばに引っ越したら、そっからバイトに通うんですか」
「そうはいかないよ。じつは去年の終わり頃からそろそろ一本立ちしなくちゃいけないと思ってはいたんだ。いつまでも李多さんに甘えていちゃ駄目だ、三十歳を前に新たな一歩を踏みだすべきだって」
「つまりバイトをやめる?」
「うん。とはいってもまだ半年はいるつもりだけど」
ミドリは少なからず動揺している自分に気づく。それだけではない。涙腺が緩んでもいた。まずい。このままだと泣いてしまう。
するととうの紀久子がミドリの肩越しに視線をむけ、「サプールさぁぁん」と手を振った。
「よぉ、ユリちゃん」
「ユリじゃなくてキクだって、何度言ったらわかるんですか」
カッカッカという笑い声とともにあらわれた男性は、緑色のスーツにピンク色のシャツ、黄色のネクタイに真っ白なズホンと目にも鮮やかな恰好で、しかもどでかいサングラスをかけている。折敷出よりも遥かに浮き世離れしており、ほとんど現実味がなかった。
「お嬢ちゃんはキクの愛らしさよりも、ユリの優雅さのほうがピッタリだからさ」
「はいはい、わかりました。ミドリちゃんはサプールさんに会うのはじめてだよね」
「あ、はい」
サプールとは、ハイブランドで派手なスーツを着て町を闊歩するコンゴ共和国のオジサン達のことだ。彼らとよく似たファッションなので、そのあだ名がついたとスナック〈ラッキーストライク〉のママから聞いたのは、先月末だ。あとで確認したところ、紀久子や李多、光代さんも彼を知っており、〈つれなのふりや〉にも何度かあらわれ、いっしょに呑んだこともあるという。
「あんたがミドリちゃんか。〈ラッキーストライク〉のママから聞いたよ。俺の誕生日の花束をつくってくれたのはあんたなんだろう?」
「そ、そうです」
「八十三年の人生で、あれほど素敵な誕生日プレゼントをもらったのははじめてだった。感激したよ。長生きはするものだと思った」
「気に入っていただいて光栄です」
いくらなんでも大袈裟すぎると思いながらも褒められればうれしい。ミドリは素直に礼を言った。
「サプールさん、いまから〈ラッキーストライク〉に出勤?」
「ああ。今日は仕事が早めにおわったんだ」
紀久子に答えつつも、なぜかサプールさんはミドリに顔をむけたままだ。それどころか大きなサングラスを外し、まじまじとみはじめた。
「あんた、前輪がふたつの自転車乗ってるよな」
「あれで花を配達していまして」
「ミドリちゃん今年の春、私とおんなじ美大を卒業して、バイトをしながら画家を目指しているの。だから彼女が作る花束って、色の組み合わせが絶妙で、奥行きがあるアレンジができるんですよ」
「そうか。だからあんた、町中で絵を描いてるのか」
「え? ど、どこかで絵を描く私を」
「よく見かけるさ。最初に気づいたのは夏の暑い盛りだ。三多摩信用金庫のまわりに、足場を組み立ててたところを描いていただろ」
「あの職人さん達の中にいらしたんですか」
「ありゃあ俺の会社総出だった」
「俺の会社って、サプールさん、社長なんですか」と紀久子。
「社長はとうの昔に息子に譲ったけど現場にはでてるんだ。自分の呑み代くらいは稼がねえとな」サプールさんはふたたびカッカッカと笑う。「俺達を描いた絵はどっかで発表しているのかい?」
「いえ。あれはただのスケッチなので」
「ミドリちゃんの専門は油絵なんだ。町中で描いているのは、その題材探し」
「だったらどうだい、ミドリちゃん。俺達を題材にして描いちゃくれねぇか。もちろんタダとは言わねぇ。それ相当の金は払う」
「フフフン、フフフフゥ、フフフンフンフンフン、フフフンフンフンフンフフッフゥフゥフゥフゥゥゥ」
紀久子のがうつったかのように、自転車を漕いでいるうちに、ミドリは自然と鼻歌を唄っていた。いまのは〈つれなのふりや〉で覚えた半世紀以上昔の歌、小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』だ。
焼肉屋は七時半頃で切りあげ、寿々殿のデザイン料が入ったからと紀久子が奢ってくれた。別れ際、ご結婚おめでとうございますと、彼女にハグをしたのは酔っ払っていたからだ。泡盛のホッピー割りを五杯も呑んでしまったのである。
鯨沼駅では待つことなく電車に乗れた。上りなので車内はガラガラだったが、ミドリはドア脇の壁に寄りかかり、立ったままでいた。座ったら寝オチして、乗り過ごしてしまうにちがいない。過去に何度かヤラかしているのだ。
八時過ぎに最寄り駅に着いた。駅周辺はまだ人通りが多い時間帯だったが、住宅街に入って進んでいくと、次第に人影はまばらになった。
おっと、いけない。
ミドリは慌ててブレーキをかけ、サドルに跨がったまま、爪先で二メートルほどバックしてから自転車をおりた。小さな鳥居の下をくぐり抜け、五歩も歩けば祠の前に辿り着く。なにしにきた? と左右の狼が自分を睨んでいるように思えなくもない。
そんな怖い顔しないでくださいって。
財布からだした五円玉を賽銭箱に入れて手をあわす。今日一日で絵の注文が二件あったのだ。ここはやはり礼を言うべきだろう。さらに十円玉を放りこみ、千尋の怪我が早く治りますようにと願う。そして振り返った瞬間、ミドリは驚きに身体を震わせ、危うく声をだしそうになる。自転車の横にひとが立っていたのだ。
「やっぱ深作か」爲田だった。「なにやってんだ、そんなところで」
「お参りに決まってるでしょ。あんたこそなにやってんの?」
「ジャンケンで負けたんだ」
爲田は左手にレジ袋を持っていた。大屋さん家の食事会のあと、みんなでジャンケンをして、負けたひとがコンビニで食後のデザートを買いにいくのだ。
「うわっ」ミドリが近づくと爲田は右手で鼻を塞いだ。「おまえ、酒臭いぞ。どんだけ呑めばそんなに臭うんだ」
「私がどんだけ呑もうと、あんたには関係ないでしょ」
「俺には関係ねぇけどよ。おまえの客ふたりはどう思うか」
「客? 私に? ふたりってだれとだれ?」
「おまえ、やっぱLINE見てねぇのかよ」
爲田に咎めるように言われたが、ミドリは言い返せなかった。LINEの通知は美容院や飲食店などの公式アカウントがほとんどなので、いちいち確認しない。呑んでいたので尚更だ。
「おまえの卒制のモデルになった女の子と、おまえとおんなじバイト先の男の子」
千尋と雷にちがいない。卒制を描いているあいだ、千尋は何度かアトリエを訪れたことがあった。
「美大の子達に呼ばれて、大屋さん家へ夕飯を食いにいこうとアトリエをでたら、そのふたりがちょうどきたところだったんだ」
「なんで私に会いに?」
「女の子のほうが卒制の絵が見たくなったんだとよ。LINEを送ったけど、いつまで経っても未読のまんま。それでもひとまずアトリエにいっておまえを待つことにしたんだって」
ミドリの住まいはこの近くのワンルームマンションだが、帰宅途中に必ずアトリエに寄っていく話は、千尋にも雷にもした覚えがあった。
「だったら俺達といっしょにメシ食いながら待てばいいって誘ったんだ。それで大屋さん家にいくと、一時間くらい前におまえから食事会にはでられないって電話があったっていうじゃん。そこでまた女の子のほうがおまえにLINE送ったけど返事がない。待ってれば帰ってくるだろうと話していたのに、メシも食いおわっちまったってよ。なんであれギリ間に合ってよかったさ。これ以上待たせちゃなんだから、さっさといこうぜ」
世間の皆様に入鹿女子高校野球部を知ってもらいたいと、千尋はユニフォーム姿で通学することが多かった。でもいまは制服のブレザーで、多少の違和感はありつつ、案外似合っていた。今日は高校の近くの病院でリハビリをしてきたのだという。
「リハビリの先生は順調に快復しているって言うんです。でも以前のように野球ができるのか、できたとしても八ヶ月以上のブランクを取り戻せるのか、不安でたまらなくて」
大屋さん家の食事会は床の間がある八畳で、冬にはコタツになるテーブルをみんなで囲む。今夜もそうだった。デザートを食べおえると、現役の美大生はアトリエに戻っていった。いまここには千尋と雷、大屋さんにミドリ、そしてなぜか爲田も残っていた。できるだけ酔いを覚まそうと、ミドリはがぶがぶ水を飲んだものの、座っているとグラついてきてしまい、両腕をテーブルの上で重ね、身体を固定しなければならなかった。
「でもあの、ミドリさんが描いてくださった絵を、スマホの写真じゃなくてどでかい実物を見れば、気持ちが前向きになるんじゃないかと思えてきて。そこにちょうど雷先輩からLINEがきたんです」
「今日、リハビリだって知ってたんで、どんな感じだったか訊いたんです」ほんとなのだろう。でも雷の口ぶりはどこか言い訳がましかった。「そしたら深作さんのアトリエについてってほしいと返信がきて、いまここにいるってわけです」
「承知致しました。それでは早速、わたくしの絵をお見せ致しましょう」
ミドリはそう言い、立ち上がろうとしたが足がもつれ、危うくコケそうになった。
「ミドリちゃん、だいじょうぶ?」大屋さんが心配顔で言う。
「だいじょうぶです。酔っ払いは往々にして酔ってないって言うでしょう? でも私は酔っている自覚はある。よって私は酔っ払いではありません」
「どこからどう見ても立派な酔っ払いだっつうの」と爲田。こちらは呆れ顔だった。
立ち上がっても足元がだいぶふらつくため、ミドリの両脇を爲田と雷が支え、大屋さん家からアトリエへとむかった。十メートル程度の道のりのあいだ、泡盛のホッピー割りがどれほどウマかったかをミドリは説いたものの、だれもまともに聞いてくれなかった。
部屋の前まで辿り着くと、大屋さんが襖を開けてくれた。ミドリは力尽き、崩れるように部屋の真ん中にへたりこみ、あひる座りで俯せになってしまう。すると頭上からため息に似た声が洩れるのが聞こえてきた。
「どうかした?」ミドリは上半身を起こして、だれにともなく言う。
「なんでおまえ、スケッチした絵を部屋中に貼ってるんだ?」
爲田が質問に質問で返してくる。
「なんでって、この五ヶ月近く町中で気になったひとをスケッチブックに描いてて、その中から油絵の題材になりそうなのを選んで貼ってあるんだよ」
たぶん百枚は優に超えているだろう。
「これ」そのうちの一枚に千尋が顔を寄せていく。「雷先輩じゃないですか」
「ほんとだ」雷がおなじ絵に視線をむける。「俺がベース弾いてるとこなんて、いつ見て描いたんです?」
「千尋ちゃんとライブ見にいったとき、目に焼き付けといて、ここで描いたんだ。それがきっかけで、もっとひとを描いてみたいと思ったんだよね」
「大屋さんもいますよ」
「どれどれ」千尋が指差す絵に、大屋さんが近寄っていった。「庭の茄子、採っているところじゃない。いつの間に描いてたの?」
「すみません。なるべく気づかれないように描くのをモットーにしてるんです。そのほうが自然な表情や仕草が描けるんで」
「俺もいた」爲田はちょっとうれしそうだ。絵を描くのに熱中するあまり、襖を閉め忘れていることがときどきあった。そんな彼がキャンバスと向きあう姿をスケッチしたのだ。「それでどれを描くか、決まったのか」
「こんだけ数があるとなかなか決まんなくて困ってたんだ。そしたら今日」カナ先生とサプールさんから、自分達を題材に油絵を描いてほしいと頼まれたことをミドリは手短かに話した。
「絵を描いてお金をもらうってことは、立派な画家じゃないですか」
千尋がはしゃいだ声をだす。我が事のようによろこんでくれているのだ。なんてイイ子なのだろう。
「あら、やだ。先、越されちゃったわ」大屋さんがちょっと不服そうに言う。「私も前々からミドリちゃんに描いてもらおうと思っていたの。写真に四つ切りサイズってあるでしょ。あれとおんなじくらいでお願いできない?」
四つ切りサイズは三〇五ミリ×二五四ミリだ。兄のフィルムカメラを借りて、撮るだけでなく現像もしたことがあるので、ミドリはすぐにわかった。キャンバスでいちばん近いのは三三三ミリ×二四二ミリのF4号だ。
「かまいませんが、なんでそのサイズなんです?」
「葬儀屋さんに訊いたら祭壇に飾ったり、出棺のときに遺族が持ったりする遺影は四つ切りなんですって」
「遺影代わりに私の絵を?」
「そのとおり」大屋さんが頷く。「私もいつお迎えがきてもおかしくない歳だから、いまのうちに準備しておこうと写真を選んでいたんだけど、なかなかいいのがなくってね。どう、ミドリさん。お願いできるかしら?」
「もちろんです。描きます。描かせてください」
「つぎつぎ仕事が決まってよかったじゃねぇか。羨ましいかぎりだ」爲田は憎まれ口のように言ってからだ。「サイズからして、卒制の絵はこの布ん中か」
「あ、うん」
千尋に卒制の絵を見せるという肝心な用件を忘れ、自分の話ばかりしていたことが、ミドリは恥ずかしくてたまらなくなった。布はかけてあるだけなので、捲れば絵がでてくる。しかしその布にもスケッチした絵が二十枚以上貼ってあったので、みんなで剥がさねばならなかった。ミドリも手伝おうとしたが、おまえはいい、座っていろと爲田に言われてしまった。
そして除幕式のごとく、爲田と雷が布を外すと、ユニフォーム姿の千尋があらわれた。バットを振った彼女はいままさにボールを捉えようとしている。
実物の千尋が真ん前に立ち、一メートルも離れていない距離でじっと見つめている。だれも一言も発することなく、部屋はしんと静まり返った。するとしばらくして、くすんくすんと洟を啜る音が聞こえてきた。千尋だ。ミドリが座る位置からは、その顔は見えない。でも左手の甲で、頬を拭っているのはわかった。
だいじょうぶだよ、千尋ちゃん。私が描いた絵のように、あなたは必ずまた野球ができるって。
声にだして励ましてあげたかった。でもできなかった。瞼が重い。まるで酔いが覚めないうえに睡魔まで襲ってきたのだ。
「深作って、ひとが好きなんだな」
爲田の声が聞こえる。
コミュ障で、人付き合いがヘタで、友達もロクにいないこの私が?
「そりゃそうよ」すかさず大屋さんが同意する。「じゃなきゃこれだけ、ひとの魅力を引きだした絵は描けないわ」
やめてください。そんなことありません。私は褒められると萎縮して力が発揮できないタイプなんです。だいたいみんな私のことを買い被り過ぎなんだ。
そう言いたいところだが、やはり無理だった。睡魔の勢いに抗い切れず、ミドリの意識は遠のいていった。
川原崎花店のシャッターは閉まっている。木曜の今日は定休日なのだ。脇にまわって玄関口からビルに入り、階段をのぼっていく。二階の囲碁倶楽部の前を通り過ぎて三階へむかう。元気があれば一段飛ばしで駆けあがるところだが、今日は無理だった。午後も二時前にもかかわらず、昨日の泡盛がまだ完全に抜けていなかった。
目覚めるとアトリエの部屋だった。卒制の絵は布の中で、剥がしたはずのスケッチの絵も元通りになっていた。昨夜の出来事は夢だったのかと一瞬、疑ったほどだ。でもそうではなかった。〈ありがとうございました〉と千尋の置き手紙があったからだ。そしてミドリには花柄の毛布がかかっていた。折り畳んで抱え持ち、大屋さん家にいった。毛布と交換に、大屋さんから自分の鞄を受け取り、二日酔いの薬までもらい、その場で飲んだ。
住まいのワンルームマンションに帰り、シャワーを浴びてから、『赤毛のアン』のつづきを読もうとしたが、できなかった。鞄の中になかったのだ。昨日の昼間、ランチタイムに読んだとき、三階のキッチンに置きっ放しにしたらしい。
李多にLINEで訊ねてみたところ、五分後にその本の写真が返信されてきた。しばらく考えてから〈いまから取りにいってもいいですか〉とLINEを送った。このままウチにいたら眠ってしまい、今日一日を無駄に過ごすにちがいない。ならば本を取りにいき、その足で素直書店のカフェででも読むべきだと思ったのだ。
あれ?
三階のドアは鍵がかかっていた。何度かノックしたが返事がない。すると階段の上のほうでギィィィと軋む音がした。屋上のドアが開いたのだ。その隙間から李多が顔を覗かせ、「こっち、こっち」と手招きをした。
屋上にはテーブルが一台と、それを挟んで椅子が二脚あった。いずれもプラスチック製で、いつからここにあるのかわからないが、雨風にさらされたせいでだいぶ薄汚れている。雲ひとつない青空の下、秋とはいえ眩しい陽光にさられていると、さらに安っぽく見えた。
テーブルの上には輪切りのレモンが浮かんだ水差しがあった。李多手作りのレモネードだという。『赤毛のアン』を返してもらってから、飲んでかない? と言われ、椅子に座って一杯、いただくことにした。砂糖や蜂蜜の甘味よりも、レモンの酸っぱさが勝っており、それが二日酔いの身体にはちょうどよかった。
李多はよれよれの長袖Tシャツに、やはりよれよれのスウェットの長ズボンとヒドい恰好だ。たぶん部屋着なのだろう。ノーメイクで目の下に隈ができているのが、はっきりとわかった。しかも酒の匂いが微かに漂う。彼女も二日酔いにちがいない。
「李多さん、昨日、どっか呑みいったんですか」
「仕事おわったあと、ひとりで〈つれなのふりや〉にいってね。カラオケもさんざん唄って、気づいたら朝五時だった」
だからガサガサ声なのかと納得する。すると水差しのむこうに横たわった瓶が見えた。中に小さな船が入っている。ボトルシップだ。
「それって折敷出さんがつくったヤツですか」
「うん、そう」
「そう言えば昨日、いらしてましたよね」
「うん。でもこれは私がまだ弁護士事務所で働いてたときで、誕生日プレゼントにもらったんだ。今度の読書会に使いたいからって、光代さんに頼まれてひっぱりだしてきたんだ」
「読書会に? どうしてです?」
「この中の船、なんて名前だと思う?」
「なんです、いきなり?」
「西洋史で習ったはずよ」
「そんなに有名な船なんですか」
「『赤毛のアン』はどのへんまで読んだ? この船の名前の花がでてきたはずなんだけど」
あっ。
「メイフラワー号ですか」
「正解」
「でもこの『赤毛のアン』は花子さんの訳のままで、サンザシなんです」
そしてミドリは昨日、紀久子から聞いたウェディングブーケの話をした。
「そのときに、折敷出さんからもらったボトルシップの船がメイフラワー号だと光代さんに話したんだ。が覚えていたのだという。そしたら船の名前のメイフラワーはサンザシで、ヨーロッパだと昔から魔除けの力があると信じられていたから、航海の無事を願って船尾に描かれていたのよって、光代さんに教えてもらったの」
ミドリがメイフラワー号について思いだせるのは、イギリスの清教徒が信仰の自由を求めて、アメリカに渡ったときの船だというのが精一杯だった。
「サンザシでなければ、『赤毛のアン』のはなんなんです? 紀久子さんに訊いたら、イワなんとかだって」
「イワナシだよ。秋には小さい実ができて、それが梨に似てるからだって、これも光代さんの受け売り。まあ、いずれにせよ花屋じゃ扱ってない花で、ウェディングブーケにはできなかったんだ」
メイフラワーと呼ばれる花は他にもいくつかあるとも、光代さんに教えてもらったそうだが覚えていないという。
「折敷出さんはなんの用だったんですか」
ミドリは話題を戻した。どうしても知りたかったのではない。なんとなく気になっていただけだ。
「彼、結婚するんだとさ」
「え?」李多の返事を咀嚼するのに、ミドリは少し時間がかかった。「元カノの李多さんに、それを直接言うために、わざわざ何度となく訪れていたんですか」
「私もそう思って、おんなじことを彼に言ったよ。そしたら私が言いだしたことらしいんだ」
「李多さんがなにを言ったんです?」
「別れたあとに結婚する場合、必ず直接会って報告し、なおかつ相手を披露宴に招待することって、言っただけじゃなくて誓約書を書いて、お互いサインまでしてたんだ」
「なんでそんなことを?」
「まだつきあっている頃で、彼と別れるなんて当時の私は夢にも思ってなかったんだろうね、きっと。ただの冗談のつもりだったのに、彼はその誓約書を後生大事に取っといたんだ。なにせ弁護士だから、そのへん律儀なわけ。結婚式は来月、勤労感謝の日らしいんだ。間に合ってよかったなんて言うんだよ、彼」
「披露宴には?」
「でるはずないでしょ。丁重に断った。結婚するんだったら、元カノの花屋にしょっちゅう足を運ぶような真似はするなと注意もしといたよ」李多はレモネードを一気に飲み干し、大きなため息をつく。「縒りを戻したいって言いにきたのかと、期待しちゃうじゃんねぇ」
素直書店のカフェに急遽、備え付けられたモニターテレビは、壁掛けの超薄型で七十五インチと、二十人が集まった読書会にはちょうどいい大きさだった。東三条の蕎麦仲間のひとりから借りただけではなく、プリンス・エドワード島との生中継ができるよう、すべて設置もらったらしい。
そしていま、七十五インチの画面に紅葉が映っている。光代さんが司会を務め、参加者のあいだで、活発な意見が交わされ、瞬く間に一時間近くが経ったあとだ。〈インターネット環境や機材トラブル、その他の諸事情〉もなく、無事にプリンス・エドワード島と繋がったのだ。
「おはようございます」芳賀の声が聞こえてきた。手持ちカメラを片手に歩いているらしい。だが自分にはむけず、画面の中は相変わらず見事な紅葉に溢れていた。「じゃなくて十二時間の時差で日本だとこんばんはですね。すみません、こちらは三十分ほど前に陽が昇ってきたばかりでして。えっと、いまぼくはアンが親友のダイアナとともに学校まで歩いたという、恋人の小径へむかっています。じつは中継がはじまると同時に、そこにいるはずだったのですが、ちょっとその、ウチをでるのが遅れてしまって」
「芳賀くん」と光代さんが呼びかける。
「あ、はい。なんでしょう?」
「自己紹介がまだよ」
「え、あ、はい。すみません」
申し訳なさそうに詫びる芳賀を見て、参加者から好意的な笑いが起きる。ミドリも思わず笑ってしまう。
「こういうの、やり慣れていないもので。どうも、芳賀です。よろしくお願いします」
「名前だけじゃなくて、もっと言うことあるでしょ」
「しがない植物学者のタマゴです。いや、植物だからタネと言うべきですかね。大学院をでたあと、頭脳よりも体力とコミュ力が評価され、国内外の極地の調査に駆りだされ、先月からはここ、プリンス・エドワード島にある大学の機関で働いています。じつを言えば住みはじめてから『赤毛のアン』の舞台だと知りまして」
「芳賀くぅん」光代さんがふたたび呼びかける。
「はい、なんでしょう?」
「プリンス・エドワード島の紅葉が存分に楽しめるのはいいのですが、きみの顔も見せてくれない?」
「お見せするほどのものではないんで」
「ちょっとだけでもお願いできない?」
「わかりました。いいですか、いきますよ」
七十五インチいっぱいに、にっこり笑う芳賀の顔があらわれた。お世辞にもイケメンとは言えない、もっさりとした顔つきだが、その笑顔はチャーミングで、ひとをひきつける魅力があった。目が澄んでいてキレイだからだとミドリは思う。
「芳賀くん、おひさしぶりぃぃ」「全然変わってないわぁ」「相変わらずイイ男ぉ」
参加者の何人かから声があがった。芳賀がバイトをしていた頃からの女性客が参加しているのだ。平均七十歳というところか。そこでまた参加者から笑いが起きた。
「ありがとうございます」礼を言ってから芳賀は画面から消える。「そうだ、忘れないうちに紹介したいものがあるんですがいいですか」
「どうぞ」と光代さんが応じた。
「さきほどまでのみなさんの話にもあがっていました、メイフラワー問題。サンザシでなくイワナシなのは間違いではないのですが、より正確に言うと、アメリカイワナシ、英語だとtrailing arbutusと言いまして、イワナシと花冠のカタチが微妙にちがいます。職場の友人にこの読書会の話をしたところ、ならばと貸してくれたものがありまして」
画面にでてきたのは押し花だった。小さくて淡いピンク色の花びらが愛らしい。
「それがアメリカイワナシ?」みんなを代表するように、光代さんが訊ねた。
「そうです。そこにいるみなさんならご存じ、『赤毛のアン』にでてきたお化けの森で見つけたと、友人は話していました。いまとなってはここでも見つけにくい、珍しい花になりつつあります」
いけない。芳賀の声を聞いているうちに、ミドリは目が潤んできてしまった。彼を恋い焦がれていた頃が懐かしくてたまらなくなったのだ。
あの頃にはもう戻れない。
わかっているが、締めつけられるほど胸が痛い。
読書会のために、サンザシとイワナシについて、事前にネットで検索しておいた。自然と花言葉もわかった。どちらにも似たような花言葉があった。
サンザシはただひとつの恋。
イワナシはあなたを愛しています。
(おわり)
★『花屋さんが夢見ることには』の連載は今回で終了となります。書籍刊行をお楽しみに!