「ミドリちゃん」
午前八時前に出社してすぐだ。水揚げをするために、店内の花桶をバックヤードに運びこむと、店長の李多に呼ばれた。
今日は金曜日、彼女は日の出とほぼ同時に、世田谷の花卉市場へいき、切り花を仕入れてきたにちがいない。市場内の仲卸店でいちばんの仕入れ先『フルール・ド・トネール』では、店主兼社長の息子の雷翔が李多を待ち構え、仕入れた花を彼女のミニバンに運んで積みこむ。そして帰り道は雷の運転で、川原崎花店に戻ってくる。雷はそのまま早番のバイト、李多は開店準備まで働くのがここ半年ほどのパターンになっていた。
「これが例のデンファレね。ぜんぶで七箱」
李多は棚に積んだ箱を指差す。一箱が縦五十センチ横四十センチ、厚み十五センチほどと平べったい。
「七箱ってことは、一箱につき五十本ですか」
「そのとおり。一応、見とく?」
李多はミドリの答えを待たずに、一箱取りだすと蓋を開いた。十本ずつ束ねたのが五束、横たえてある。花びらは注文どおりピンク色だった。
デンファレの正式名称はデンドロビウム・ファレノプシスだと教えてくれたのは、もちろん小学四年生の常連、蘭くんである。彼によればデンドロビウムとはギリシャ語で〈デンドロン(樹木)〉と〈ビオス(生命)〉の意味だという。野生のデンファレは地面ではなく、他の樹木に根を張って生きていくので、この名前になったらしい。ファレノプシスは胡蝶蘭の学名である。おなじ蘭の仲間で、花のカタチはよく似ているものの、値段は雲泥の差と言っていい。デンファレのほうがずっと安くて手頃だ。
でなきゃ三百五十本も買えないよな。
十日前のことだ。
李多が昼休みでおらず、ミドリがワンオペで店番をしていたところに、ひとみママがあらわれるなり、デンファレを三百五十本お願いできるかしらと注文してきた。
三百五十本ですか。
ミドリは思わずオウム返ししてしまった。なくはない本数ではある。入学式や卒業式、結婚式、パーティーやイベントなどで配るため、デンファレにかぎらず、バラ、カーネーション、ガーベラ、スイートピー、チューリップなどを一本のブーケにする例は少なからずある。だがひとみママの注文は、そのいずれでもなかった。
再来週の土曜、国営公園で市民フェスティバルがあるんだけどさ。そこの特設ステージで、はじめて人前でフラダンスを踊るんだ、私。
この半年近く、ひとみママがフラダンス教室に通っているのは〈つれなのふりや〉で本人に聞いていたし、カウンターの中で、ちょっとだけ踊ったのを見てもいた。今回は教室の講師とひとみママを含む生徒十二人で踊るのだという。
せっかくの晴れ舞台だし、レイを自分達でつくろうって話になってさ。
レイとはハワイ語で首飾りのことで、デンファレの花びらでつくる。ひとつに百輪の花びらが必要で、デンファレは一本につき七、八輪はあるものの蕾のままだったり、咲いていてもキズがあったりするため、五輪取れればいいほうらしい。となるとレイひとつにつき二十五本、失敗したときのことを考えて少し多めに三百五十本となったそうだ。できれば色はピンクで統一してほしい、フェスティバルの前日につくるので、その日の昼三時半に届けてほしいと頼まれた。
昼休みから戻ってきた李多に、この注文を伝えると、彼女はすぐさま『フルール・ド・トネール』に電話をかけた。店主兼社長に利用目的も電話口で説明したうえで発注を済ませた。そして七月第二金曜の今日に入荷してきたわけだ。
「この箱のまんま、配達しちゃっていいからね」
「はい」
「せっかくなんで、これ以外にもいろんな品種のデンファレを仕入れてきたんだ。店開いてからでいいんで、写真撮って、SNSにアップしといてくんない?」
「了解です」
SNSの管理と更新は紀久子の役目のはずが、いつしかミドリに移行していた。写真をアップするだけではなく、花言葉も添えている。
「SNSで思いだした」李多はエプロンから折り畳んだメモ用紙を取りだした。「これも告知しといてくんない?」
〈『髪に挿せばかくやくと射る夏の日や王者の花のこがねひぐるま 与謝野晶子』 こがねひぐるまとはなんの花でしょう? 商品をお買い求めの際、レジでお答えください。正解者の方には商品を五パーセント値引き致します。ただしチャレンジは今日一日かぎりお一人様一度とさせていただきます〉
「光代さんに教わって、今日、黒板にこの短歌を書くことにしたんだけどさ。せっかくなんでクイズにしたの。ミドリちゃん、わかる?」
ぱっと思いついたのを言ってみた。
「正解っ」
「簡単過ぎやしません? それにネットで調べてきちゃうひともいるだろうし」
「いいのよ、べつに。イベントっていうか、サービスよ、サービス。だからハズれてもヒントをだして、ぜったい当てさせなきゃ駄目よ。いい?」
「わかりました」
「それと話は戻るけど、デンファレの配達のついでに、レイのつくり方を習ってきてくんないかな」
李多はときどき思いつきで突飛なことを言いだす。三年以上もアルバイトしていれば、いい加減慣れてきて、ミドリは驚かなくなった。いまもそうだ。でも理由は知りたい。
「どうしてですか」
「期間限定で受注販売してみたらどうだろって、一昨日の夜、〈つれなのふりや〉で呑んでて思いついたのよ。ほら、ミドリちゃんって手先器用でしょ。クリスマスリースとか注連縄とかつくるの得意じゃない? このあいだのフラワーブックだって、結局、キクちゃんひとりじゃままならなくて、ミドリちゃんがつくるのを手伝ったおかげで間にあったわけだしさ。その場ですぐ、ひとみママにお願いしたら、フラダンスの先生に話を通してくれてね。LINEでオッケーですって返事がきたのよ」
なんで私に一言も相談なしにと文句を言いかけたのを李多は察したらしい。すかさずこう付け加えた。
「今日は早番で午後四時までだけど、レイをつくってて超過したら、そのぶん時給は払う。ね? お願い」
つまり仕事だ。ならば仕方がない。
「ミドリちゃんだったら、ぜったいじょうずにデキると思うんだ。期待してるよ」そう言いながら、李多はさきほどとはちがうポケットから、半透明のファスナーケースを取りだした。「レイをつくるのに必要な道具。ひとみママに聞いて揃えておいたんだ。花切り鋏に太めの糸一・五メートル、あれば長い針をって言われたんで、布に包んであるのがぬいぐるみ針ね。十二、三センチはあるからじゅうぶんだと思うんだ。だすときとかに刺さないよう気をつけて」
どうしてぬいぐるみ針が必要なのか、そしてなぜ李多がそんな針を持っていたのか、いろいろと疑問は沸き起こったものの、いまここで訊ねる時間はない。受け取ってエプロンのポケットにしまう。
「あとそれと」
まだなにかあるのか。
「これも一昨日、〈つれなのふりや〉で呑んでたときなんだけど、途中でスナオさんもきて」
スナオさんは鯨沼商店街に三ヶ月前、オープンした素直書店の店主で、鈴本寿奈男という名前なのだ。
「ちょうどよかった、ショーウインドウに飾る花を注文したいって言うんで、明日は定休日なんで、金曜になりますって言ったら、それでもかまわない、昼過ぎに持ってきてほしいって」
またべつのポケットから李多が取りだしたのは、コースターだった。
「どんな花束がいいか、この裏に書いてもらったんで、ミドリちゃんに任せる。税込み一万円。お代はその場でもらっといたから。あそこ、花瓶がないんで、スタンディングブーケでつくってあげてちょうだい。よろしく」
「こりゃあ素晴らしい」素直書店に入るなり、挨拶もそこそこに、レジ前に立つ店長の鈴本が言った。「その花束はあなたがおつくりになった?」
ミドリが抱え持つスタンディングブーケのことだ。
「ええ、まあ、はい」
鈴本は五十過ぎのオジサンだが、背丈があってガッシリしており、それだけで圧がすごい。しかも声がデカいのでミドリは若干ビクついてしまう。
「夏を感じさせながら涼しげでもある。この色合いはまさに清涼剤だ。私のイメージどおり、いや、それ以上と言っていい。やはり美大で絵を勉強してきたひとはちがいますな。見事なものです」
褒めてくれるのはうれしいが、いささかオーバー過ぎるように思う。しかも声がよりデカくなったせいで、書店ばかりか奥にあるカフェの客まで、こちらに視線をむけているのが、ミドリにとって恥ずかしくてたまらなかった。それでも「ありがとうございます」と一応、礼を口にする。
李多から受け取ったコースターには〈酷暑を忘れさせてくれる、清涼剤のような花束をお願いします〉と書いてあった。抽象的というよりあまりに大雑把な依頼に面食らいつつも、ミドリは白と緑の組みあわせにしようと決めた。そして白はバラにカラー、カスミソウ、緑はスプレーマムとヒャクニチソウを選び、スタンディングブーケをつくってきたのである。
「東三条くん、どう、これ? 素敵だろ」
鈴本が声をかけたのは、この店のスタッフのひとりだ。モジャモジャ頭の彼はカフェの厨房から顔をだしていた。
「ああ、はい」
なんだ、アイツ。
気のない返事をしただけで、すぐまた厨房に引っこんでしまったのだ。
「ごめんね、わざわざ運ばせちゃって。暑かったでしょう?」
「だいじょうぶです」ミドリは笑顔をつくる。じょうずにできたかはいまいち自信がない。
梅雨が明けていないのに昨日まで三日連続の晴天、最高気温は四十度近かった。今日もおなじらしい。でがけにスマホのアプリで気温をたしかめたところ三十五度に達しており、当然ながら陽射しも強かった。
「なにか冷たいものでも飲んでく?」
「いえ、仕事中なので」
午後一時半になろうとしているが、じつはこのあとランチタイムだった。川原崎花店の食事はスタッフが順番におかずを持参する。今日は雷の番だった。彼の母のお手製料理で、三段の重箱に二十品前後の色とりどりで和洋中さまざまなおかずが詰まっており、味は本格的だった。いまや人生の楽しみのひとつになりつつある。
「そう? じゃあ、今度カフェにきたとき、なんかサービスするよ」
素直書店のカフェはバイト帰りにときどき立ち寄った。基本はおひとり様だが、李多や紀久子、光代さんともきたことがある。土日のランチにでる手打ちそばを、アトリエの大家の大屋さんが気に入って、彼女のお供でくるときも何度かあった。
「すみません、これ」
お客さんがそう言いながら本を数冊、レジに置いた。邪魔にならないよう、ミドリは慌てて端に寄る。スタンディングブーケは抱え持ったままだ。
「花はショーウインドウに飾っておけばいいですか」
「お願いできる?」本のバーコードを読みこみながら、鈴本がミドリの問いかけに応じる。
「はい」
ショーウインドウには新刊本や店長をはじめとしたスタッフのオススメ本が飾ってあった。どこに花を置いたらいいのか、ミドリはしばらく考える。するとそのときだ。
カンカン。カンカンカン。
この音って。
川原崎花店の周辺はけっこう騒々しい。鯨沼駅からの電車の発車メロディや構内放送、ロータリーを出入りするバスのエンジンやドアを開け閉めする音、信号機から流れる『とおりゃんせ』のメロディ、行き交うひと達の話し声に足音、両隣のスーパーとパチンコ店から洩れてくる音楽やアナウンスもあった。だからといってうるさいと思ったことは一度もない。渋谷や新宿などに比べたらかわいいものだと、ごく自然に受け入れていた。今日はそんな日常の音に混じって、耳に入ってくる音があった。金属をなにかで叩いている音っぽい。そのうち慣れてしまい、いつの間にか聞こえなくなっていた。
このへんで鳴ってたってことかな。
ミドリはスタンディングブーケを置いてから、ショーウインドウから外を見渡す。
カンカンカン。カンカカンカン。
「ハイッ」「ホイッ」「ハイッ」「ホイッ」
金属音にあわせるかのごとく、威勢がいい掛け声もする。
あれかっ。
左斜めむこう、鯨沼商店街の入口手前にある三多摩信用金庫鯨沼支店だ。ここから二百メートルは離れていないだろう。川原崎花店とおなじ三階建てのビルだが敷地面積は二倍以上ある。そのまわりに組み立てられたパイプに職人達数人が縦に並んで、銀色でひとの背丈ほどの細長い板を下から上へ、一枚ずつ順々にせりあげていた。「ハイッ」「ホイッ」「ハイッ」「ホイッ」という掛け声は彼らが発しているにちがいない。そのリズミカルで流れるような動きに思わず見入ってしまう。それだけではない。ミドリは右手がうずきだすのを感じた。
こうしちゃいられない。
「失礼します」
そう言い残し、鈴本の返事も聞かずに表へ飛びだしていった。
このへんからでいいかな。
ミドリは三多摩信用金庫の斜向いにある、郵便ポストの脇に立つ。そしてミドリはたすきにかけていた小っちゃめのバッグから葉書サイズのスケッチブックと筆入れをだした。筆入れにはB4鉛筆が五本、そのうちの一本を手にしてスケッチブックをめくる。
そこにはレジ打ちをしているスーパーの店員、台車で荷物を運ぶ運送会社の配達員、棚に商品を並べるコンビニ店員、三脚のてっぺんに腰掛けて植木の剪定をする庭師、湯切りをするラーメン屋さん、手押しの洗浄機で床を磨く清掃員、コーヒーショップで注文の飲み物をつくるスタッフ、炭火で焼鳥を焼く呑み屋のおじさん、お客の髪を洗う美容師、ファミレスの一角でパソコンを前にリモートをしている背広姿の男性、ホームで発車の合図をする駅員などなど、町で見かけたひと達が描かれていた。
いわゆるクロッキーだ。モデルの動きを目でを追いながら短時間で描く。印象に残ったラインやシルエットだけで、細部は省き、重ね描きはしない。一発勝負である。身体のカタチと比率を瞬時に捉えねばならず、線の強弱のみで立体感を持たせることも心がける。
卒業制作のときも高校にお邪魔して、硬式野球部の練習をしている千尋を延々と描きつづけた。それ以来まったく描いていなかったのだが、最近はどこへいくにもスケッチブックとB4鉛筆を持ち歩き、気になるひとがいれば、その場で一気に描きあげるのが習慣と化している。空白の期間を埋めるかのようにつぎつぎと描き、スケッチブックはこれで六冊目だ。新品の七冊目もバッグに入っている。
きっかけは雷だった。千尋に誘われ、彼がベースを担当するバンド、〈ティタティタ〉のライブを国分寺のライブハウスへ見にいったときのことである。手を伸ばすほどの距離で、ベースを奏でる雷だけでなく、彼を見つめる千尋の姿が瞼の裏に焼きつき、ライブがおわって帰路に就いてからもまるで消えなかった。そこでアトリエに立ち寄り、ストックしてあったスケッチブックを取りだして、ふたりの姿を思いだせるかぎり、何枚も何枚も描きつづけ、気づけばまるまる一冊、使い切っていた。
その日はそれで満足ができた。だがつぎの日、早番のバイトで川原崎花店へむかうあいだ、町中や電車の中で気になるひとを見つけてはじっくりと観察するようになっていた。それだけでは飽き足らず、無性に描きたくもなり、遂には我慢しきれなくなり、昼休みに商店街の文房具屋で葉書サイズのスケッチブックをまとめて三冊とB4鉛筆一ダースを購入したのである。
「ハイッ」「ホイッ」「ハイッ」「ホイッ」
カンカカン、カンカカンカン。
せりあげた板をパイプに打ちつけ、固定している職人も見えた。一連の作業の流れを、ミドリはスケッチブックに描いていく。
鳶職と呼ぶべきひと達なのだろうか、ヘルメットを被り、軍手を填め、身体にフィットした長袖長ズボンの作業着を身にまとっていた。腰のベルトに付いたバッグにはハンマーなど工具が入っているようだ。板を縦に運ぶひと達をまとめて描いたあとは、べつの作業をしているひとも描いていく。当たり前だが、着ている服はおなじでも痩せっぽっちに太っちょ、中肉中背、筋骨隆々、大柄に小柄と体格はさまざまだ。手足の長さも全然ちがう。しばらく見ていると、動きにクセがあるのもわかりだす。こうした個々を描き分けるのも腕の見せどころと言っていい。
鉛筆を走らせていると、気分が高まっていくのが自分でもわかる。絵を描くのがうれしくてたまらないのだ。スランプだったのが嘘みたいである。だが油絵には取りかかっていない。それにはまだ時期尚早、機が熟していないように思えてならないのだ。どうせ大器晩成、焦る必要はないと自分に言い聞かせる。
鐘の音が聞こえてきた。商店街入口の門にある鯨時計が、二時を報せているのだ。ランチタイムは残り三十分を切ってしまった。そろそろ引き揚げようとスケッチブックを閉じたとき、知っているひとが視界に入ってきた。むこうもミドリに気づく。
「ミドリちゃんじゃないの。こんにちは」
「こ、こんにちは」
「どうしたの、こんなところで?」
十重だ。日傘をさす彼女は華道のお師匠さんにふさわしく和服姿だった。絽の着物で、淡い若草色に朝顔の絵があしらわれており、とても涼しげに見える。
「素直書店へ配達にいった帰りでして」
ミドリは早口で答えた。嘘はついていない。
「あら、そうだったの」
「馬淵先生はどちらへ?」
「キラキラヶ丘団地の中にお稲荷さんが祀ってあるでしょ。そこへお参りにいくところ」
こんな炎天下に? と思ったが、その理由をミドリは察することができた。千尋のためにちがいない。
「それにしても暑いわねぇ。でもまあ、いまのうちにこれくらいの暑さには慣れておかないと、千尋の応援もできないだろうし」
八日後に迫った高校女子硬式野球の夏の大会に、千尋が所属する入鹿女子高校野球部も出場するのだ。ただし春と開催地がちがう。夏は七月第三土曜から九日間、準決勝戦までが兵庫にあるふたつの市の球場、決勝戦は少し日が空いて八月第一土曜、甲子園球場でおこなわれる。
一昨年はコロナ禍、去年は十重自身が体調を崩してしまい、夏の大会にいくのを断念したが、いよいよ今年、十重は満を持して兵庫に乗りこむ。
出場チームは六十三チーム、五月末におこなわれたオンライン抽選会でトーナメントは決まっており、五試合勝ち抜けば、決勝戦に辿り着ける。
できれば春と同様、ミドリもお供したいが、さすがにアルバイトを九日間連続で休むのは難しい。しかも交通費や宿泊費などかかる費用は月の稼ぎを遥かに超過する。いまやプータローの身、推しのためとは言え、そこまでの散財はできなかった。
ミドリの代わりというわけではないが、十重に同行するひとがいた。彼女の娘、つまり千尋の母、百花だ。文具メーカーで営業部の部長を務める彼女は仕事におわれる毎日で、休日出勤も多く、娘の試合に訪れるのは稀だった。二年半で指折り数える程度に過ぎなかっただろう。それも最終回間際だったり、途中で帰ったりと、試合を通しでぜんぶ見たことはなかったように思う。だが今回、娘にとって高校最後の夏のために、少し早めの夏期休暇をとったのだ。ミドリよりも応援にいくべきひとにはちがいない。
「千尋ちゃん、どうですか」
「いつもとおなじに振る舞ってはいるわ」十重はふぅとため息をつく。「でもね。一昨日なんか夜中の二時過ぎに庭でバット振っていたのよ。百花も私も音に気づいて起きたけど、声をかけずに知らないふりしといたわ。花のことだったら、いくらでも教えてあげられるけど、野球は応援しかできないからね。とはいえ本人にがんばれって直に言うのもプレッシャーになるだろうし。私にできることといえばせいぜい願掛けくらい」
「それでお稲荷さんに?」
「ええ」十重は恥ずかしそうに笑う。「このへんの神社やお寺を巡り歩いているの。そうでもしてないと落ち着かなくて」
気持ちはわかる。
「私、甲子園には応援にいきます。そのためにチケットを買っときますんで」
来週の火曜には決勝戦のチケットがネットで販売される。入鹿女子高校野球部の決勝進出を信じるのみだ。
「あの子はどうなの。おたくでバイトしてる男の子」
「雷くんですか」
「そうそう。バンドでベース弾いてるんでしょ、訊いてもないのに、千尋が教えてくれたのよ。彼は応援にいくのかしら」
「どうですかね」ミドリも気になっていたのだが、雷本人に確認していなかった。「ちょっと訊いときます」
ったくしょうがないな、あのひとは。
ここは川原崎花店があるビルの三階、李多の自宅のキッチンだ。お皿にご飯をよそい、雷ママのお手製料理を重箱から取りわけ、ワンプレートランチにして、テーブルに腰をおろしてから、ミドリはひとり、胸の内でぼやいた。
あのひととは紀久子のことである。彼女はデザイナーの作業をほぼ毎日、この場でおこなっている。最初は控えめにテーブルの片隅でしていたのに、いまや半分以上を占拠していたのだ。パソコンをはじめとした仕事道具一式のみならず、仕事に必要な書籍や資料などを持ちこんでは山のように積みあげ、パッケージやノベルティグッズの見本と思しき空箱や袋、Tシャツにミニタオル、トートバッグ、マグカップなどがあちこちに散乱した状態なのだ。まったくもってしょうがない。しかも紀久子の姿はどこにもなかった。
雷ママの料理は相変わらずおいしかった。スペアリブのやわらか煮、カニクリームコロッケ、白身魚の西京焼、えびしんじょ、鶏のささみの煮こごりなどバリエーションにも富んでいる。
もう少し食べようかな。
今朝、川原崎花店のSNSにデンファレの写真とともに、その花言葉も添えた。おなじ花でも複数の花言葉があるのは珍しくない。デンファレもそうだった。そのうちのひとつが脳裏をよぎる。
誘惑に負けない。
それが自らへの警告に思え、もう食べないでおこうと思いとどまった。ここ最近、お腹に肉がついてきているのだ。
理由は明確だった。爲田のせいである。絵を描くのに没頭するあまり、何日も食事を摂らずに倒れてしまった彼のために、大屋さんが週に二、三回のペースで夕飯をつくった。そしてミドリやアトリエにいる美大生も彼女の家に呼ばれ、ご相伴に与るようになったのである。その場だと大屋さんが勧めてくるので、つい食べ過ぎてしまうのだ。
そう考えを巡らせていたところ、紀久子の占拠地の端にある写真が目に入った。ピンク色にライトアップされた建物の前に、ウエディングドレスの女性とタキシードの男性が並んでいる。
なんだろ、あれ。
気になったので、手を伸ばして引き寄せる。〈寿々殿〉という結婚式場のパンフレットだった。めくると、建物についての説明が書かれていた。〈近代的でありながら古き良き時代のヨーロピアンスタイルを取り入れた、重層かつモダンな完全独立型チャペル〉だという。わかったようでわからないが、チャペルとだけはわかった。めくっていくと、式場や庭の写真もあるのだが、テーブルの天板、椅子の背もたれ、ドアノブ、すべての窓枠、化粧室の鏡、電灯のカサなど、さらには庭の池まで、あらゆる場所がハートのカタチに象られていた。壁紙や床の絨毯もハートに彩られている。常軌を逸したというか、正気とは思えないつくりに、ミドリは我が目を疑った。
しかもそれだけではない。
天井から吊り下げられたハート形のカゴに乗って、式場に舞い降りる新郎新婦の写真もあった。ゴンドラと呼ばれる装置のようだ。
どんなカップルがこんなの使うんだ?
だけどなぜ結婚式場のパンフレットがここにあるのか、ミドリは訝しく思う。このパンフレット自体、写真もデザインもいささか時代遅れで古臭かった。新規のものをつくってほしいという依頼が、紀久子のところに舞いこんできたのかもしれない。この二、三ヶ月で、デザイナーとしての仕事量が増えていた。順風満帆とまでいかずとも、紀久子の人生がイイ方向へ進んでいるのはたしかだった。
それに比べて私ときたら。いや、比べたところで意味はない。私は私だ。
そう自分に言い聞かせるものの、あまりうまくいかなかった。
「お待ちください」
雷はカウンターの下からメガホンを取りだすと、細いほうを自分の耳に当てた。
「そちらに口を当てて、お答えいただけますか」
アラフォーと思しき女性客は雷の言葉に従う。こがねひぐるまとはなんの花でしょう? の答えだ。声は多少もれても、なんと言っているのかまでは、隣の作業台に立つミドリにもわからなかった。他に客がいないのに、その必要がある? と思いつつ、ミドリは黙って〈トロピカルブーケ〉をつくっていた。赤のブーゲンビリアに黄色のハイビスカス、白のプルメリア、そしてモンステラの葉を束ねていく。あまりに色鮮やか過ぎて、造花に見えてしまうほどだった。
「正解です」
メガホンを外し、雷はにっこり微笑む。ここでバイトをはじめた頃は無愛想で口数も少なかったが、半年以上経ったいま、接客はだいぶこなれてきた。なんならミドリよりも客に対して愛想がいいくらいだ。
「それではこちらの花束、五パーセント引きさせていただきます」
「ありがとうございます」
女性客は本気でうれしそうだった。彼女が店をでていくと、雷はミドリの隣に立って、〈トロピカルブーケ〉をいっしょにつくりだした。
よし、チャンスだ。
「雷くんは千尋ちゃんの応援いくの?」
ミドリはできるだけさりげなく言った。いつ訊こうか、ずっと機会を窺っていたのである。
「いきたいのは山々なんですが」雷は手を休めずに答える。「大会とおんなじ時期に国分寺と高田馬場と小倉でライブがありまして」
「小倉ってどこだっけ?」
「北九州です。俺以外のメンバーがそこの出身でして、デビュー時にお世話んなったっていうライブハウスで、地元のバンドとの対バンが三夜連続あって、馬淵さんの応援どころか、ここのバイトを休まなくちゃいけません。八月に入ったらバンドのほうも一段落するんで、決勝戦まで勝ち進めたら見にいけるんですが」
「勝ち進むって、ぜったい。今度こそ日本一だよ」
ミドリはつい力んで言ってしまった。それが怒ったように聞こえたのか、「すみません」と雷が詫びてきた。
「いや、あの、応援する身としてはそれくらいの気持ちでいないとさ。ね?」
「はい」
短い返事をしただけで、雷は黙々と〈トロピカルブーケ〉をつくりつづけた。気まずい空気が流れる。こういうときに限って客がこない。べつの話題をふろうかと思うものの、ミドリはなにも思いつかず、自分のコミュニケーション力不足を恨むばかりだ。するとしばらくして雷が口を開いた。
「馬淵さんって凄くないですか。自分の好きな野球をずっとやりつづけて、きちんと成果をだしている。しかもおばあさんの跡を継ごうと華道の修業も怠っていない。たいしたもんです」
「雷くんだって、バンドやりながらも、仲卸店の三代目になるために、ここでアルバイトしているんでしょ」
「でもそれって」雷の言葉が途切れる。どう話そうか、考えているようだった。「ほんと言うとイトコのバンドが解散したとき、俺もベース、辞めるつもりだったんです」
「どうして?」
「いつまでも趣味にウツツを抜かしている場合じゃない、仕事に専念しなきゃと思ったからです。でもその後も人手が足らないバンドの助っ人をするようになりました。ひとに頼まれると断れなくて」そう言ってからすぐ、「いや、ちがうな」と雷は自ら否定する。「これはただの言い訳です。俺はベースが好きで、いつまでも弾きつづけたかった。なによりも人前で演奏するのがたまらなく気持ちよかった。だから家族の前では渋々引き受けているフリをしていたんです。とくに親父の前ではそう装っていたわけで」
「でも結局、助っ人だけでは飽き足らなくなって、バンドに加入したってわけ?」
「それもあるけど、いちばんの理由は馬淵さんに負けたくないっていう気持ちでした。俺も好きなことに打ちこんで、でも仕事を疎かにはしない、両立できるようにやらなきゃって決意したんです」
「その話、千尋ちゃんにしたことある?」
「あります」
「彼女、なんて言ってた?」
「お互いがんばろうって。今回の大会を応援にいくのはキビシイかもって話もしたら、私ががんばっているとき、雷先輩もがんばっているんだったら、それだけでも励みになるからだいじょうぶと言っていました」
雷の話を聞きながら、ミドリはデンファレの花言葉のうちのひとつを思いだしていた。
お似合いのふたり。
「ひとつお願いが」
「なに?」
「いまの話、店長には言わないでください。あのひとから親父の耳に入ったら面倒なんで」
「言わないわよ」
元から言うつもりはなかったが、雷を安心させるためにミドリは約束した。
昼間だったら、こっちの道を通ってくよりも、飲屋街を突っ切ってたほうが早いか。どこの店も開いてなくて、人通りがほとんどないもんな。
ミドリは車庫の壁に貼ってある地図をじっと見つめていた。縦横二メートルのデカさで、川原崎花店を中心に半径五キロの円が赤ペンで描かれている。店のスタッフが直接、配達できる範囲だ。多少の例外はあるにせよ、その円を越える地域の配達は〈花天使〉に依頼というのが基本である。
円の中にはそこらじゅうに待ち針が刺してあった。これまでの配達先で、針のアタマには小っこい球体がついている。ぜんぶで十一色あって、はじめて配達したところは白、二回目は緑、三回目は茶色、と色を変えていく。十回以上は赤で、これがもっとも多く、飲屋街に集中している。住宅街やキラキラヶ丘団地には銀色が目立つ。こちらは定期便サービス〈フラワーブレイク〉のお客さんだ。
デンファレ三百五十本の配達先は、亀井フラダンス教室という。ひとみママに教えてもらった住所を地図で確認中なのだ。ミドリにとっては地図アプリで検索するよりも、でかける直前に地図を見ながら、予め道順を頭の中でイメージしておいたほうが、迷わずに辿り着けることができた。さらにひとみママから仕入れた事前情報によれば、川原崎花店のあるビルと似たり寄ったりの三階建てのビルで、一階は唐揚げ専門店、二階は社名に貿易と入っているが、実体ははっきりしない事務所、そして三階が亀井フラダンス教室だという。
配達に使うのはカーゴバイクだ。横に並んだ前輪ふたつのあいだのカゴには、デンファレの七箱がきっちり収まっている。鯨沼どころか日本国内でもあまり見かけないカタチの自転車なので、町中を走っていれば嫌でも道往くひとの注目を引く。おかげではじめのうちは恥ずかしかったものの、さすがに慣れてきた。
そしてつい最近、カーゴバイクにはマルグレーテという名前が付いた。デンマーク語でマーガレットという意味で、命名したのは店長の李多だ。鯨沼の隣町のひとからネットのフリマサービスを介して買った中古品のカーゴバイクだが、れっきとしたデンマーク産なのである。
ミドリはこの名前が案外、気に入っている。電気三輪自動車のラヴィアンローズと対照的に、控えめで愛らしいのがいい。可憐でもある。なによりも私にピッタリではないかと思っているものの、ひとに話したことはなかった。恥ずかしいというのもあるが、だれも同意しないだろうからだ。
頭の中で配達先までの道順を反復しながら、流線型のヘルメットを被り、マルグレーテのサドルを跨いで、ペダルに足をかけ、車庫をでた途端だ。
「暑っ」
身体中に陽射しが突き刺さってきたのだ。せめてなるべく日陰を走ろうと心がけても、なかなかそうはいかない。
隣のパチンコ屋の裏手を抜け、飲屋街に入るとやはり人通りはほとんどなく、すいすい走ることができた。ただそのあいだに全身汗だくにもなり、突っ切るつもりだったのだが、途中でマルグレーテを停め、自販機で水のペットボトルを買い求めた。
ゴクゴクと喉を鳴らしながら、一気に半分近く飲む。するとどこからかオジサンの歌声が洩れ聞こえてきた。歌詞まではわからないが、演歌にはちがいなかった。昼間のこの時間でもカラオケタイムと称して、ワンドリンク付き歌い放題お一人様千円程度で営業中のスナックが何軒かあるのだ。
飲屋街を抜けると、国道のバイパスにでた。両側四車線の道路で、ここを渡れば住宅街に入るのだが、ミドリは左に曲がった。
あれかな。
むかう先にのぼり旗が見えてくる。近づくにつれ、〈金賞受賞〉という金文字の下に、〈からあげ大賞塩味部門〉と書いてあるのもわかった。唐揚げの香ばしい匂いを嗅ぎつつ、視線を上にあげればビルの袖看板に〈亀井フラダンス教室〉と書いてあるのが見えた。
唐揚げ専門店の脇に、ビルの利用者専用の自転車置場があった。そこにマルグレーテを停めて、デンファレが詰まった段ボール箱七個を両手で抱え持ち、ビルに入る。エレベーターはなかったので、階段を一段ずつ慎重にのぼっていく。三階にはドアがひとつだけ、そこに〈亀井フラダンス教室〉と記された銀色のプレートが貼り付けてあった。段ボール箱を下ろすのが面倒なので、身体を横にして、ドア脇にあるインターフォンを右肩で押す。しばらく返事がない。もう一度押そうかとしたとき、「どちら様ですかぁ」と女性の声が聞こえてきた。
「川原崎花店です。ご注文の花を持ってきました」
「お待ちくださいねぇ」
ドアを開いてでてきたのは、アラフィフと思しき女性だった。コバルトブルーのTシャツに、黄色とオレンジ色のハイビスカスの花柄があしらわれた、ふんわりとしたスカートという派手ないでたちをしている。
「ごめんなさいね、こんな大荷物、運ばせちゃって。大変だったでしょう? ささ、どうぞお入りになって」
「失礼します」
入るとフローリングのだだっ広い部屋が、目の前に広がった。たぶん学校の教室くらいはあって、ミドリから見て右側は窓、左側は一面、鏡で、稽古場とかスタジオとか呼ぶのがしっくりくる。
十人ちょっとの女性が並んで立っている。その中にはひとみママもいた。ミドリのほうを見て、小さく手を振っている。アラフォーの彼女がいちばん年下で、他のひと達は五十代から七十代だろう。Tシャツはミドリを迎え入れた女性とおなじコバルトブルーで、背中には白抜きの線画で泳ぐ海亀が描かれていた。ふんわりとしたカタチはおなじでも、色や柄は個々にちがうスカートを穿いている。
「デンファレはすぐそこに置いちゃってちょうだい。あとでレイをつくるとき、生徒さん達に中まで運んでもらうわ。あなたが深作ミドリさん?」
「あ、はい」デンファレの箱を置きつつ、ミドリは答える。
「講師の亀井カナです。ウチの教室では名前で呼びあうようにしていてね。みんなは私のこと、カナさんとかカナ先生って呼んでいるわ。あなたもミドリさんでよろしくて?」
「よろしいです」
うっかりそう返してしまうと、オバサマ方から笑いが起きた。
「面白いのね、ミドリさんって」カナ先生も笑っている。
「いえ、あの、わざとではないんです」
「その子、クールに見えて意外と天然なんですよ」
ひとみママがチクるように言う。
「知ってるわよ、あたし」と言ったのは髪の八割方が白い女性だ。「そういうのって若いひとの言葉で、デンデレって言うのよね」
「ちがうわ、ツンデレよ」
べつの女性が訂正すると、ふたたびオバサマ方は口を大きく開けて笑った。とても楽しそうではある。しかしそのノリについていけず、ミドリはどんな顔をしたらいいものか戸惑うばかりだった。
「まだ一曲、おさらいが残っちゃってるの」そう言いながら、カナ先生はそばにあった丸椅子をミドリに差しだす。「あと十分はかかるんで、これに座って待っててくださらない?」
「あ、はい」
ミドリが丸椅子を受け取ったときには、カナ先生は生徒達のほうをむき、ぱんぱんと手を叩いていた。
「みなさん、乱れた列を直してください」
オバサマ方は素直に従う。鏡にむかって前後二列で、前列のセンターにカナ先生が入る。室内はしんと静まり、空調の音だけになるまで、五秒とかからなかった。
「ヘイ、Siri。クウ・プア・マエ・オレをかけてちょうだい」
カナ先生が言うと、鏡の前にある黒のスマートスピーカーが反応したのだろう。スローで優しい音色が流れはじめた。なんの興味もないミドリでも、それがハワイアン音楽だとわかる。どこかで耳にした覚えすらあるくらいだ。
曲にあわせて踊りだすオバサマ方を見て、ミドリは少なからず驚いた。両腕を波のようにくねらせつつ、腰をゆったり滑らかに回しているのだが、上体はまったく動いていなかったのだ。足腰を鍛えたうえで、身体のそこかしこの筋肉を意識しながら動かさなければ、こうはならないだろう。ここまで本格的だとは思っていなかったのだ。顔つきもさきほどとまるでちがう。真剣そのものだ。だがそれはまずかったらしい。
「みなさん、踊りに一所懸命なのはいいんですが、表情が険しくなってきちゃってますよぉ。笑って笑ってぇ」
カナ先生が注意する。オバサマ方はなんとか笑おうと口角をあげようとしていた。
ミドリはバッグからスケッチブックと4B鉛筆を取りだす。六冊目は足場を組む職人で使い切ってしまったので、これで七冊目だ。そして一ページ目からフラダンスを踊るオバサマ方を描いていく。
「ひとみさん、指をちゃんと閉じてください。開いたままだと手首がじょうずに動かなくなって、肘が落ちてきてしまいますよぉ」
「はぁい」ひとみママが答える。
カナ先生は他にも何人かの生徒を注意した。よくもまあ、鏡越しに細かいところまでチェックしているものだとミドリは感心する。
「腰を8の字に回しましょう、はい、そうですぅ。みなさんじょうずですよぉ、もっと自信を持って踊ってください。そうそう、イイ感じイイ感じぃ」
亀井の褒め言葉にノセられてなのか、オバサマ方の動きはより滑らかになるのがわかる。優雅とさえ言っていい。デンファレの花言葉にふさわしい言葉がある。
上品な色気だ。
フラダンスのおさらいをおえると、窓際の長テーブルでレイづくりがはじまった。オバサマ方はすでに何度かつくっており、初心者はミドリとひとみママだったので、カナ先生がふたりのあいだに座り、一から教えてくれることになった。
「レイにもいろいろ種類がございまして、今回はおなじ方向にお花を刺していくポロレイをですね、クイという手法でつくっていきます」
ポロとはまっすぐ、クイは針や鋲、あるいは穴を通して繋げるという意味らしい。まずは材料となる花を花切り鋏で切っていった。根元の少し下あたりを切らないと、花びらがバラけてしまうんで、じゅうぶん注意しなければならない。
「これを百ですかぁ。キッツイなぁ」
ひとみママが遠慮なく言う。ほとんど悲鳴だった。ミドリも内心思っていたことである。
「慣れればどうってことないわ」
カナ先生が宥めるように言った。実際に他のオバサマ方は、おしゃべりをしながらも手を動かしてテキパキ進めている。ミドリも三十輪あたりでペースを掴めてきた。つぎに花に付いた茎と花びらの中の花粉を取っていく。当然ながらこれまた百である。
作業中、自然と耳に入ってきたオバサマ方の話によれば、デンファレの花はこれまで通販で購入しており、今回もそのつもりだった。すると川原崎花店で買ってみてはどうですかと、ひとみママが提案してくれたらしい。
カナ先生がここにフラダンス教室を開いたのは八年前で、駅前に花屋があるのは知っていた。しかし何百本ものデンファレを、ふつうの花屋で買えるとは思っていなかったという。価格が通販よりも安かったので、川原崎花店でお買い上げいただいたとのことだった。
通販よりも安かったのではない。安くしたのだ。李多が『フルール・ド・トネール』に発注する際、通販の価格をパソコンでチェックし、雷パパと交渉した結果だった。思いつきを口にしてばかりいるようだが、こういうところで李多は抜け目がないのである。などと内幕をバラしたりはせず、ミドリは黙々と作業をつづけた。
下準備ができたので、いよいよ花を繋いでいく。ここで李多から受け取ったぬいぐるみ針と糸の登場と相成った。花のうしろというか、根元のほうから、その中心に針を刺して糸を通す。はじめは一輪ずつ、慣れてきたら針に何輪か刺してまとめて糸を送る。ここで十二、三センチはあるぬいぐるみ針の長さが、存分に活かされることになった。
ただしカナ先生をはじめ、オバサマ方のうちの何人かは三十センチほどの針を用いていた。聞けばレイ専用の針だった。市販されているそうで、世間ではミドリの想像以上に、レイが手作りされているのだろう。
まだまだこの世界には知らないことだらけだよ。
「あら、じゃあなに? 駅前の花屋さんで働いているってことは、先代のお孫さん?」
ミドリの真正面からそう言ったのは、ツンデレをデンデレと間違えた女性だ。
「ちがいます。それは店長で、私はただのバイトで」
「先代のお孫さんってどういうこと?」これはデンデレをツンデレだと訂正した女性である。デンデレおばさんの右隣に座っていた。
「知らない? あの店、ご夫婦でやってたんだけど、ほとんどおなじ時期に亡くなっちゃって、一旦は店を閉じていたのが、孫娘が跡を継いでしばらくしたら再開したのよ。たしか七、八年前じゃなかったかしらね」
「もっと昔です」デンデレおばさんにむかって、ひとみママが訂正する。「十二、三年は経っています」
「あら、やだ、もうそんなになる?」
「あの店長さんって、前は弁護士さんだったんでしょ」
さらにべつの女性が口を挟んでくる。
「弁護士事務所で働いていただけで、弁護士ではなかったみたいですよ」ふたたび、ひとみママが正す。
「あなたはなにやってるひとなの? アルバイトってことは他になにかしているのよね? 学生さん?」
「いえ、あの」
デンデレおばさんから不意を突くように訊かれ、ミドリは口ごもってしまった。こんな具合にプライバシーに土足で踏みこまれるのはひさしぶりだったからだ。
「この子、三月に美大をでて、いまは画家を目指してがんばっているんですよ」
ひとみママが言うなり「まあ」「そうなの」「へぇぇ」とオバサマ方から一様に声があがった。そしてみんなの視線が自分に集中するのを肌で感じる。ミドリは黙って、ぬいぐるみ針にデンファレの花を刺していくことしかできなかった。
やんなっちゃうな、まったく。
ひとみママは助け舟をだしたつもりなのだろう。しかしミドリにすれば勝手に私の個人情報を開示しないでくれと抗議したいところだ。もちろんそんな真似はできやしない。
「凄いじゃないの、画家だなんて」デンデレおばさんだ。「どんな絵、描いているの?」
「油絵で、ひととか風景とか」
「画家になるまでどれくらいかかりそう?」
「見当もつきません」
「そもそもどうやったら画家になれるの?」
「私にもよくわからなくて」
「ニッテンとかニカテンで入選すれば、画家として認められるんでしょ」
「どうなんですかねぇ」
「親御さんはなんておっしゃっているの?」
「とくにはなにも」
記者会見よろしく矢継ぎ早に質問を浴びせてくるのを、ミドリはどうにか返していく。オバサマ方には悪意や嫌味などはまったくない、無邪気そのものだ。それはそれでミドリを苛立たせた。
ウッセーナ、ホットイテクレヨ。
できればそう言い放ち、飛びだしていきたい衝動に駆られつつも、ひたすら耐え忍んだ。
「自分の好きなことをして、お金が稼げるんだったら幸せよねぇ。そうでしょ、カナ先生?」
「たしかにフラダンスは好きです。でも仕事にしないで趣味のままでとどめておいたほうが、幸せだったかもしれないと後悔することはあります」
カナ先生はそれまでと変わらぬ口調で答えた。だがその言葉の重みに圧倒されたのか、はしゃぎ気味だったオバサマ方はしんと静まり、そのあとはレイづくりを黙々と進めていった。
入鹿女子高校野球部が甲子園まで勝ち進み、優勝できますように。
手をあわせながらミドリは胸の内で呟く。少し間を空けてからこうも願った。
いつか私が画家になれますように。日々の努力は怠りませんので、ほんのちょっとだけ手助けをしてもらえないでしょうか。たとえば紀久子さんみたいに、川原崎花店の配達先やお客さんから、仕事が舞いこんでくるようなラッキーなことがあるとありがたいです。これはあくまでも例でありまして、ラッキーであれば他のカタチでもかまいません。よろしくお願いします。
たった五円でここまで願うのも図々しいかと思い、あと十円、賽銭箱に投げ入れ、ふたたび手をあわせた。
ここはアトリエの近くにある、小っぽけな神社だ。最寄り駅からの帰り道、ふだんは通り過ぎていくのだが、昼間に会った十重の話を思いだし、自転車を前に止めて、願掛けをすることにしたのだ。
狭い敷地は雑草が生い茂り、鳥居は汚れ切って、祠もだいぶ痛んでいる。それが却って歴史を感じさせ、ありがたみがあるように思えなくもない。祠の両側にはきちんと狛犬も控えていた。
いや、ちがうぞ。
神社にいる狛犬の石像といえば獅子っぽいつくりだ。でもいま目の前にいる狛犬は本物の犬に近い。ミドリは興味をそそられ、スケッチブックとB4鉛筆を取りだした。六時過ぎでもまだまだ明るい。腕や脚をヤブ蚊に食われながら描いていると、「ミドリちゃん?」と呼びかけられた。声のするほうをむけば、鳥居のむこうに大屋さんが立っていた。麦わら帽子を被り、長袖シャツにデニムのカーゴパンツで、ゴム長靴という農作業スタイルだ。
「庭で採れた野菜ですか」
近づいてくる大屋さんに訊ねた。きゅうりや茄子、ミニトマドが盛られた網カゴを抱え持っていたのだ。
「ええ。ときどきお供えしているの」と答えながら、大屋さんの視線は石像にむけられていた。「それって狼なのよ。知ってた?」
「いえ」犬ではなかったのか。「でもなんで狼なんです?」
「私も詳しくは知らないけど、ここの本社は秩父の山ん中にあってね。そこでピンチに陥った日本武尊を救った狼なんですって」
古代の英雄は竜を退治したり、狼に助けてもらったりといろいろ大変だ。
「バイトの帰りよね」野菜の網カゴを祠の前にお供えして拝んだあと、大屋さんが訊ねてきた。「どう? 夕飯、ウチで食べてかない?」
「はい」勢いよく返事をしたあと、いくらなんでも図々しいと思い、ミドリは慌てて言い足す。「すみません、いつもご馳走になっちゃって」
「気にしないでいいのよ、そんなこと。いま時分だと、とくに庭の野菜が採れ過ぎちゃって、食べてもらわないと腐らすだけだし」
「じつは大屋さん家にはいくつもりだったんです」揃って神社をでてすぐ、自転車のカゴに入れてあった川原崎花店の紙袋を大屋さんにさしだした。「よかったらどうぞ」
「なにかしら」
「レイと言って、ハワイの首飾りです。配達先のフラダンス教室で教わってつくってきまして」
「まあ、素敵」
大屋さんは早速、紙袋の中から取りだした。さらには麦わら帽子を脱いでミドリに渡すと首にかけた。
「どう?」
「思った以上にお似合いです」
「この花、デンファレって言うんでしょ」
「よくご存じで」
「知ってるもなにも、ミドリちゃんの店のSNSで今日、紹介してたのを見ただけよ」
大屋さんは声をあげて笑った。ミドリもつられて笑ってしまう。
「花言葉も書いてあったでしょ。あの中で私にピッタリのがあったわ」
「どれですか」
ミドリが訊ねると、大屋さんは右手をレイに、左手を腰にあてて、ちょっとシナをつくり、気取った口調でこう言った。
「わがままな美人」