鮮烈なタイトルは、一八五二年にアンデルセンがデューフレンを破った伝説的なチェスの試合から取られている。「魔法みたいな逆転勝利」(作中の表現より)の美しさから、一連の棋譜はチェスプレイヤーの間で「エヴァーグリーン・ゲーム」と称されているのだ。チェスは、日本では将棋の三〇分の一しか競技人口がいないという。ルールを知っている人も少ないだろう。しかし、不安がる必要はない。第一二回ポプラ社小説新人賞を受賞した、チェスを題材とする本作は、誰をも拒まぬ普遍的でエヴァーグリーン(不朽の名作)な魅力を放つ。
全六章の物語は、第四章の終わりまでがほぼ主要登場人物の紹介に当てられている。第一章に登場するのは、難病のため小児病棟で入院生活を送る小学五年生の透だ。絶望に飲み込まれそうになっていた時、同部屋の同級生の少年・輝からチェスの存在を教えられる。チェスの駒は一六個ずつで、マスは八×八。ルールを学びがてら行われた初めての対戦で、透は輝にあっという間に負けてしまう。その瞬間の心情を表した文章が素晴らしい。〈自分の負けっぷりにぼくはコーフンしていた。感動、というのかもしれない。/負けたのに、なぜかとても気持ちいい。よくわからない感情だ〉。読者が簡便に納得し共感できるような、好きになり方、ハマり方では、物語を引っ張っていく人物としては弱すぎる。その人物が独自の、個性的な感情や感性の持ち主であると信じられるからこそ、読者は興味と関心を持って物語を追いかけることができるのだ。
第二章は、父の影響でチェスを始め、進学校のチェス部に所属する高校二年生・晴紀の物語だ。〈気の弱い僕が自らを主張できる場所、表現できる場所が、ボードの上だ〉。将来はチェスのプロを目指すか、堅実な職業に就くか? 若くして好きなものを見つけてしまった人物ならではの懊悩と、チェスも絡んだ初恋模様が綴られていく。第三章の主人公・冴理は、生まれつき目が見えない。小学四年生の時に視覚障害者用のチェス盤と出会い──〈ボードの前では誰もが平等だった。五歳の子供であれ手練れの老人であれ、始めたての女性であれマスターの男性であれ、障害者であれ──動かせる駒は、みんな同じ。駒のやりとりは、自分がここに存在しているという実感を与えてくれた〉。そして、母から歪な人生を強要されそうになった彼女が、自らの人生を切り開くための武器が、チェスだった。第四章ではある人物いわく〈能力は最高。人格は最低〉、日本人で唯一、チェスの最高位であるグランドマスターの称号を獲得した男にフォーカスが当てられていく。
第一章から第四章までの物語は、四人の登場人物がどのようにチェスと出会い、どのようにのめり込んでいったかが記されている。その経緯は文字通り四者四様だが、一つだけ共通して言えることがある。強くなり方はそれぞれ異なるが、彼ら四人は、それぞれの人生を歩んでいったからこそチェスに強くなったのだ。この確信が読み手の内側にしかと生まれているからこそ、終盤の展開を前にして興奮が爆ぜる。
読者をキャラに感情移入させ、一同大集結の舞台で戦わせる。少年マンガの快感にも通ずる、トーナメント・バトルものの定石と言える展開だ。本作における戦いの舞台は、本編開幕前のプロローグで少しだけ触れられていた、決勝に進出した三二名のプレイヤーによってチェス日本一を決める「チェスワン・グランプリ」。戦いの幕が上がった瞬間、読者は心地よい茫然自失感に襲われるはずなのだ。誰を応援したらいいかが分からない。なぜなら、みんなを応援したいからだ。この感覚を読者に抱かせるために、全六章のうちの四章を主要登場人物の紹介に当てる、という大胆な構成が採用されていた。しかも、チェスワン・グランプリで初登場となったプレイヤーもまた、一癖も二癖もある者ばかり。
終盤はトーナメント描写が連続するものの、それまでの物語の中で得たチェスに関する情報の蓄積があるからこそ、ストレスなく読みこなせる。雌雄の決し方は実にバリエーション豊かで、「引き分けが多い」というチェスの特性を醍醐味に転化した試合展開には唸った。エンターテインメント作家として、抜群のハンドリングだ。何より感銘を受けたのは、本作に登場するあらゆるチェスプレイヤーたちの人生、あらゆる試合を集結させていった先に現れる、最終盤のメッセージだった。とことん好きになれるものを見つけて命を燃やせ……といった、令和日本によく流れているメッセージとは違う。もっとシンプルで、もっと苛烈なメッセージだ。それは──「生きろ」。
チェスを題材にした、この物語、この登場人物たちだから実現できたメッセージにこそ、本作が時代を超えて読み継がれるに違いないエヴァーグリーンな魅力が宿る。コロナ禍を経た令和のエンターテインメント小説の、ベンチマークと呼ばれることになるかもしれない、傑作だ。
吉田大助(よしだ・だいすけ)
1977年生まれ。埼玉県出身。「ダ・ヴィンチ」「STORY BOX」「小説新潮」「小説現代」「週刊文春WOMAN」などで書評や作家インタビューを行う。X(旧Twitter)にて、「書評を読む。吉田大助」(@readabookreview)で書評情報を自他問わず発信中。