第一章 リムジン弁当
お弁当屋さんができていた。
気がついたら、いつの間にかそこにお弁当屋さんの看板が出ていた。いつからそこにあるのかは、思い出せない。
年季の入ったママチャリに乗ってその場所が見えてくると、私は極力スピードを落とし、スローモーションでペダルを踏む。そして、心の準備を整え、満を持して店の前を通り過ぎる。
看板には、「リムジン弁当」という店名の下に、本日のお弁当の内容が手書きの文字でホワイトボードに綴られている。けれど、自転車に乗ったままの私は、どんなにゆっくりペダルを漕いでも、その文字の全てを瞬時に読み取ることはできない。
店の周辺には、うっすらと調味料で色付けされたカラフルな空気が、シャボン玉みたいに浮かんでいる。それを、なるべく逃さず、きゅーっと吸い込み、しばし味わってから肺の奥へと流し込むのだ。
これが私の、ささやかな喜び。自分が今、匂い泥棒をしていることを思うと、ちょっとだけ愉快な気分になってくる。
大吉の日は、まるでその料理をそのまま口に入れたかのような豊かな気分を味わうことができる。そんな日は、決まっていい日だ。コジマさんのオムツから、便がもれていない。
今日は、小吉とまでは言えないものの、まぁまぁの吉だった。
この香り、以前もどこかで会ったことがある。ちょっとまぶしいような、優しいような、日向みたいな丸い匂い。冷たい空気の中で、ふわふわのタオルに包まれたような柔らかい香り。思い出せそうで、でもどうしても思い出せない。
スローモーションで店の前を通り過ぎたら、私は再び力を込めてペダルを踏み込む。風が気持ちいい。もうすぐ、本格的な秋が来るのかもしれない。
最後の坂道を、今日はギアを変えずになんとかジグザグ走法でのぼり切った。
そうすれば、体温が上昇し、仕事先に着いてからも、すぐにはカイロをポケットに入れなくて済む。
見上げると、朝の太陽が、今日も元気で素敵な一日を! と叫ぶみたいに、惜しげもなく明るい光を放っていた。
「おはようございまーす」
かつての駐車スペースにママチャリを停め、そろそろと玄関の扉を開ける。
今日も、玄関先に置いてある、コジマさんの靴と目が合った。もう、コジマさんがこの靴に足を入れて歩くことはないのだろうけど。
なんとなく、この新品の真っ白いスニーカーだけは、処分する気になれない。だから、そのまま玄関に置いてある。
スニーカーは、私が昨日ここを出る時の姿のまま、左右の靴の間隔を少しだけあけた状態で、惚けたようにぽかんとしていた。その靴を、私はたまに、神社でお参りする時みたいに靴底同士をパンパンと合わせ、埃を落とす。スニーカーはいつだって、コジマさんの足先が上から降りてくるのを辛抱強く待っている。
襖を開けると、スニーカーの主もまた、介護ベッドの上で、ぽかんと口を開けて天井のしみを見つめていた。
急いでダウンのコートを脱いでハンガーにかけ、うがいと手洗いを済ませた。まずはちょっと失礼して布団をめくり、オムツの中を確認する。黄色いシミが広がっているだけで、大きい方はまだされていなかった。
よっしゃあ。やっぱり今日は、大吉かもしれない。
そう思った刹那、脳の奥から、ふわりとあの明るくて丸い香りがよみがえった。目を閉じると、まぶたの裏側にぼんやりとまぶしいような色が広がる。
コジマさんから突然手紙が届いたのは、もう十年以上も前になる。私はその頃、施設にいた。児童養護施設だ。高校一年生の時、自らの意思で家を出て、児童養護施設に助けを求めた。以来、実家へは一度も帰っていない。高校へは、毎日施設から通学した。
手紙をもらった当時、私の心はものすごく荒れていた。大しけの晩の外海みたいに荒れ果てていた。幾度も施設を脱走しては行き場を失い、その度に途方に暮れ、空腹に耐えられなくなるとまた施設に戻る、その繰り返しだった。どこにいても満たされることはなく、心も胃袋も両方がすっからかんだった。
本音を言ってしまえば、大学に進んでもっとレベルの高い学問を身につけたかった。当時はそれすら自分の言葉で言語化できていなかったけれど、今から思うと、私はそれを望んでいた。学ぶことは嫌いではなかったし、高校での成績だってきちんと勉強すれば、それほど悪くなかった。
でも私には、大学に進学するどころか、受験をするだけのお金すらなかった。頼れる人は、どこにもいない。仮に受験できて大学に合格したって、アパートを借りるにも保証人になってくれる人はいないし、生活費も授業料もすべて自分で稼がなくてはいけなくなる。そんなこと、逆立ちしたって無理だ。
がんばれば道は拓けるなんて、大噓だ。そんな戯言は、努力すればなんとかなる状況の人が、口先だけで言っているにすぎない。私のような境遇の人間は皆、十八歳になれば施設を出され、いきなり社会で自立して生きていかなければいけないのだから。帰る場所はもうこの地球上のどこにもないし、誰も私を守ってくれなくなる。
当時の自分を振り返ると、断崖絶壁の極の極に、後ろ向きでかろうじて立っている状態だった。日々、爪先にライターの炎を近づけられるような心境だった。
いっそのこと、自らの爪先を炎に差し出し、しばらく熱さに耐えていれば、いつか炎が体全部に行き渡って、私は一握りの灰となって消えてしまえたのかもしれない。
毎朝目が覚めるたび、このまま消滅してしまえばいいのにと思った。でも、実際に消えることはできなかった。それに、私にはどうしてもそれをしてはいけない理由もあった。
要するに、十代後半にして、すでに私の人生は八方塞がりで、本当に、心の中のどこをどう探しても、夢とか希望とか、そんなただ甘いだけのキャンディみたいな将来への展望は、何ひとつ存在しなかったのだ。手紙が届いたのは、そんなふうに私が自分の人生に絶望しきっていた、まさにそういう時だった。
手紙の冒頭、コジマさんは、自分が私の実の父親である可能性が極めて高いと告白した。ただ、私はそれまで一度もコジマさんに会ったことがなかったし、コジマさんについての話を聞いたこともなかった。実際のところ、生物学的な私の父親候補が五人いようが十人いようが、なんら不思議ではない。私の母親という人物は、そういう生き方しかできない人間だった。
手紙には、コジマさんから私への謝罪の言葉と共に、当時の母親との関係が説明されていた。母親とは、付き合っていたというよりも、瞬発的なその場しのぎの関係だったらしい。若気の至り、不徳の致すところ。コジマさんは何度も同じ表現を用いて、釈明を繰り返した。コジマさんは、その時妻子のある身だった。
母親から妊娠を告げられた時、コジマさんは、その子、つまり私が自分の子であると確信したそうだ。確信したが、勇気がなくて認知はできなかった。現実的な問題を考えると恐ろしくなり、母親との関係を断ち切り、連絡も一切できないようにしたという。
結果として、コジマさんは母の前から姿を消した。その後、コジマさんは妻と死別し、妻の連れ子だったふたりの子どもたちとも疎遠になった。
コジマさんはその時、深刻な病を患っていた。最終的には死に至る進行性の難病で、治療法もなく特効薬もなく、近い将来確実に寝たきりになるという。手紙は、私にそばにいてくれないだろうか、そして自分の介護をお願いできないだろうか、という内容で結ばれていた。
決してきれいとは言えない直筆の手紙と一緒に、銀行の通帳のコピーが同封されており、そこには、右から順に一、十、百、千、万、と数えなければわからないほどの高額なお金が預金されていた。コジマさんが、母親から受け継いだ不動産を売って得たお金だという。
私は、何度も何度もコジマさんからの手紙を読み返した。
最初はあまりにも虫のいい話ではないかと憤ったし、いくら不甲斐ない人生を送ってきた自分でも、私はこの人の面倒を見るために生まれてきたのではないはずだ、と神様の胸倉をつかんで問いただしたくなった。
どうして私にばかり、大きな試練が与えられるのか。自分の境遇が改めて悔しくなったし、惨めさにうちひしがれるたび、手紙を破り棄てたい衝動にもかられた。けれど、そのたびに何かが私を押しとどめた。
私は、時間帯や場所を変えて、コジマさんからの手紙の文面を暗唱できるほど、繰り返し目を通した。今から思うと、手紙の字が決してきれいとは言えなかったのも、コジマさん本来の文字ではなく、病気の影響でそうならざるを得なかったからかもしれない。
けれど、字とは裏腹に、コジマさんが綴る言葉はとても丁寧で、決して人を傷つける意図がないことが読み取れた。手紙に目を通すたび、私の中で少しずつ、コジマさんの真っ当さがかさを増した。
もしも私が、親に恵まれ、家庭環境にも恵まれ、経済的にも恵まれて、何不自由なくいわゆる「ふつう」の人生を歩んでいたら、決してそんなふうには感じなかったはずだ。
でも、私は「ふつう」の枠から大いに外れた世界で、息も絶え絶えになるほどの辛苦を味わいながら、なんとかかろうじて生きのびていた。
不思議なことに、私はコジマさんからの手紙を読めば読むほど、自分の血が薄まっていくように感じて安らかな気持ちになったのだ。まるで、脳天から濁りのない清らかな水を注がれるような気分だった。
だって、私はそれまで、自分は百パーセント、母親のDNAを受け継いでいるクローンだと思い込んでいたのだ。でも、実際はそうではない。そのことを、コジマさんが私に教えてくれた。それがコジマさんであるかどうかはわからないにせよ、とにかく自分にも父親が存在するのだという気づきは、私の人生の大きな大きな発見だった。
自分の子どもかどうか確かな証拠も存在しないのに、私の居場所を必死になって探し出し、身勝手ながらもわざわざ手紙を書いてくれたコジマさんを、私は少し不憫というか気の毒にすら感じた。
もちろん、コジマさんにはコジマさんの事情があって、切羽詰まっていたのかもしれない。私くらいしか、頼れる相手を思いつかなかったのかもしれない。
いずれにせよ、実の娘でも実の父親でもないかもしれないのに、あるひとりの人間を蝶番にして、私とコジマさんは数奇な縁で結ばれていた。
承知しました、と私は短い返事をショートメールで送り、コジマさんが亡くなるまで介護にあたることを承諾した。
その頃、私は本気で自分の人生なんてどうなってもいいと思っていた。だから、外の社会に放り出されて路頭に迷うより、食べるに困らない最低限の生活が保障されるのであれば、父親だか誰だかわからない相手の介護をする方がまだましだった。正直な話、コジマさんを積極的に助けたいと思ったのではなく、単に自分が生きて行くための手段として、マシだと思われる選択をしただけなのだ。
だって、いくらなんでも十八歳でホームレスになるのは過酷すぎる。でも、それは大袈裟でもなんでもなく、実際にあり得ることだった。帰る家のない私は、自らの手で自分の居場所を開拓するしか、道はない。
それに、私は人と接するのが極端に苦手というか、人間の存在そのものが恐怖心を呼び起こすし、幻滅の対象にもなっている。だから、一般的な職業に従事するのはものすごくハードルが高い。そのことを自分でもわかっていたので、コジマさんというある特定の人物の介護に当たることで自活していけることは、ある意味とても好都合だった。
コジマさんが男性であるというのは、最後まで気になった。けれど、深刻な病気を抱えているのであれば、突然襲ってきたりもしないだろう。コジマさんの言葉を信じれば、近い将来コジマさんは車椅子生活となり、五年後には寝たきりとなって話すことも歩くこともできなくなる。
それにコジマさんは、私が実の娘であると完全に信じていて、そのことをこれっぽっちも疑っていない。だから、最低限の安心材料は揃っていた。
コジマさんは、のちのち私が不利にならないよう、きちんと法的に有効となる遺言書も作成してくれるという。施設を出て引っ越しをし、コジマさんの家の近所にアパートを借りて一人暮らしをするための準備資金もコジマさんが出してくれるというし、介護の知識を身につけるための通信講座を受ける授業料だって、コジマさんが払ってくれるという。私には、至れり尽くせりに思えた。
後日、実際に駅前の喫茶店で会ったコジマさんは、驚くほど紳士的だった。私には、この人が自分の父親だという実感は微塵も湧かなかったけれど、コジマさんの方は違ったらしく、私が施設に入らざるをえなかったことに対して、何度も何度も涙まで流して謝ってくれた。コジマさんは、手紙の印象から受けた通り、いやそれ以上に誠実な人柄だった。
以来、私はコジマさんに雇われた専属ヘルパーとして、コジマさんの家に通い、コジマさんの身の回りのお世話に当たっている。
施設を出て、コジマさんの家に通いながら介護の勉強をしていた頃、コジマさんはまだ、時間はかかるものの自分で自分の面倒を見ることができた。症状を遅らせるための薬を飲みながら、多少呂律が回らない場面はあっても会話を交わすことができたし、買い物も、歩行訓練を兼ねて近所までなら自力で行くことが可能だった。
当初、介護と言っても名ばかりで、意気込んで勉強をしていた私の方が拍子抜けしてしまったくらいだ。私は逆にコジマさんから、ご飯の炊き方や味噌汁の作り方、洗濯機の使い方、洗濯物の干し方やたたみ方、掃除の仕方などを丁寧に教わった。
最初はよく把握しきれていなかったが、知れば知るほどコジマさんはとても几帳面な性格で、靴下や下着のたたみ方ひとつにもこだわりがあった。コジマさんは、自分が動けなくなることで、そういう家の中の秩序が乱れることを極端に恐れていた。
たとえば、洗濯機を使った後は、液体洗剤や柔軟剤などを入れるコーナーをその都度取りだし、洗濯槽の底に逆さまにして置いておく。そうすれば、中の水分が抜けて、乾燥させることができる。洗濯槽に水を注ぐための元栓も、毎回、使う時だけ開けて、使用後にはまた閉めておく。
正直、最初はいちいちやることが細かすぎると不満に感じたものの、やってみればそれが結果として気持ちよかったり効率的だったり経済的だったりするので、私も納得することができた。
振り返れば、実家でも施設でも、そういうことは一切教わらなかった。
コジマさんと出会うまで、私は炊飯器でご飯すらまともに炊くことができなかったのだ。そんな私に、コジマさんは少しも嫌な顔をせず、私がきちんとマスターできるまで、ねばり強く教えてくれた。
私が同じ質問を繰り返したり、同じ失敗をやらかしたりした時も、決して声を荒らげはしなかった。逆に前回までうまくできなかったことが上手にできると、コジマさんは幼い子どもを見るような眼差しで私を見て、こちらが気恥ずかしくなるくらい大袈裟にほめてくれた。
私は毎回、コジマさんの言葉や注意点をメモしながら、コジマさん流の家事のやり方を身につけた。
時々、もしかすると病気というのは単なるコジマさんの口実で、娘かもしれない私と、ただこういう疑似親子みたいな時間を過ごしたかっただけなんじゃないかと疑念を抱くことすらあった。
でも、病魔は確実にコジマさんを蝕んでいた。体だけではなく、体に引っ張られるように心の方もまた、同時進行で蝕まれていくようだった。
私が二十歳を過ぎる頃から、コジマさんは次第にできないことが増えてきた。最初の手紙でコジマさんが書いていた通りの内容が、そのままデジャヴのように現実となった。
発症から数年後、コジマさんは家から一歩も外へ出られなくなり、表情も乏しくなった。そして、一日中ベッドに横たわり、ラジオを聞いている時間だけが長くなった。
そんなわけで、施設を出た私は、ホームレスになることもなく、コジマさんの家と同じ町にアパートを借りて一人暮らしを始めた。コジマさんの家で一緒に暮らそうという発想は、コジマさんにも私にも最初からなかった。
コジマさんが暮らす日本家屋には使っていない部屋がいくつかあるし、そうした方が家賃だってかからずに済み、通勤の時間も省くことができる。でも、やっぱりそうしないで正解だったと今は思う。
雨の日も風の日も、雪の日だって、私はコジマさんの家へと自転車で通勤する。ゆっくりペダルを漕いで十五分くらいの道のりが、なんだかいい気分転換というか息抜きになるのだ。働いているのだという自負も、ほんのり感じることができる。
ただ、家を出る時は、毎回、今日こそはと思うのだが、やっぱり、いざお弁当屋さんの前を通りかかると緊張して胸が苦しくなり、中に入ることができない。
だから私は、なるべくスピードを落として店の前を通り過ぎ、胸いっぱいに空気を吸い込む。それが、今の私にできるささやかな贅沢だ。
そんなことを考えながら店の前を通ったら、いきなり巨大な香りのマントで体ごとブワッと包まれた。もしかすると、今日のおかずは唐揚げかもしれない。一緒に、甘酸っぱいような香りが混じっている。
私は、カラリと揚がった唐揚げの上にとろとろのあんがかかっているのを想像し、それだけで幸せな気分になった。揚げたての唐揚げなんて、もう何年も口にしていない。
すると、不意にお弁当屋さんのドアが開いた。中から、私と同世代と思われる女性が颯爽と飛び出してくる。彼女の手には、大きな紙袋があった。一瞬、その女性とばっちり目が合う。パニックになりそうになり、私は野生動物みたいに猛スピードで店の前から走り去った。
やっぱり、私にできることは、今日のお弁当のおかずは何だろうと想像しながら、店の前で深呼吸することだけなのだ。
そうやって、毎日が坦々と過ぎていく。
介護の仕事には、食事や着替え、入浴、体位変換など様々あるが、やっぱりなんといっても大変なのは、排泄だ。
最初の頃は、コジマさんの意思を尊重し、便意を感じてからベッドを出て、体を支えながらトイレまで行くようにしていた。間に合えばラッキーだけど、途中でもれてしまったりすると、後始末は私の負担になった。
トイレ問題は、常に私たちの前に立ちはだかっていた。コジマさんの病気は、脳のいくつかの部分の神経細胞が時間の経過と共に劣化するために起こるもので、自律神経が機能しなくなる。そのため、発症前までは自然にできていた自らの体のコントロールが、できなくなってしまうのだ。
その症状のひとつとして、排尿障害があった。膀胱の制御が困難となり、常に残尿感があったり頻繁に尿意を感じてしまう。結果として、排尿の回数が多くなる。同じように便秘も深刻で、何日も出ないとなるとどうしても薬に頼らざるを得なくなる。
コジマさんの排泄は、じょじょに、成功するより失敗することの方が多くなった。そのたびに排泄物を片付けてきれいにするのだが、家の中には、どうしても姿形の見えない臭いが澱のようにたまっていく。
やがて、コジマさんの家の玄関を開けるたびに、なんとも言えない嫌な臭いが私を出迎えるようになった。そのたびに、私は自分自身をみじめな人間だと感じてしまう。こんな人生しか送れないのは全て母親のせいなのだと、罵りたくなってしまう。
自分に対して虚しさを覚え、自分以外の全ての人の人生が羨ましくなってしまうのだ。そして、知らない間にこの臭いが自分の細胞にまで染みついているのではないかと想像すると吐き気がし、皮膚を全部剝がしてしまいたいような衝動に駆られる。
けれど、コジマさんの人生を最期まで見届けると契約書まで交わして約束した以上、私はここから簡単に逃げ出すわけにはいかなかった。
なんとか臭いを消す方法はないかと自分なりに考えて、最初は市販の消臭剤を使用した。でもそれを使うと、今度は私の頭痛がひどくなる。
色々な試行錯誤を繰り返した結果、最終的にたどり着いたのが、精油だった。そして精油との出会いが、私の人生をほんの少しだけど明るい方へと導いてくれた。
もちろん最初は、コジマさんの排泄物の臭いをどうにかしたい一心で、精油を使っていた。それはもう、すがるような、祈るような気持ちだった。
でも、使っているうちに、無表情だったコジマさんの顔に、変化が見られるようになったのだ。そして、私自身の心にもまた、香りがほのかな光のように作用するのを感じるようになった。
最近のコジマさんはもう、ほぼ寝たきり状態だ。以前は、何が何でも、それこそ這ってでも自力でトイレに行こうとしたけれど、何度か失禁を繰り返してから、コジマさんの中にあった羞恥心のようなものが薄らいでいき、次第にオムツをはくのも、そのオムツを私に交換されるのも、無表情で受け入れるようになった。羞恥心というものを手放さなければ、人はそういう行為を受け入れられないのかもしれない。
コジマさんの中に、まだ言葉というものが輪郭を残して存在しているのかどうかは、正直なところよくわからない。コジマさん、と呼びかけて、はっきりとこちらに顔を向ける時もあれば、全く関心を示さない時もある。言葉は、だいぶ溶けかかっていて、かなりの部分の形を失っている。いずれ、すべての形が溶けて、お粥のようなとろりとしたひとつの柔らかいものになるのかもしれない。
寝たきりとなったコジマさんはヒトの抜け殻のようで、形だけというか、中身のない最中みたいに上辺だけがそこに取り残されているように感じてしまう。コジマさんの中身は、一体どこへ行ってしまったのだろうと不思議に思う。
それでも、コジマさんは自発呼吸を続けており、わずかながらも食べ物を口にし、その結果として排泄もする。
そのことを、私はそれほど辛いとは感じない。一緒に暮らしたことのある実の娘なら、また違うのかもしれないけど。私の場合、元の、つまり病を得る前のコジマさんを知らないのだ。知っているのは病気になってからのコジマさんだから、比較のしようがない。
大口を開けてゲラゲラと笑い転げるコジマさんなど、私はどうしたって想像することができないのだ。
コジマさんが着ている衣類やシーツや枕カバーを洗ったり、体を拭いたり、口の中をきれいにしたり、流動食を用意してコジマさんに食べさせたり、オムツを交換したり、おしりを拭いたり、私は淡々とコジマさんの身の回りのお世話をする。
一週間に二回は、訪問入浴のサービスを受けるようにもなった。それ以外にも、訪問マッサージに来てもらったりと、私だけで介護に当たっていた頃よりも、だいぶ負担は軽くなった。
私自身が、コジマさんの介護に慣れてきたというのもあるかもしれない。でも、コジマさんの行動範囲が狭くなり、基本的に体がベッドから動かなくなったことで、以前よりも自分自身の自由な時間が持てるようになったのは確かだ。私はそのことを、コジマさんには申し訳ないが、ありがたいと感じている。おかげで家の中には、コジマさんが望んだ通りの整然とした秩序が保たれている。
掃除や洗濯、調理などすべての家事を終え、コジマさんが大切に育てていたアロエの水やりも終えると、私は小箱に入れた精油の瓶を取り出して、オイルに混ぜる。精油は、精油そのものを体になじませることはなく、必ずキャリアオイルと呼ばれるオイルで伸ばして使う。
最初は、ラベンダーやカモミール、ローズマリーなど、手に入りやすくて禁忌もない、それでいて様々な効能が期待できる外国製の精油を使っていた。けれどアロマテラピーの世界を探求するうち、日本に古くから自生する植物から取り出される精油があることを知り、コジマさんにはその方が親しみやすいだろうと考えて、途中からはなるべく日本の精油を使うようになった。
どうやらコジマさんは、元気な頃、植物を育てるのが趣味だったらしいのだ。そのことを直接本人の口から聞いたことはないけれど、小さな庭にはいくつもの植木鉢が並んでいる。そのほとんどは、もうすでに枯れてしまっているけれど。
いつか片付けようと思いながら、なんとなくやろうとすると急に億劫になって体が動きたがらなくなり、結果として乾いた土の中に枯れた枝や葉っぱが骸骨みたいにそのままの姿で放置されているのだ。その姿が目に入るたび、コジマさんに対してなのか枯れた植物に対してなのかはわからないが、申し訳ないような気持ちになる。
ただ、唯一アロエの鉢植えだけは生き延びて、今も生長を続けている。どうやらアロエという植物は、ものすごく生命力が強く、薬用にもなるらしいのだ。
食べれば、便秘を解消したり血糖値を下げたりする効果が期待できるようだが、私はなんだか怖くて食べたことはないし、急に体調が悪化したりするのも恐ろしいので、いくら効果がありそうでもコジマさんにも食べさせようとは思わない。
アロエの鉢は、コジマさんのベッドからも見える位置に置いて、私がたまに水やりをしている。
アロマテラピーの勉強の一環として、コジマさんにハンドマッサージをした何回目かの時だった。私は、コジマさんの手のひらが、自分の手のひらと瓜二つであることに気づいてしまった。
重ねると、コジマさんの方がひとまわり大きいものの、まるで拡大コピーをしたみたいに、形も肉質も厚みも、そっくりなのだ。爪の色や形までもが、緻密な複製みたいに同じだった。
それまで、コジマさんは私を実の娘であると疑っていなかったが、私の方は半信半疑のままだった。だって、私とコジマさんは顔も似ていないし、背格好も違う。声も違う。悲しいかな、私の容姿は母親と瓜二つだった。
同じ屋根の下で長く時間を過ごすうち、コジマさんに対してうっすらとした情のようなものを感じることは確かにあったが、私はなるべく感情移入をしないよう努めていた。
私はコジマさんをコジマさんと呼び続けることで、常にコジマさんとの境界線を意識した。娘であるかのような甘えた態度を取ったことだって、一度もない。
けれど、その時に見たコジマさんの手のひらは、まるで自分の手のひらのようだった。指と指を交互に合わせると、パッと見ただけでは、どれがコジマさんの指でどれが自分の指かがわからなくなる。コジマさんから、ほらね、だからそう言ったでしょ、と動かぬ証拠を突きつけられた思いだった。
その発見があってから、少しずつ、コジマさんとの心の距離が近づいたように思う。
新しい服も必要ないし、外食だって滅多にしないので、私はコジマさんからの毎月の報酬が銀行口座に振り込まれると、生活費と貯金に回すお金を除いた分のお小遣いで、精油を買い足すようになった。
小箱の中の精油が一本増えるたび、私は小さな友人がひとりずつ増えていくような豊かな気持ちを味わった。今日はどの友とおしゃべりしようかな、と考えながら精油を選ぶのは楽しいひと時だ。
私はその日の空模様や季節、コジマさんの体調や顔色をよく観察し、その日のハンドマッサージに使う精油を慎重に選びだす。
たとえば、木枯らしの吹く季節が巡ってきたら、体を温める成分のリモネンがたっぷり含まれる温州みかんを使い、初雪が降って本格的な冬が来たら、風邪をひかないように柚子で免疫力を高める。
春が近づけば、冬のあいだ体に溜まった毒素を排出すべくトドマツを、若葉が芽吹く頃になれば、ヒノキの香りで森林浴の爽やかな空気を届けた。
梅雨に入って蒸し暑い日が続けば日本ハッカですっきりした気分を味わってもらい、梅雨が明けて盛夏を迎えたら、爽やかなレモンの香りで暑気払いする。暑くて寝苦しそうな夜は、ぐっすり眠れるようヒバを混ぜ、暑さに負けて夏バテしているように見える時はシソの力を借りた。
香りを間に挟むことで、気がつくと私は、自然とコジマさんに話しかけるようになっていた。おそらく、病気の影響でもう目はほとんど見えていないはずだ。でも、最後まで耳は聞こえているというし、たとえコジマさんに私が話しかけている言葉の正確な意味は通じなくても、なんとなく私の声が聞こえたら、コジマさんだって安心するんじゃないかと思ったのだ。
コジマさんには失礼かもしれないが、私はペットと人との交流というのは、きっとこんな感じなのかもしれないと想像するようになった。完全に意思疎通できるわけではないけど、全く何も通じないわけでもない。そこには、確かに何かしらのメッセージのやりとりがある。それが、言葉ではない、というだけのことで。
たとえば、今は機嫌がいいのか、それともどこか居心地の悪いところがあるのか。
楽しい夢を見ているのか、怖い夢を見ているのか。
よーく耳を澄まして目を見開いて向き合っていると、コジマさんのまばたきや顔色、呼吸の深さから、そういうことがだんだんわかるようになってきたのだ。コジマさんが言葉を発しなくなった当初は、完全な一方通行のように感じられた会話も、懲りずに何度も語りかけているうち、コジマさんの声なき言葉のようなものを受け取れるようになった。
すべて、精油が私とコジマさんにもたらした恩恵だった。植物たちの様々な香りが、私とコジマさんとの間にトンネルを掘り、お互いの感情を伝え合う新たな通路となって機能してくれたのである。
純粋な精油は高価なのでそれらを一気に揃えることはできなかったけれど、次にどの精油を手に入れようかとあれこれ考えながらコジマさんの介護をすることで、仕事への意欲は確実に高まった。
そして私は、コジマさんにハンドマッサージをしながら、同時に自分自身もまた深く癒されていることに気がついたのだ。精油を使うようになってから、私自身が以前よりも深く眠れるようにもなっていた。
もしも、コジマさんの体が衰弱して、この先思うように口から食べられなくなっても、生きている限り呼吸は続く。息を吸うことで、香りを吸い込むことはできる。
そのことに気づいた時、私の胸に勇気のようなものがわいた。香りには、想像以上にたくさんの力が秘められていた。
もう、コジマさんの体を支えながら近所を散歩することはできないけれど、まだ同じ空気を、しかも精油で香りづけした色とりどりの空気を吸うことはできるのだ。そうやっていれば、いつか秘密の香りがコジマさんの脳を刺激して、奇跡が起きるかもしれない。夢物語かもしれないけど、香りという光の粒が、機能を停止しかけているコジマさんの体に小さな変化をもたらすかもしれない。
それが、私にとってのちょっとした希望になった。
私は、生まれて初めて、希望というものがどういう味わいなのかを体で知った。人生にもがいていた十八歳の私からは、想像もつかない進化だった。
朝、アパートを出ようとして、ふとカレンダーの赤い丸に目がとまる。
なんの印だったかな? と一瞬考え、あ、そっか、自分の誕生日か、と時間差で気づいた。私は、六月に生まれた、らしい。
誕生日が、特に嬉しいわけでは決してない。おめでとうと言ってくれる人はいないし、誰かがサプライズでプレゼントを用意してくれるわけでもない。
施設にいた頃は、とりわけ誕生日が苦痛だった。白々しくおめでとうと言われたり、どんなことがあっても生まれてきたことを感謝すべきだ、みたいに押し付けられたりするのが、私にはものすごく気色悪くて、吐き気すら感じるほどだった。
もし、こういう人生になるとわかった上で、生まれるか生まれないかを自分で決めることができたのなら、私は絶対に後者の選択をしただろう。こんな人生を自ら選ぶ阿呆が、どこにいるというのだ。
同様に、クリスマスも大嫌いだった。誕生日とクリスマスが世の中からなくなったら、どんなに生きやすくなることかと、毎年その日が来るたびにしみじみとそう思っていた。お正月など、言葉を聞いただけで呪いたくなる。
そっか、今日は私の誕生日なのか。
まるで他人事のようにそう思いながら、アパートのドアに鍵を閉めて家を出る。
自分が生まれた日の空が、雨だったのか曇りだったのか快晴だったのか、私は知らない。一度母親に聞いたことがあるけれど、忘れちゃったわ、と関心のない声で一蹴された。
誕生日は少しも嬉しくなかったけど、施設には自分の誕生日すら知らない子もいた。自分が何月何日に生まれたのか知っているだけ、私の人生はまだマシなのだろうか。
境遇と境遇を較べて、ジャンケンでもするみたいに、自分の方が幸せだとか不幸だとか、それで満足したり悲観したり、そういうこと自体がナンセンスだと、今の私はそうはっきり思っている。
誕生日なんて、さっさと風に飛ばされて遠くに行ってしまえばいいのになぁ、みんなが一斉に元日になると歳を取った昔の日本人が羨ましいなぁ、などと明るく思いながらママチャリのペダルを踏みしめた。
一人暮らしを始める時に買った自転車だから、もう十年以上は使っている。いよいよ、私がペダルを踏み込むたびに大声で悲鳴を上げるようになった。最近は、内部が錆びているのか鍵もうまくかからない。でも、こんなオンボロママチャリを盗もうなんていう変人はいないだろうから、多少鍵がかからなくても構わない。
確か、コジマさんと駅前の喫茶店で初めて会った時だったと思うが、誕生日を聞かれた。コジマさんは、それを覚えていてくれたらしく、私が引っ越してコジマさんの生活のお手伝いをするようになってから、何回か誕生日プレゼントを私に用意してくれたことがある。
十九歳の誕生日はハンドバッグ、二十歳の誕生日はピアスだった。正直、どちらも自分の好みではなかったし、第一私の耳にはピアスを通すための穴がない。
高校生の頃は、耳にピアスの穴を開けるだけのお金があるなら、空腹を満たす方がずっと重要だったし、お金をかけずに自分で穴を開けるだけの勇気もなかった。だから、ハンドバッグもピアスも一度も使わないままクローゼットにしまってある。
二十一歳の誕生日にくれたのは、赤いマグカップだ。これだけは気に入ったというか、ちょうど使っていた湯呑み茶碗を割ってしまい新しいのを買わなくてはいけないタイミングだったので、すぐに使い始めた。
今も、赤いマグカップはアパートで使っている。縁のところがちょっと欠けてしまったけれど、問題ない。紅茶も牛乳もインスタントのお味噌汁も、それで飲む。
それから三年ほどはプレゼントがなくなり、またいきなり復活した時にもらったのがなぜか登山用の靴下だった。ただ、サイズがあまりに大きくて、私は履くことができなかった。私の誕生日を祝ってくれようとしたコジマさんの気持ちだけで、私は十分感謝している。そして、それがコジマさんからの、おそらく最後のバースデープレゼントになるだろう。
そんなことを思い出しながらママチャリを走らせていたら、お弁当屋さんがもうすぐそこに迫っていた。今日のおかずは何だろう。
ゆっくりとペダルを漕いで通り過ぎながら、いつものように匂い泥棒をするつもりだった。けれど、気がつくと私は、店の前に自転車を停めていた。駐輪スペースに自転車を置いて、前カゴに入れてあるリュックを肩にかける。もしかすると、今日なら入れるかもしれない。
店名の下に書かれた、本日のメニューに目を走らせた。
ソラマメのちらし寿司、生麩の田楽木の芽味噌、人参のくるみ和え、白桃羊羹。
どんな味なのか想像すらつかないものばっかりだけど、その文字を目に入れるだけで、私はなんだかとてつもなく満たされた気分になり、口の中いっぱいに、じゅわっと生唾がわいた。
店の扉を、そーっと押してみる。ドアに取りつけてあったカウベルがかすかに鳴り、中から笑い声が聞こえた。自分では、こんにちは、と言ったつもりだった。でもその声は、音にまで成長しなかったらしい。
男の人が何か言うと、それを聞いた女の人が大笑いしている。幼い女の子の声も混ざって、笑い声は更に大きく膨らんで私を圧迫した。
奥から届いた、いらっしゃいませという声を聞こえなかったことにして、私はそっと扉を元の位置に戻した。
もう、それ以上は体が前に進まなかったのだ。あの楽しげな笑い声をかき乱してまで、中に入っていく勇気が私にはない。
もしかしたら、今日は誕生日だから奇跡が起こせるかもしれない、そう期待した自分が甘かった。誕生日の奇跡など、起きなかった。
早業でママチャリのストッパーを蹴り上げ、ハンドルを握りしめる。逃亡するような心境で、一気にペダルを踏み込んだ。意気地なしの私を乗せて、ママチャリが強引に未来へと前進する。
ギーコ、ギーコ、ガガガガガ。
まるで、こんな私を高らかに嘲笑っているかのような不協和音が響いた。
せっかくの誕生日だから、あのお店のお弁当を買って食べてみようと思ったんだけどなぁ。やっぱり私は、社会に適応できない落ちこぼれなのだ。
ひとつ年齢を重ねても、ちっとも大人になどなっていない。来年で三十歳になるというのに、私の中身は子どものまんまだ。知らない人が怖くて、どうしても近づけないまま、歳をとり、外見だけが老けていく。
結局、バースデーランチはいつも通りコジマさんの家に買い置きしてあるレトルトのカレーになった。まぁ、それはそれでおいしいけど。
通勤途中にある農家さんの庭先の、青くて小さかった柿の実がぷっくりと膨らんで鮮やかなオレンジに色づく頃、コジマさんは人生を卒業した。
朝、いつものように私が行くと、コジマさんがベッドの上で動かなくなっていた。本当に、ひっそりとカーテンを閉じるような人生のしまい方だった。
私と初めて会った時、コジマさんは私をまっすぐに見て言ったっけ。
絶対に胃ろうと人工呼吸器はせず、植物が朽ち果てるように人生を終えたいんです、と。まさに、コジマさんはその意思を貫き、その通りの人生の終え方を成し遂げた。
あまりにその顔が安らかなので、私はコジマさんが演技で死んだふりをしているのではないかと疑ったほどだ。
厳か、なんて表現を日常生活で使うことは滅多にないけれど、私はコジマさんの死を、とてつもなく厳かだと感じた。コジマさんの周りには、神聖な気配が満ちていた。
コジマさんの寝具には、乱れた形跡が一切なかった。もしかするとコジマさんは、この日に人生が終わるということを自ら悟っていたのかもしれない。私の目には、人の抜け殻のようにしか見えなかったけれど、コジマさん本人にすら自覚できないコジマさんのどこかでは、何かが生き生きと輝き続けていたのかもしれない。
すぐにかかりつけのお医者さんが来てくれて、コジマさんの死亡診断書を書いてくれた。これで、正式にコジマさんの死が確定した。
お医者さんに同行して来てくれた看護師さんにエンゼルケアをお願いし、できることを私もお手伝いする。
小一時間後、コジマさんはすっかり旅支度を整えた。安心しきった、満足そうな表情を浮かべている。おそらくこれが、コジマさん本来の姿なのだろうと私は思った。できることなら、その頃のコジマさんに会いたかった。旅立ちの衣装に、地味な濃紺のスーツを選んでいた。
なんとなく、コジマさんがそれを望んでいるように感じたので、ふたりが帰ってから、私はコジマさんにハンドマッサージをすることにした。
こういう場面で用いるのにどの精油がいいのかは、いくら想像を巡らせてもわからなかった。わからなかったので、もう目を閉じて適当に選ぶしかなかった。小箱の中には、二十本以上の精油たちが、お行儀よく小人のように整列している。
小さな瓶を持ち上げる時、ふと、コジマさんの冷たい指先が私の指に触れたような気がした。私が手にしていたのは、フランキンセンスだ。
久しぶりに、フランキンセンスの蓋を開ける。
ゆっくりと香りを吸い上げた瞬間、ところどころ陽の差す明るい森を、コジマさんと腕を組んで歩いているような気分になる。決して華やかではないけれど、奥深くて爽やかな、ほんのりと甘い香り。フランキンセンスは、いつだって新しい何かが始まりそうな予感をもたらす。
まだ、アロマテラピーの世界に足を踏み込んで間もない頃、魂に響く香りだという説明を読んで興味を持ち、奮発して手に入れたのだ。他に紹介されていたローズやネロリに較べて値段が安かったことも、フランキンセンスに手が伸びた理由だったかもしれない。
ただ、実際にこの精油を使うことは滅多になく、所有していたこと自体ほぼ忘れていた。
ベースとなるホホバオイルを小皿に広げ、そこにフランキンセンスの雫を数滴垂らす。それを、人差し指で時計回りに円を描くようにしながらなじませる。
まずは正装したコジマさんの白いワイシャツの袖をまくり、手の甲や腕にオイルを垂らし、全体に広げた。以前から、コジマさんの手は私以上に冷たかった。冷たいだけでなく、筋肉が落ちたせいで壊れそうだった。だからいつも、少しでも自分の体温をコジマさんに分けてあげるようなつもりで、傷つけないよう丁寧に両手で手のひらを包み込んでいた。
よく考えると、死んだ人に触れるのは初めてだ。けれど、コジマさんの体に触れるのは怖くなかった。というか、目の前のコジマさんを「死体」と割り切ってしまう感覚が、私にはなかった。
コジマさんは昨日までもじょじょに死に向かっていたし、生きているとされていた時だって、その一部はすでに死んでいたような気がする。心臓の動きや呼吸が止まったのを境にして、きっぱり「生」と「死」に分かれるのではなく、曖昧なグレーゾーンが存在するように感じる。
コジマさんの場合は、そのグレーゾーンの時間がとりわけ長かった。だから、逆に言えば、今もコジマさんのどこかはまだ生きているのかもしれない。
思い返すと、コジマさんは一度だって、私に対して乱暴な言葉を放ったり、手をあげたりしたことがない。コジマさんと同じ病を抱えた人の中には、笑ったかと思えば急に泣いたりと、感情のコントロールをするのが難しくなる人もいるらしいが、コジマさんが自分自身に対して苛立ちを向けることは多少あっても、私に対して暴力的な態度をとったことは一度もなかった。
私がコジマさんを信用するようになったのは、コジマさんがそういう態度を貫いてくれたからだ。この病気は最終的に認知症を発症すると言われているが、コジマさんはどんなに物忘れがひどくなっても、オムツを穿くようになっても、やっぱり第一印象のまま、紳士的な人だった。きっと、これまでのコジマさんの生き方が、最後までそうさせたのだと思う。
なんていうか、コジマさんの生き方は、足元にある小さな野の花を踏んでしまわないように常に注意しながら歩くような感じなのだ。私のような小娘がそんなことを言うのはおこがましいにも程があるけど、コジマさんは本当に立派だった。目立たないけれど、素晴らしい人生を歩まれたのだと、心の中で拍手喝采を送りたくなる。
そんなコジマさんの人生を労うような気持ちで、ハンドマッサージをやった。
特に、涙は出なかった。ただ、コジマさんとの約束を最後まで守りきることができたことに、私は安堵していた。路頭に迷っていた私に安定して暮らせる場所を与えたくれたコジマさんには、もう感謝の気持ちしかない。
「ありがとうございました」
コジマさんの手のひらに向かって、私はお礼を言った。
「長い間、本当にお疲れ様でした」
思い返すと、コジマさんは、事あるごとに私に対してお礼の言葉を口にした。食事を終えて、食べ物のかすが口の横についているのをタオルで拭き取っただけなのに、ありがとう。
散歩に行きたいというので、コジマさんのスニーカーの靴ひもを結んだだけなのに、ありがとう。
耳に残るのは、コジマさんのありがとうの声ばかりだ。でも、コジマさんにお礼を言わなくちゃいけないのは、私なのだ。私の方こそ、コジマさんに大声でありがとうと伝えたかった。伝える代わりに、私は熱心にコジマさんの手をマッサージした。
私がどこに連絡をして、何をすべきかは、すべてコジマさんがずいぶん前から一覧表にして印刷してくれていた。だから私は、特に戸惑うこともなく、淡々とコジマさんの指示通りに動けばそれでよかった。
お昼近くになって、訪問入浴や訪問マッサージに通ってくれていたスタッフさんたちも、花束を手向けにわざわざ忙しい合間をぬって来てくれた。コジマさんが、皆さんから大事に思われていた証拠だ。
その誰もが、コジマさんを見て、いいお顔をしてますね、と言ってくれた。私には、それが嬉しかった。コジマさんの顔が苦痛に歪んでいたら、きっとこんなにも穏やかなお別れの時間は流れなかったはずだ。
私が家にいる時間帯ではなく、コジマさんがひとりでいる時に旅立ったというのも、なんとなくコジマさんは自らの美学を貫いたように感じた。コジマさんはいつだって、私に余計な負担がかからないよう、そのことばかり気にかけていた。
コジマさんの指示通り、地元の葬儀社に連絡し、コジマさんの遺体を引き取りに来てもらう。死亡したことをすぐに知らせるような親族はいないとのことなので、私は特に誰にも連絡をしなかった。お葬式も戒名も、いらないそうだ。
コジマさんがいなくなると、急に家の中ががらんとして、寒々しく感じた。まだ暖房を入れるような季節ではないはずなのに、寒くて寒くて仕方なかった。前のシーズンに残っていたカイロを出してきて、それをポケットに入れて寒さをしのぐ。
部屋のカーテンを閉めようとして、ふと外に置いてあるアロエと目が合った。アロエもまた、コジマさんがいなくなったことを敏感に感じているような気がした。私は、アロエの鉢植えをアパートに連れて帰ることにした。
玄関先で自分の靴を履こうとして、コジマさんのスニーカーがあるのに気づく。真っ白いスニーカーが、ぽかんと口を開けてコジマさんの足が降りてくるのを辛抱強く待っている。
仕立てのいいスーツにこのスニーカーという出で立ちは、もしかするとコジマさんの美意識に反するかもしれない。私が気づいていなかっただけで、実はコジマさんはなかなかオシャレだった。決して派手ではないけれど、洋服ダンスに整然と並んでいたのは、どれもいい素材の服ばかりだ。
でも、歩くには靴が必要だ。
コジマさんは、火葬の場には私が席を外しても問題ないようにしておくと言ってくれたが、私はどうしても、コジマさんにこのスニーカーを届けたくなった。やっぱり、コジマさんの骨を拾うのは、私の役目であるように思う。これは、コジマさんの指示ではなく、私が自分で決めたことだ。
もう一度寒い家の中に戻り、台所の棚からきれいな紙袋を探し出す。その中に、コジマさんのスニーカーをそっとしのばせた。
コジマさんの家に鍵をかけ、ママチャリの前カゴにスニーカーを、後ろのカゴにはアロエの鉢植えを入れて漕ぎ始めた。
最初はバランスを取るためゆっくりと、それからじょじょにスピードを上げて。
夜空には、ぽつぽつと星が出ている。星は、コジマさんの顔に浮かんでいたホクロみたいに、すごく小さい。
角を曲がると、向こうにお弁当屋さんが見えた。まだ明かりがついている。外には、「リムジン弁当」という看板も出ている。
よく考えると、朝から何も食べていない。そのことに気づいたら、急におなかがすいてきた。
少しずつスピードを落とし、店の前で自転車を停める。バランスを取りながら、ママチャリを駐輪スペースまで移動させた。アロエの鉢植えはそのままにし、自分のバッグとスニーカーの入った紙袋だけを持って店の扉を押し開けた。
「こんばんはぁ」
出迎えてくれたのは、白い割烹着を着た年若い男性である。その声が、あったかい湯気みたいに、私をそっと包み込んだ。
「あの、お弁当ってまだ買えますか?」
思いの外、言葉がすんなりと出て自分でもびっくりした。
メガネなんてかけてないはずなのに、一瞬、目の前の光景がくもって見える。しばらく間を置いてから、
「あ、大丈夫ですよ。最後のひとつが残ってます」
朗らかな口調で店主が言った。物腰が柔らかくて、私はつい女の人と話しているような気分になる。言葉の端々に突き出たとんがりを、丁寧にノミでそぎ落とし、更に丹念にヤスリをかけて表面をならしたような喋り方だ。
「おいくらですか?」
私がたずねると、
「これはエスだから、八百円で」
店主が言う。エスというわりに、店主が両手で持つお弁当はふつうの大きさである。その時、「(店内でお食事の方に限り)お味噌汁一杯100円」と書かれた紙が目に入った。
「ここで食べることもできるんですか?」
おずおずとたずねてみる。可能なら、今すぐお味噌汁が飲みたい。さっきから、寒さで体が震えている。
「そこにある四人掛けのテーブルが、なんちゃってイートインスペースです。まぁ、実際のところは、おばあちゃんたちの溜まり場っていうか。そこでよければ、どうぞ店内で召し上がってください。
井戸端会議用に、店の一角を提供してるだけですけどね。近所のおばあちゃんたち、たまに年下の若いおじいちゃんも乱入しますけど、お昼に集まってここで一緒にお弁当を食べるのを楽しみにしているんで」
四人掛けのテーブルの上には、野菜の入った段ボール箱やボウルなどの調理器具が無造作に置かれている。
「イートインにしますか?」
店主の言葉に、
「いいんですか?」
思わず、真剣になった。
「じゃあ、すぐに片づけますね」
カウンターから出てきた店主が、テーブルの上の段ボール箱を移動させる。不思議な感じで背が高いと思ったら、素足に下駄を履いているのだった。白い割烹着が、とてもよく似合っている。
何もなくなったテーブルの上を、店主が台布巾で手早く拭いた。
「どうぞ、座って待っててください。今、お弁当を温めますから」
「あのぉ、お味噌汁もいいですか?」
勇気をふりしぼって、店主の背中に声をかける。すると、
「もちろんです。ただ、うちの店、極力セルフサービスでお願いしてるんで、申し訳ないんですけど、ご自分でやってもらっていいですか?
カウンターの横にある壺に味噌汁の素が入っているので、それをご自分の好きな濃さになるくらいの量をお椀に入れて、ポットに入っているお湯を注いで溶かしてください。
ネギは、保存容器に入れてあります。お湯は、ぬるくなっているかもしれないので、一応、再沸騰させた方がいいかもです」
一気にいろんなことを言われたので、ちょっと頭が混乱する。
店主の言葉を思い出しながら、立ち上がってカウンターの横を捜索した。いろんな物が置かれていて雑然としている印象を受けるが、決して不潔ではない。埃なんか、どこにもたまっていなかった。
これかな、と思って飴色の壺の蓋を持ち上げると、中に味噌が入っている。その瞬間、ものすごーく、いい香りがした。なんていうか、生きている躍動的な香りがする。
その味噌を、スプーンですくってお椀に移した。そのままポットのお湯を入れそうになったので、慌てて再沸騰のボタンに指を伸ばす。
お湯が沸くのを待ちながら、店内をぐるりと見回した。壁には、子どもが描いたと思われるクレヨン画や、額縁に入ったセピア色の写真の他、藁で作った防寒具のようなものやお面などが飾ってある。まるで、古いものを集めたちょっとした私設博物館のようだ。
ぼんやりと店の中を眺めていると、厨房の奥にある電子レンジから音がして、店主がお弁当を取り出し、トレーにのせて持ってきてくれた。
ポットの再沸騰が完了したのを確かめ、お椀に熱々のお湯を注ぐ。保存容器の蓋を開け、お味噌汁の表面に刻みネギを浮かべた。味噌の素の中にワカメが入っていたらしく、お椀の中でふわりとワカメが広がった。味噌の、芳醇な香りにめまいがする。
こぼさないよう慎重に運び、トレーにのせた。紙製のお弁当箱の蓋を開け、いただきますをする。小さな声でつぶやいたはずなのに、店主にまで私の声が聞こえたらしい。
「どうぞぉ」
柔らかな、明るい声が厨房から届いた。
明日のお弁当のおかずの仕込みだろうか。店主は水を張ったボウルの中で、泥のついた人参を熱心に洗っている。その姿をたまに見つつ、私はお弁当を食べ始めた。
まずはお味噌汁を一口すする。やっぱり、私の体は相当冷えていたようだ。お味噌汁のぬくもりが、五臓六腑へと目に見えるようにしみわたっていく。
次に、ご飯を口に運ぶ。ご飯は、ふつうの白米ではなく、全体的に薄い紫色をした雑穀米だった。お米の中に、緑色の丸いのや、細長い黒いのや、小さな黄色い粒つぶが交じっている。
雑穀ご飯の一角には、甘酢で漬けた生姜と、小さな梅干しがのっている。
ご飯とお味噌汁だけでも十分おなかが満たされそうなのに、その上おかずまで充実している。レンジでチンしたせいで、ポテトサラダはほんのり温かかった。マカロニの他に、リンゴと胡瓜が入っている。
エビフライかと思って口に含んだのは、人参のフライだった。不思議なくらい衣がサクサクで、かかっているソースがまた甘酸っぱくておいしい。人参のフライの下には、刻んだレタスが、ビーズクッションみたいに敷いてある。
なめたけは、途中から雑穀ご飯の上にこんもりとかけて口に入れた。薄味でさらっとしているから、ご飯にたくさんのせても口の中がしょっぱくならない。
がんもどきに箸をさし、がぶりと口に含んだ瞬間、じゅわっと瞳の表面に涙がたまった。口の中いっぱいに、ほんのりと甘いお出汁の味が広がる。このお弁当を、コジマさんにも食べさせてあげたかった。
そうはっきりと心の中でつぶやいたら、ぽろんと大粒の涙がこぼれ落ちた。構わず、お味噌汁をすする。涙が止められないまま、あつあつのお味噌汁を食道へと流し込む。
がんもどきに添えてある大根もごぼうも、柔らかく炊いてある。これなら、コジマさんだってゆっくり嚙んだら食べられたかもしれない。でも、もうコジマさんはあの家にいないのだ。
鼻水が垂れそうになり、慌てて思いっきりすすり上げたら、思わず大きな音が響いてしまい、店主とばっちり目が合った。
「大丈夫ですか?」
まるで、道端で転んだお年寄りに優しくかけ寄るような言い方で、私の方をじっと見ている。
「実は今日、父かもしれない人が亡くなったんです」
精一杯おなかに力を込めて、私は言った。
コジマさんというひとりの人間が亡くなったという事実を、誰かに知ってほしかった。誰彼構わず言いふらしたいわけではなかったが、ひとりでも多くの心ある人物に、私はコジマさんという人がこの世に存在したことを知らせたいような衝動にかられていた。このお弁当を作った人になら、コジマさんの人となりが、少しはわかってもらえるかもしれない。
「そうなんですね」
ちょっと困ったような笑みを浮かべて、店主は言った。それから、再び人参の皮をむき始めた。そのたびに、スー、スー、と動物の寝息のような音がする。
しばらくして、店主が言った。
「味噌汁、よかったらおかわりしてくださいね。おかわりは自由ですので」
「ありがとうございます」
実は、さっきお椀に入れた味噌の量が、遠慮して少なめに取ってしまったため気持ち味が薄かった。まだおかずもご飯も残っている。お言葉に甘えて、私はもう一杯、お味噌汁をもらうことにした。今度は、さっきよりもたっぷりめに味噌をよそう。
「手前味噌で作っているんですよ」
私がお湯を注ごうとするタイミングで、作業を続けながら店主が言った。
「本当は大豆も自分で育てたりしたいんですけど。なかなかそこまではできてなくて。でも、自分で言うのもなんだけど、味噌、おいしいでしょう?
味噌ってね、塩と麴と大豆さえあれば、誰でも簡単にできるんです」
「そうなんですか?」
自分で味噌を作ってみようなんて、私はこれまで生きてきて一度だって思ったためしがない。でも、この人にとっては自分で味噌を作ることは当たり前なのだ。それだけで、店主が偉大な人物に思えてくる。
「味噌の中にね、鰹節の粉とか煮干しの粉とかを混ぜてあるから、それさえ準備しておけば、あとはお湯を注ぐだけでちゃんとしたお味噌汁が飲めて便利なんです。
味噌は、春と秋、半年に一回ずつ、手前味噌教室を開いてみんなでここで仕込むんですけど、一回教室に参加して作り方を覚えると、あとはみなさん、ご自宅で自分で作るようになりますよ」
今度はちょうどよい濃さになっていることを祈りながら、慎重にお味噌汁の入ったお椀を席まで運ぶ。
ゆっくりと歩きながら、一枚の写真に目が釘づけになった。男性のような、女性のような、パッと見ただけではどちらか判断できないような雰囲気の人物が、小さな男の子を肩車して笑っている。その笑顔がものすごく素敵で、私は思わず立ち止まって見入っていた。
「それ、僕なんです」
「えっ?」
驚いて、思わず店主の顔を凝視した。一瞬、素敵な笑顔の人物が店主なのかと勘違いしそうになる。でも、僕というのは肩車されている男の子の方だった。冬なのか、男の子は分厚い半纏のようなものを着せられ、よく見ると泣いた後のような表情を浮かべている。小さな手に握っているのは、齧りかけのリンゴのようだ。
*
続きは10月9日ごろ発売の『小鳥とリムジン』で、ぜひお楽しみください。
■ 著者プロフィール
小川糸(おがわ・いと)
1973年生まれ。2008年『食堂かたつむり』にてデビュー。『ライオンのおやつ』は2020年本屋大賞第2位。その他『喋々喃々』『ファミリーツリー』 『ツバキ文具店』 『キラキラ共和国』『椿ノ恋文』など著書多数。