大隈重信 没後100年企画
大隈重信のことばと写真でめぐる早稲田大学
2022年1月10日、本学創設者の大隈重信没後100年を迎えました。政治家であり教育者でもあった大隈 重信のことばと写真から、早稲田大学との関係をたどっていきます。
第1回は こちら
【第 2 回】 総合大学としての礎を築く(1898~1913年)
1898年6月、大隈重信率いる進歩党と板垣退助率いる自由党が合同して憲政党を結成し、日本初の政党内閣を組織した。いわゆる隈板内閣(第1次大隈内閣)である。大隈はこの内閣で首相および外相を務めたが、党の内紛が絶えず10月には憲政党が分裂し11月には内閣総辞職となった。その後大隈は憲政党から分裂した憲政本党の総理を務めたが、1907年1月には辞任して政界からの引退を表明した。
明治十四年の政変で下野して以来、再び政界を退いた大隈は、1907年4月初代総長に就任し、早稲田大学の経営に本格的に乗り出すことになった。早稲田大学は1902年に東京専門学校から改称していたが、制度的には専門学校のままであった。当時、法律上大学であったのは帝国大学のみで、私立大学の設置は認められていなかった。また、当時の学科構成は政治経済、法学、文学が中心で、理系の学科は一つもない状態であった。折しも早稲田は、この年創立25周年を迎え、10月には各国要人、政財界の重鎮を来賓に招いて創立25周年式典を開催した。この時、大隈は式辞の中で次のように述べている。
駸々(しんしん)たる文明の発達する今日では、大学として単に文学・法律・政治・経済・哲学位を教へるばかりでは不満足である。今を去る二十五年以前早稲田専門学校を建てる時に方(あた)り、其んな考へを有つた故に、其際先づ工科を設け、此他の学科も漸々(ぜんぜん)備へたいとしたが、遺憾な事に其頃の社会の要求として工科に入るものがない。(中略)而し今日は日本の私立大学として稍其(ややその)目的を達してゐる。同時に早稲田大学が第二期の発展する時機にも達したとも思ふ、処が時勢の進運は同時に医科・工科若くは此他の学科を望む事が盛んになつた。
〈『早稲田学報』第153号、1907年11月、58頁〉
1882年の東京専門学校創設時、政治経済学科・法律学科と並んで理学科を設置したが、講師不足・入学者不足から翌年廃止し、かわって設置した土木工学科も同様の理由で1885年に募集を停止した。その経緯もあって、大隈は理工系の学科の再興を望んでいたのである。この大隈の言葉をもとに1908年初めに第二期計画が策定され、主として理工科・医科の設置、およびそれに伴うキャンパス拡充のための基金募集を行うことになった。これに対し、同年5月皇室より3万円が下賜された。当時、高等官(現在でいう国家公務員)の初任給が50円であったので(『明治・大正・昭和・平成 物価の文化史事典』参照)、3万円という金額はかなりの高額であった。この皇室からの下賜金を記念して、1911年に理工科教室を主とする恩賜記念館が建設されている。
このほか、実業界からも三井・森村などの財閥や渋沢 栄一から多額の寄付があり、渋沢は基金管理委員長も務めている。そして大隈自身も、積極的に各地を巡っては校友などに対して講演を行い、寄付を呼びかけている。1910年の秋季校友大会における講演で、大隈は次のように語りかけている。
どうぞ諸君の共同の力に因つて大いに此学校を盛んにして行きたいと望むのである。此早稲田の学校がどれ程国に力を与えるかと云ふと、どうも誠に微々たるものであるか知れん。併(しかし)ながら私立の学校であつても、諸君の努力と教職員の熱心なる指導と学生の勉強とに依り、十分の好果を収め国家に貢献することが出来ると思ふ。私学に於ては官学に学ぶのとは心持も違ふ。殊に此学校は実験に重きを置いて、机の上の論にあらずして鉄槌を以て自から物を造ると云ふ此努力に因つて行くのであるから、今に大いなる天才が現はれるかも知れん。
〈『早稲田学報』第190号、1910年12月、6頁〉
大隈は官立学校優位の状況にあって、それとは一線を画し、実験・実習に重きを置く早稲田の強みを強調して、校友らに寄付を呼びかけたのである。その成果もあって、1913年8月の段階で、総計92万4865円79銭の寄付が集まった。この基金により、医科の設置はならなかったものの、1909年に大学部理工科が機械学科・電気学科の二学科で発足し、翌年には採鉱学科・建築学科も発足した。また、キャンパスを拡張し、恩賜記念館をはじめ実験・実習用の教室棟が次々と建設されていった。これによって、早稲田大学は文科・理科を備えた、総合大学の体裁を整えることができたのである。
こうして迎えた創立30周年記念祝典(1913年10月)において、大隈は早稲田大学教旨を宣言した。その宣言の中で、大隈は自らが理想とする大学および大学生について、次のように述べている。
吾人の大なる理想は文明の調和者として東洋の文明と西洋高度の文明と並行せしめ、調和せしむるにある。(中略)この理想を実現するには何としても学問の独立、学問の活用を主とし、独創の研鑽(けんさん)に力(つと)め、その結果を実際に応用するにある。而してこれに任ずべきものは個性を尊重し、身家を発達し、国家社会を利済し、広く世界に活動することを以て自ら任じ、またその任に堪(た)ゆるところの人格にある。これ即ち模範国民である。全体大学に学ぶものは多数ではない。多数国民の少数である。この少数の高等教育を受けたるものが国民の模範である。
〈『大隈重信演説談話集』(岩波文庫)144頁〉
大隈は、第二期計画によって総合大学としての体裁を整え、教旨の宣言によって大学・大学生の目指すべき理想を掲げた。この後、「大学令」によって私立大学の設置が認められるようになると、早稲田大学は大隈総長のもと、法律上の大学に認可され、さらなる発展を遂げていくのである。
(つづく)
文: 早稲田大学大学史資料センター 助手 田中 智子(たなか さとこ)
専門は日本近現代教育史、 特に大学史。 著書(共著)に『青山学院女子短期大学 六十五年史』(2016年)、『帝国大学における研究者の知的基盤 東北帝国大学を中心として』(2020年)がある。