早稲田大学歴史館 館長 渡邉 義浩(わたなべ・よしひろ)
大隈家は、佐賀藩において代々の砲術家であった。また、佐賀藩は、幕末において積極的に西欧の科学技術を導入していた。そうした中、安政2(1855)年に、佐賀藩精錬方雇(せいれんかたやとい)の技術者である中村奇輔(なかむら・きすけ)は、蒸気機関車の模型を作り、藩校である弘道館(こうどうかん)の関係者にもこれを見学させた。大隈重信は、これにより鉄道の重要性を認識したと考えてよい。
明治維新後、大隈は、明治2(1869)年に築地に屋敷を拝領する。そこには、伊藤博文や井上馨ほか多くの賓客が集まり、「築地梁山泊(つきじりょうざんぱく)」と呼ばれた。そこに集った者たちが、最も熱心に主張したことが、鉄道の建設であった。
これより先、慶應3(1868)年、江戸幕府の老中・小笠原長行(おがさわら・ながみち)は、米国のポートマンに江戸~横浜間の鉄道建設を許可していた。その内容は、敷設作業だけではなく鉄道の経営権を米国側に委ねるもので、日本を半植民地化させる可能性があった。明治維新で成立した新政府は、この契約を破棄する。自力による鉄道の経営を選択すべきである、と大隈が強く主張したためである。大隈は英国のパークスと交渉しながら、円を基本単位とする近代的な通貨制度の基本を定め、明治政府の財政を立て直すと、「殖産興業」に力を注いでいく。
明治2(1869)年、大蔵省(当時)の民部大輔となった大隈は、民部少輔の伊藤博文と共に鉄道建設を推進する。しかし、東京~横浜間の鉄道建設が具体化すると、岩倉具視は尻込みをした。さらに、西郷隆盛は鉄道より軍備が先と主張する。あるいは住民は立ち退きを拒み、人力車夫や茶屋・旅館などは商売にならなくなると補償を求めた。何よりも難渋したのは、ルート上に土地を持つ兵部省が、西郷の意向を受けて土地の測量さえも拒んだことであった。
そこで大隈は、この土地を避けて、海上に通すルートに変更した。そのために構築されたものが、高輪築堤(たかなわちくてい)である。高輪築堤こそ大隈の鉄道への情熱の象徴であった。高輪築堤は、新橋~横浜間の約29㎞のうち、現在の田町駅の北から旧品川停車場までの約2.7㎞区間について海上に堤を造り、その上に鉄道を走らせたものである。大隈はその完成に情熱を傾けた。
やがて高輪築堤は、東京湾の埋め立ての進展と線路の複々線化などにより地中に埋没し、その姿を消した。それが姿を現したのは、平成31(2019)年のことで、遺跡保護の声が高まる中、港区教育委員会は文化財保護法による調査をした。そして、令和2(2021)年、JR高輪ゲートウェイ駅開業後に本格的な発掘が開始され、第7橋梁橋台座が発見された。こうして高輪築堤は、「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」として、国指定史跡となったのである。
早稲田大学歴史館は、高輪築堤の石を譲り受け、それに説明を付して2022年12月より展示することにした。歴史館入り口の向かって右側の植栽には、大隈の出身地である佐賀から運んだ石に歴史館の建設の旨を記したモニュメントがある。そこで、左側の植栽に東京から出土した「高輪築堤」の石を展示することにした。早稲田キャンパス1号館の歴史館を訪れる際には、「高輪築堤」の石にも注目していただきたい。
写真左:佐賀県立博物館 「高輪築堤」の再現
写真右:歴史館に展示している高輪築堤の石