学業と勤労とのはざまで-第二学部(夜間学部)の軌跡
大学史資料センター助手 嶌田 修(しまだ・おさむ)
戦後の学制改革の中で、早稲田大学は、1949年4月新制大学としてのスタートを切った。新たな学部の編成として、政治経済学部、法学部、文学部、教育学部、商学部、理工学部が設置され、教育学部を除く五つの学部については、昼間に授業を行う第一学部と夜間に行う第二学部がそれぞれ設けられた。第二学部の誕生である。
第二学部とは、戦後の経済的な混乱の中で、働きながら学ぼうとする学生に対し教育の場を提供するために設置された夜間開講の学部である。新制大学の発足以来、早稲田大学の他、多くの大学でも設置され、1950年代初めにおいては、大学で学ぶ全学生数の約15%を第二学部の学生が占めた。
なお、本学における夜間教育については、戦前から様々な実践がなされてきた。政治経済・法・商の各科が置かれた早稲田専門学校(1924年開校)や、技手・職工長の養成を目的とした早稲田工手学校(1911年開校)、その上級学校である早稲田高等工学校(1928年開校)などが挙げられるが、その役割は戦後、第二学部にそれぞれ引き継がれた部分もある。
こうして始まった第二学部での教育は、しかしながら、設置当初から理想と現実とのはざまで苦悩することになる。本学では、在学期間4年で昼間学部と変わらない単位を取得できるようカリキュラムが組まれたが、実際に定職を持つ学生にとっては、午後4時10分から始まる1限はおろか、その後の時限からの登校さえ困難な状況であった。また、普段の受講時間の不足を補うために設けられた夏季学期の授業も出席には限界があった。勤労学生にとって、4年間での卒業は現実的には厳しい状況となっていたのである。
さらに、1950年代の半ばごろからは、大学を取り巻く社会の変化が第二学部の存続に影響を及ぼした。志願者が勤労学生以外にも広がり、本来の勤労学生の場が奪われる状況が生まれ、第二学部は第一学部への転部も含めた予備的な位置づけに変わっていく。また、第二学部の学生が就職での不利益を受けることもあり、第一、第二という名称を使わない単一学部制を求める声もあがった。第二学部の存在意義が問われるようになったのである。
その後、学内では単一学部制の実施を検討するが実現には至らず、結果として第二学部廃止の方向で状況は推移していく。最終的には、第二理工学部は廃止となり、第二政治経済学部、第二法学部、第二商学部の社会科学系については、新たな夜間学部である社会科学部(1966年創設、2009年より昼間学部)に引き継がれるかたちとなった。一方、第二文学部は、新学部とは系統が異なることや勤労学生が多いことなどから存続が決まり、以後多くの卒業生を輩出していく(2007年文学部・文化構想学部創設のため募集停止)。
戦後、夜間教育があらためて形づくられていく中で誕生した第二学部であったが、その内実は、学業と勤労とのはざま、または大学と社会とのはざまで揺れ続けた模索の軌跡であった。しかし、この時代において勤労者に対し高等教育への機会を拡大させたことはまぎれもない事実である。第二学部の存在は、戦後日本におけるひとつの歩みとしてとらえることが出来るであろう。