大学史資料センター非常勤嘱託 木下 恵太(きのした・けいた)
現在では、鳩山和夫(1856~1911年)は戦後に首相となった鳩山一郎の父として知られる。しかし、早稲田大学校長となった当時においては、俊英の法学博士として名高い人物であった。若くして文部省(当時)派遣のアメリカ留学生となり、コロンビア・イェール両大学にて学位を得て帰国、東京大学講師(後に教授)、代言人(弁護士)を務めた。政党政治への理想から大隈重信が創設した立憲改進党に参加、大隈系政党の代議士として活躍し、1896年に衆議院議長に就任した。
一方、1890年には大隈の要請により東京専門学校の校長に就任、そのまま初代早稲田大学校長となり、17年間その任にあった。
しかし、その職務は名誉職とされ、学校の基金募集など種々(しゅじゅ)に尽力したが、学校の運営は高田早苗(1900年より校長補佐役である学監に就任)が取り仕切る状況にあった。また、穏やかで淡々とした気質の鳩山は野性味に乏しく、社会的名声に比べ早稲田の学生には人気が薄かった。とりわけ、校長在任中に2人の子息、一郎と秀夫が第一高等学校(そのまま東京帝国大学に進学できる学校)に入ったことは、早稲田の学生たちの失望を招いた。
政治においても、鳩山は第1次大隈内閣で外務大臣になれず、外務次官にとどまった際に、大隈と疎隔が生じたようであり、伊藤博文が立憲政友会を創設したときは、大隈の懇請によりようやく参加を思いとどまるほどであった。大隈系政党の中では次第に大隈との距離が大きくなり、1907年1月に大隈が党首を辞任した際は、その鳩山の関わりが当時の資料から読み取れる。
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卒業記念写真(大隈重信より(中央前列)右に、鳩山春子、鳩山和夫、高田早苗)
同年4月のこと、早稲田大学では大隈がその初代総長に、高田が初代学長に就任した。同時に、校長職は廃止され、鳩山は大学の維持員(15名、現在の評議員)の一人にすぎなくなった。身近で鳩山の努力を見てきた夫人の春子(現在の共立女子大学・短期大学の創立者の一人)は、このとき涙を流して悔しがった。
結局、鳩山はその翌年1月に憲政本党(元の大隈系政党)を離党し、原敬内相らを介して反対党の立憲政友会に入党した。大学では、同年2月に社団法人解散を議決した機に、鳩山の維持員職を打ち切りとした。
こうして鳩山と大学との関係は絶え、その3年後に鳩山は病にかかって逝去した。臨終の床で、鳩山は自らの人生に3つの愉快があったと述懐したが、その3番目の愉快とは、校長当時における、早稲田大学の発展のことであったという。大学では、その葬儀の日を1日休校とし、在任時代の功績をしのんで哀悼の意を表した。