大学史資料センター助手 佐川享平(さがわ・きょうへい)
早稲田大学創立の中心を担ったのは、小野梓と、彼の下に集った東京大学出身者によるグループ「鷗渡会(おうとかい)」のメンバーであり、その一員であった高田早苗と天野為之は後に学長を務めている。しかし、彼らの他にも、早稲田の困難な時期を支えた学外出身の校長・学長がいた。「早稲田に歴史あり」では3回にわたり、外部出身の校長・学長を紹介する。今回はその第1回である。
前島密(1835~1919)は、日本における近代郵便制度の基礎を確立した人物として著名である。しかし、その前島が、後半生を通じて早稲田の運営に深く関わっていた事実は、それほど知られていない。
前島と早稲田との関わりを語る上で触れなければならないのが、大隈重信との関係である。前島が大隈の知遇を得たのは1869年に遡(さかのぼ)る。この年、幕臣であった前島が民部省、次いで大蔵省に出仕した際の上司こそ、民部大輔(みんぶたいふ)と大蔵大輔(おおくらたいふ)を兼任していた大隈であった。前島と大隈は、その後も良好な関係を維持し、明治14年の政変によって大隈が中央政府を追放された際には、前島も内務省駅逓総官の職を辞して官界を去り、大隈らの立憲改進党結成にも有力人物の一人として参画したのである。
大隈とこのような関係にあった前島は、早稲田大学の前身たる東京専門学校の運営にも当初より関わることになるのであり、学校創設時より議員(のちの評議員)を務めている。そして、1887年9月には、校長を辞した大隈英麿(大隈の養子)の跡を継いで、東京専門学校の第2代校長に就任した。形式的には、前島は評議員会によって校長に推薦されたのであるが、彼の自叙伝『鴻爪痕――前島密伝』に拠(よ)れば、この時、「翁〔前島〕は最も大切な最も困難なる時に当つて自ら奮つて校長たらんことを大隈伯まで申込み」、自ら校長になることを買って出たという。
1889年11月より逓信次官を兼職して多忙を極(きわ)めたこともあり、1890年8月、前島は校長の職を退く。しかし、その後も東京専門学校評議員、早稲田大学評議員会長を長年にわたって務め、実業界での活躍(北越鉄道株式会社社長、日清生命保険株式会社社長などを歴任)の一方で、早稲田の運営に携わり続けた。また、1901年より早稲田大学基金募集委員長、1908年より早稲田大学第2期計画募金専務委員・同管理委員として、大学の寄付金募集事業にも大きく貢献している。
なお、前島が度々の機会に早稲田に投じた私財は約2万円(※)に上り、彼の早稲田に対する思い入れの強さを物語っている。
※) 1912年当時、早稲田大学の学費は文科系50円、理科系55円であった。