〜第14回〜 戸山キャンパスの今昔 – 早稲田ウィークリー

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コラム

〜第14回〜 戸山キャンパスの今昔

大学史資料センター 非常勤嘱託 木下 恵太

 戦後の新制大学が発足してすでに62年の月日が経過した。戸山キャンパスはもはや新制文学部(現在の文化構想学部・文学部)の地となって久しいが、かつてこの地に存在していたのは旧制の早稲田大学第一高等学院であった。

この第一高等学院の敷地はもともと尾張徳川家の下屋敷の一部であり、1908(明治41)年大学が銀行を通じて個人から購入したものである。大学ではこの地に1920(大正9)年以降、第一高等学院の本館・学生控所および四棟の二階建て校舎を建設した。コンクリート校舎であった早稲田キャンパスの第二高等学院に対し、第一高等学院の校舎はすべて古式の木造建築であった。また、その南側隣接地を陸軍省より借り受け、広大な運動場を設置した。

▲第一高等学院運動場(後方左側の建物は第一高等学院校舎)

このような第一高等学院とその周囲の環境は、およそ現在のキャンパスからは想像もつかない様子だったようである。第一高等学院の校舎と運動場の間には「かに川」という小川が流れていたが、文字通りたくさんの沢蟹がいる川であった。また、初期の第一高等学院生であった酒枝義旗(さかえだよしたか・のち政治経済学部教授)によれば、校庭には雉(きじ)や山鳩が住んでおり、「友人たちと何かを語り合って叢(くさむら)に腰を下すと、けたたましい鳴声をあげて雉が飛び立つことも再々であった」という。学校の隣に広がる「戸山が原」では、木々の枝をつたう猿の群れが時々見かけられたのであった。

▲戸山が原

  たちいてて とやまかはらの しはくさに
かたりしともは ありやあらすや
(會津八一「母校のかとに立ちて」)

 戸山が原は格好の散策と語り合いの場所であり、多くの学生たちに深い心の安らぎを与えていたことだろう。

しかし、戦後は戸山界隈の開発と都市化が進み、かつての林野は急速に姿を消していった。それと同時に、戦災よりいったん復興を遂げていた第一高等学院が廃止され、同じ地に成立した新制の高等学院は1956(昭和31)年、練馬区上石神井に移転した。そして、その跡地には記念会堂や体育局校舎、また新しい文学部校舎が次々と建てられていった。

戸山キャンパスは学生で賑わう活気ある研究・教育の場として、新しい歴史を刻みはじめたのである。

1264号 2011年12月1日掲載

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