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歴史館に多く寄せられるご相談についてご紹介します。
大隈重信の「国民葬」が実施された経緯を知りたい。
『早稲田大学史記要』第38巻に掲載された荒船俊太郎氏の論文「大隈重信陞爵・国葬問題をめぐる政治過程」によれば、おおよそ以下のような流れだったと考えられます。
1921年[大正10]9月
大隈重信発病、体調悪化が見られる。
市島謙吉
大隈「国葬」の機運醸成を新聞各紙に働きかける案を立てる。
1922年[大正11]1月
大隈重信の状態について、医師の診断では「最早時の問題」とされる。
市島謙吉
塩沢昌貞ら早稲田大学関係者とともに、大隈死後の対応について非公式に協議を開始。
1月2日
市島謙吉・塩沢昌貞
「万一の場合に処する重要の件」を協議。
1月3日
塩沢昌貞
国府津で高田早苗名誉学長に、東京で憲政会総裁の加藤高明に面会。
1月4日
大隈の回復が絶望的となる。
市島謙吉ほか
緊急の「極密会」を招集、塩沢昌貞、増田義一、坂本三郎、平沼淑郎、頼母木桂吉が参加。大隈について「到底救ふべき道なしとすれば此の偉人の終焉を飾るの道を講すること」とし、大隈「国葬」の機運醸成のため新聞各社への働きかけ、元老その他への説得役の割り当て(例:山県有朋への説得に堀内文次郎らを派遣)、「国葬」が困難と判断された場合の「国民葬」実施、葬儀の形式や費用調達案の策定。陞爵と「国葬」の両立は難しいことから、「国葬」を優先することを確認。
1月5日
大隈の衰弱が激しくなる。
市島謙吉
葬儀を取り仕切る「総務」となる。
葬儀委員・担当部署の調整。
早稲田大学図書館所蔵 イ14 A5304「大隈侯爵葬儀委員表」
1月6日
各新聞に大隈の病状が報じられる。大隈はこの頃まで、家族・親近者の呼びかけに時折反応を示していた。
波多野敬直・元宮内大臣(子爵・宮中願間官)が葬儀委員長となる。
市島謙吉
「国葬」実現は困難、位階勲等の昇格と5万円(現在の約2億円)の下賜金が現実的と予測。
1月8日
鍋島直明
修善寺で静養中の牧野伸顕宮内大臣(宮相)を訪問、陞爵を依頼。
内閣・宮内省間で陞爵に関する意見調整が行われる。
1月9日
大隈、意識不明となる。
牧野伸顕
修善寺からの帰途、興津で西園寺公望(元老)を訪問。西園寺は、陞爵に反対しない旨鍋島桂次郎貴族院議員に伝えたと語るが、大隈陣営の運動に不快感を示す。夜、一木喜徳郎枢密顧問官から陞爵の詮議を依頼されるが、即答できないと回答。
1月10日
朝、大隈重信死去。
牧野伸顕
鎌倉の松方正義(元老)を訪問。山県有朋(元老)が賛成すれば陞爵に反対しない、という松方の消極的な態度を確認。高橋是清総理大臣と会談。入江貫一(山県秘書官)を小田原の山県有朋のもとに派遣し、山県の「賛成」を確認した後に摂政宮から陞爵の裁可を得る段取りとする。
内閣
摂政宮に対して位階勲等(従一位・大勲位菊花章頸飾)を上奏し、また宮内省(牧野)に「陞爵申牒書」を送付し陞爵決定の際の準備を整える。叙勲は内閣、位階と叙爵は宮相、それぞれの詮議事項であった。
大隈死去の事実が新聞号外などで世間の知るところとなる。
神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫「大隈重信侯薨去 : 十日午前七時早稲田の邸に於て」(大阪朝日新聞)
牧野伸顕
入江貫一から報告がないため、「菊花章頸飾」(内閣)が既に摂政宮裁可済みであるなら、宮内省からは「従一位」(宮内省)の授与で十分との見解を固め、過分な陞爵申請を「握りつぶす」方針で内閣を押し切る。
早稲田大学図書館所蔵 イ14 D0248「叙従一位位記添状 : 正二位大勲位侯爵 大隈重信 / 宮内省」
早稲田大学図書館所蔵 イ14 D0029「菊花章頚飾授与証 : 従一位大勲位侯爵大隈重信 / 賞勲局」
市島謙吉
大隈邸玄関で新聞記者に対して大隈の死去を伝達、「国民葬」に全力を注ぐ方針を明確化。
結局大隈没後、爵位は「侯爵」のまま、位階は「従一位」となり、勲章については「大勲位菊花章頸飾」が加授された。陞爵問題に時間が費やされたため、「国葬」についての詮議が行われることなく、結果として「国葬」は実現せず。
1月11日
市島謙吉
「国民葬」の準備を主導し、全国の新聞を通じて賛同を呼びかけ。
宮中から、「国民葬」にあたって儀仗兵一個旅団派遣・弔砲一九発の発射がある旨連絡あり。
宮内省内で、内閣に「陞爵申牒書」を返却することが検討される。
1月12日
講堂で葬儀委員会を開催。
牧野伸顕
宮内省から「陞爵申牒書」を最終的に内閣に返却する方針を確認。しかし実際には返却されなかったと推定される。
1月15日
1月17日
日比谷公園で「国民葬」を開催。
十七日の自邸における告別祭には、天皇、皇后、皇太子の代拝があり、真榊等を賜ったほか、大隈家側から願い出たわけでもないのに、特旨を以て一個旅団の儀仗兵が派遣されたのは、大隈の余栄と言うべきであった。次いで行われた日比谷における告別式は、一ヵ月後に行われた山県有朋の実質的には軍葬だと言われた形式的で寂しい国葬とは異り、実に二十万とも三十万とも言われた会葬者が参集し、「国民と交渉の深かつた点に於て明治元老中侯の右に出づる者はない」(『大阪毎日新聞』大正十一年一月十一日号夕刊)と言われた大隈の葬式らしい、「一面厳粛であると同時に、一面陽気で……何となく祭礼のやうな感じ」(『大隈侯一言一行』四二七頁)の盛儀になったのである。その詳細については『早稲田学報』第三二五・三二六号「故総長大隈侯追悼号」等に譲るが、校旗を先頭に、塩沢学長以下理事、評議員、教員団、次いで早稲田大学各学部、専門部各科、高等師範部、高等予科、高等学院、工手学校、早稲田中学校、早稲田高等予備校、早稲田実業学校および日本女子大学校の二万に及ぶ学生、生徒および校友団、稲友会、職員団、救護団は牛ヶ淵公園前から、飯田町、牛込津久土町、肴町、矢来町、山吹町、鶴巻町通りを経て大隈邸横まで一里余に亘って堵列して葬列を送り、次いで全員葬列に従い日比谷に至って告別式に列した。この行進は終始駆け足となったが、一糸乱れず行動し、一人の落伍者もなく、当日儀仗兵の司令官であった堀内文次郎陸軍中将から絶賛された。
病中の高田早苗に代って葬儀の事実上の責任者となった市島謙吉は、このような葬儀の執行につき、大隈綾子未亡人の承諾が得られるや否や、また身分の差を問わず多数の参拝者を迎えるという前例のない告別式を無事に終ることができるや否やについて大いに苦労したが、幸いに未亡人は快諾せられ、群集の整理も、参拝者各自の良識ある行動により、予想以上にうまくいったので、葬儀を無事終ることができた、と言っている。
上記の記述は、当館スタッフが荒船俊太郎氏の論文をもとに要約したものです。髙田早苗・加藤高明・頼母木桂吉・牧野伸顕・西園寺公望・一木喜徳郎・山県有朋・松方正義・高橋是清の画像の出典は国立国会図書館「近代日本人の肖像」です。本記述は、原論文の内容を簡潔に伝えることを目的としていますが、論文の完全な内容や意図、および最新の研究成果を正確に反映していない場合があります。この記述を参考にする際には、必ず原論文等をご自身で確認し、正確な情報をご参照ください。
なお歴史館では、調査代行・解読・鑑定、検索のサポート等を行なっておりません。歴史館提供のサービスについては、利用案内をご参照ください。
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「完之荘(かんしそう)」の由来や構造を知りたい
早稲田キャンパス大隈庭園の北側、リーガロイヤルホテル東京に隣接する完之荘は、1952(昭和27)年に校友で実業家の小倉房蔵氏(1908年商科卒)から寄贈された建物で、その名称は氏の雅号「完之」に由来します。
早稲田大学百年史は以下のように記述しています。
なお、二十七年五月から九月にかけて、小倉房蔵(明四一大商)寄贈の、六、七百年以前の建築と推定される完之荘三五坪が庭園内に移築された。完之荘は飛驒の山村に残っていた民家の一部を小倉が東京渋谷の邸内に移し、雅号「完之」に因んで命名したものであるが、現在、広間のほか一室と土間ならびに屋根裏室があり、栗材の柱がすべて直接礎石上に立ち、囲炉裏と火棚と自在鈎など旧のままで、建築学上貴重な資料である。小倉は移築の完成を見ることなく七月に没した。
また広間には小倉房蔵の書額「満堂和気生嘉祥 昭和己卯 完之書」、髙田早苗の書額「行雲流水 半峰学人」、坪内逍遥の書額「正 其誼不謀其利 昭和戊辰秋日 逍遥題」が掛けられています。
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大隈重信の演説を記録したレコードがあるそうだが、歴史館で聴けるか。
レコードのパッケージ・ディスクおよびそのmp3データ、付属資料の画像は早稲田大学図書館古典籍総合データベースにて公開されています。
また国会図書館 歴史的音源「れきおん」で「大隈重信」と検索すると、大隈の演説「憲政ニ於ケル輿論ノ勢力」が複数アップされています。
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髙田早苗の講演を記録したレコードがあるそうだが、歴史館で聴けるか。
国会図書館 歴史的音源「れきおん」で「髙田早苗」と検索すると、髙田の講演「皇室中心主義に就て」(一)(二)がアップされています。
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東京専門学校に留学した最初期の人物は誰か。
『早稲田大学百五十年史』第一巻・第一部・第五章・「三 留学生」(336頁以降)、その典拠のひとつとなった檜皮瑞樹「1884年の東京専門学校朝鮮人留学生に関する研究ノート」(『早稲田大学史記要』第46巻、2015年2月刊行)、および檜皮瑞樹「早稲田大学最初の留学生」(「WASEDA Online」への寄稿、2015年4月公開)をご参照ください。
ここでは「早稲田大学最初の留学生」を再掲し、適宜「[2015年4月時点]」等と付記しました。
なお歴史館では、調査代行・解読・鑑定、検索のサポート等を行なっておりません。歴史館提供のサービスについては、利用案内をご参照ください。
今から131年前[2015年4月時点]の1884年(明治17)10月、東京専門学校(早稲田大学の前身)は最初の留学生を受け入れる。朝鮮人留学生である申載永(1864-1931)と嚴柱興(1858-1908)の二名である。1882年(明治15)の開校から僅か2年後のことであった。さらに翌1885年(明治18)には金漢琦(生没年不明)が入学している。彼らはどのような経緯をたどって東京専門学校に入学し、そして帰国後はどのようなキャリアを歩んだのだろうか。
当時の留学生をめぐる歴史的背景について触れておく。近代以降、日本の教育機関への本格的な留学生派遣は、1883年(明治16)5月と7月に来日した60名余りの朝鮮人学生に始まる。この留学生派遣事業は福澤諭吉と金玉均の尽力により実現したものであり、東京専門学校へ入学した3人の学生もこの時日本へ留学した。慶応義塾の関係者・牛場卓三や松尾三代太郎に率いられた朝鮮人学生たちは、はじめ慶応義塾に下宿し基礎的な教育を受けたのち、より専門的な教育機関へと入学した。詳細は不明だが、一部の学生は陸軍戸山学校で軍事教育を受けている。この学生のなかには、のちに朝鮮独立運動で活躍する徐載弼の名前もある。
そもそもこの事業を推進したのは、当時朝鮮王朝内で朝鮮社会の近代化を目論んだ金玉均や朴泳孝などの、いわゆる開化派青年貴族たちであった。陸軍戸山学校で学んだ学生を中心とした約20名の留学生は1884年7月朝鮮へ帰国したが、その後1884年12月に開化派による軍事クーデター・甲申政変が勃発すると、留学生の多くがこれに参加した。甲申政変は開化派の敗北におわり、留学生の多くはクーデター中に殺害、あるいはクーデター後に処刑され、生き残った徐載弼や鄭蘭教などは金玉均とともに日本へ亡命した。
開化派の失脚後、日本への留学生派遣事業は中止され、朝鮮政府は日本への留学生に帰国を命じた。命令を受けた留学生の多くは帰国後に処罰されることを危惧し、政府からの命令に背いて、その後も日本での留学を継続した。
さて、東京専門学校への最初の留学生たちの事情をみてみよう。申載永と嚴柱興は、日本への留学当初に慶応義塾や税関などで学んだのち東京専門学校へと進んだ。1884年10月、申載永は政治経済学科に、嚴柱興は法律学科に入学した。しかし甲申政変によって彼らの日本留学も中止され、1885年1月に二人は東京専門学校を退学する。申載永と嚴柱興が東京専門学校で学んだのは僅か四ヶ月であった。その後、嚴柱興はみずから帰国を申出で、甲申政変後の外交交渉のため日本に派遣された徐相雨使節とともに同年3月帰国した。申載永の帰国時期に関する記録は残されていないが、おそらくは徐相雨使節と同時期に帰国したと考えられる。
これに対して金漢琦は帰国命令を拒否して日本での留学を継続した。1883年9月に慶応義塾に予科の正規学生として入学した金漢琦は、1885年7月まで在籍したのち、1885年10月に東京専門学校英学科に入学した。しかし入学から五か月後の1886年2月頃、金漢琦は東京専門学校を退学し、同年5月に帰国した。
帰国後、彼らはどのようなキャリアを歩んだのであろうか。申載永と嚴柱興は外交実務を担当する統理交渉通商事務衙門に就職したが、のちに数年間流刑される。両者ともに甲午改革期に復職していることを鑑みれば、開化派との関係によって処分された、と考えてよいだろう。
1890年代半ば以降、申載永は法部検事局長や公訴院判事など、司法官僚としてキャリアを形成した。1910年(明治43)の「韓国」併合以後も司法官僚としてのキャリアを継続し、判事として義兵運動に対する取り締まりや義兵関連裁判に深く関わるなど、地方官吏として生涯を終えた。嚴柱興も復帰後は税務視察官などをつとめたが、1908年に50歳で逝去した。
一方、金漢琦の帰国後における活動は全く不明であるものの、開化派との関係から処刑されたことが多くの研究で指摘されている。
今から100年以上前の東京専門学校への朝鮮人留学生たちの生涯は、当時の東アジア情勢に大きく左右されるものであった。いうまでもなく、現在の留学生をめぐる環境とはまったく事情が異なっているものの、大きな政治的奔流に巻き込まれてゆく留学生たちの姿と現在の留学生の苦悩を重ね合わせることも不可能ではない。
また、創立直後の東京専門学校が既に留学生を受け入れていたという事実、また1900年には学苑による留学生派遣事業が開始されたことは、アジアに開かれた早稲田大学の歴史を考えるうえで多くの示唆を与えてくれる。
神奈川県立公文書館非常勤嘱託、早稲田大学大学史資料センター助手を経て現職。博士(文学)。専門は日本近世・近代史、北方史。著書に『仁政イデオロギーとアイヌ統治』(2014年)。
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(2024/09/17 「和服帯刀姿の大隈(写真絵はがき)」を追記、2024/11/12「近代日本人の肖像」を追記)
歴史館は、若い頃の大隈重信の写真を利用提供しているか。
歴史館は、若い頃の大隈重信の写真の提供を行っていません。ただし早稲田大学図書館は、若い頃の大隈重信の写真を含む資料を所蔵しています:
これら図書館所蔵資料の利用方法については、[資料の掲載等を希望されている方]をご確認ください。
また国立国会図書館の電子展示会「近代日本人の肖像」にも、和服帯刀姿の大隈が掲載されています。ページ末尾の「ご利用について」から、コンテンツ転載の手順について記載があります。あわせてご参照ください。
なお歴史館では、調査代行・解読・鑑定、検索のサポート等を行なっておりません。歴史館提供のサービスについては、利用案内をご参照ください。
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氏名から、卒業の事実や学部・専攻等を調査できるか。そのための資料はあるか。
歴史館は卒業生名簿等の提供を行っていません。ただし公共図書館にて、古い時代の『校友会会員名簿』が利用可能な場合があります。
ご参考までに、国立国会図書館所蔵の資料のうち、Webでログインなしに閲覧可能なもの(2024年5月現在)をご紹介します:
また『早稲田学報』の記事中に、卒業生の動向が掲載されることもあるようです。「早稲田学報記事データベース」をご参照ください。
それぞれの資料が全卒業生・全会員を網羅しているかどうかについては、歴史館としては判断できません。
なお歴史館では、調査代行・解読・鑑定、検索のサポート等を行なっておりません。歴史館提供のサービスについては、利用案内をご参照ください。
(2024/05/28)「早稻田大學校友會『會員名簿』(1928年[昭和3])」「早稻田大學校友會『會員名簿索引 : いろは別』(1928年[昭和3])」の2資料を追加しました。
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親族の遺品に、東京専門学校や早稲田大学などに関するアルバム・写真・卒業証書・記念品などがある。歴史館に寄贈することはできるか。
貴重な遺品について寄贈のご打診をいただき、ありがとうございます。
すぐにでもお受け入れしたいところですが、寄贈にあたっては所定の手続きを踏む必要があります。「利用案内」>「資料の寄贈」をご参照ください。
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学徒出陣者の名簿は公開しているか。戦没者の名簿は公開しているか。
学徒出陣者名簿の作成・公開はありませんが、歴史館では「戦争犠牲者データベース」を作成・公開しています。このデータベースは、1937年以降、戦争によって死没した教職員・校友・在学生についての記録をデータベース化したものです。『早稲田大学百年史』第四巻および『早稲田大学史記要』第34・36・39巻に名簿が掲載されている4,735名について、氏名・本籍・早稲田学歴・死没年月日・死没理由等についての情報を掲載しています。
卒業生の在籍記録をお調べになりたい場合は、物故者在籍確認の手続きをご検討ください。物故者在籍確認は本学での在籍学部、および入学・卒業年月日を回答しています(学徒出陣の記録および戦没の記録は回答しません)。
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歴史館所蔵資料あるいは早稲田大学に関係すると思われる資料(文献・写真・博物)について、歴史館に質問をすることができるか。所蔵の有無・展示予定、未整理・未公開資料の整理終了の目処や公開予定日、「こういったもの」があるのかどうか、あるいは手持ちのものが本物か、などについて聞きたい。
歴史館は、利用案内に記載されたサービスを提供し、また調査のための文献を提供しています。『早稲田大学百五十年史』をご参照ください。
また『早稲田大学百年史』は、Webにて公開しています。「データベース」のページをご参照ください。
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どのような文献があるか。歴史館に行けば、文献を利用できるのか。
歴史館および前身機関の発行物は、「刊行物」のページをご参照ください。
『早稲田大学百年史』は、Webにて公開しています。「データベース」のページをご参照ください。
また最近の出来事をまとめた「略年表」を、Webにて公開しています。
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