歴史
下北山の歴史
(池神社の鳥居と明神池)
▼北山郷は、昔から紀伊国牟婁郡に属し、その北部の山里であることから、北山と呼びならされていました。
(大峯山脈の山並み)
▼南北朝時代、後醍醐天皇の皇子、護良親王は、北条の難をさけて南都般若寺より十津川に入り土豪戸野兵衛良忠とともに北山村に入られました。
その時供奉の人良忠 始め、村上義光、平賀三郎、竹原八郎等と寺垣内恵日院(のちに正法寺と改名)に入られた。親王がここに在すこと、月余を経て、吉野山に入られました。
(正法寺本堂)
▼永禄年間、織田信長、北山人士の忠勇義烈なることを知り天生元年、江州の浅井、朝倉を討つや召されて役に尽き大功を挙げました。信長大いに喜び上洛の節は、先駆を命じたといいます。
▼秀吉の世になって信長在世の如く忠節を励むとの命を下され、柳の御殿は北山材一式を用いられました。
(杉の古木)
▼慶長19年10月、前鬼の五鬼継、河合の山宝等は、秀頼と家康との争乱による北山への輸送途絶に憤り郷中及び熊野の民を扇動していわゆる北山一揆を企て和歌山城を乗っ取らんとして先ず新宮城を狙いました。
しかし城主浅野右近は家臣に命じてこれを討たせ、一揆の集いは大敗 しました。
この乱の折は、北山は全くの亡所(無人境)となったのであるが、徳川方の詮議の結果、一揆の余類の無いことが認められて徳川方に属しました。
(前鬼の行者堂)
▼元和元年池原に蔵屋がおかれ、郷中の租税収納を掌る石高1,414石3斗1升7合とせられました。
重税に耐えず訴願して木材の上納を認められました。
▼元禄元年蔵屋を廃し陣屋を立て毎年期日を定めて木材の収納吏員を立ち会わせました。
蔵屋は倉谷本家の祖先、陣屋は旧池原公民館跡です。
▼元和元年より寛文2年までの49年間は下市代官小野家の支配、寛文3年から寛政6年までの57年間は藤堂和泉守、以後明治までの73年間は五条代官の支配でありました。
(「持経の宿」から池原への下山路から仰ぐ「釈迦ヶ岳」)
▼文久3年8月天誅組が五条に兵を挙げ、同年9月19日十津川を経て笠捨山を越え昼夜兼行して翌20日夕方に正法寺に着泊しました。
≪下北山村史より抜粋≫ 一行30余名は、十津川からの人足160人ばかりとともに、翌20日夕方、ようやく浦向にたどり着き、寺垣内の正法寺にはいった。「西尾家年代記」には「御大将中山中将様外上下80人、正法寺にて御泊り、此外浦向兵助・善五郎両家にて宿致す。上下人足共240人ばかり」とある。不安におののきながら、村は大騒ぎだったに違いない。
▼北山郷は、古くから上組、下組に分かれていたが、明治22年の市町村制の実施とともに、上組は上北山村、下組は下北山村となりました。
歴史民俗資料館
下北山村の歴史を探訪できる施設が歴史民俗資料館です。
この施設は大正14年に西村伊作氏が当時、無医村であったこの地に医師の誘致を考え病院として自ら設計し建築した「旧桑原病院」を移築したも のです。
先人達が使用していた農機具や、明治時代の初期にこの村で大変な荒行をした実利行者(じつかがぎょうじゃ)の遺品等をご覧になることが出来ます。
下北山村の歴史が凝縮された資料館に足を伸ばしてみては如何でしょうか。
☆現在展示品等リニューアル中です。見づらい部分もありますがご了承ください。
住所 | 奈良県吉野郡下北山村上桑原391 |
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開館時間 |
毎週木曜日午後1時~午後4時まで |
入館料 | 無料 |
休館日 | 年末年始(12/26~1/7) |
お問い合わせ | 下北山村教育委員会 TEL:07468-6-0901 |