百年前、宇和島自動車は、この地で誕生しました。以来百年。
にぎわう街を、美しい海岸沿いを、緑の山道を、一日も休まず走り続けてきました。
車の大変めずらしい大正期にはじまり、厳しい競争にさらされ、戦争もなんとか耐え抜きました。
そして紆余曲折を経ながらも、成長、発展をとげ、今日に至ります。
今では、四国と本州は三本の長大な橋で結ばれ、高速道路も全国に張り巡らされ、
交通は大変便利な時代になっています。
街の景色は時とともにうつり変わり、人の姿も変わっても、
私たちは地域の皆様の通院や通学、買い物など、人々の生活を支え続けてきました。
百年前、進取の精神で起業した先輩方の想いは、宇和島自動車の今に続いています。
これからも私たちは、安心、安全な運行を心がけ、南予のみなさまの日常とともに歩み続けてまいります。
- 1918年11月28日
- 宇和島自動車株式会社創立
- 1919年2月15日
- 宇和島~吉田間試運転の際、
知永峠にて転落事故起きる
- 1920年1月16日
- 宇和島~御荘線運行開始
- 1923年3月18日
- 宇和島市内循環バス運行開始
- 1923年6月25日
- 宇和島~松山線運行開始
- 1928年10月4日
- 第二宇和島自動車株式会社設立
- 1929年1月10日
- 第二宇和島自動車が宇和島自動車を吸収合併
- 1936年6月13日
- 黄バス5両で御荘、岩松、大洲の3線運行開始
- 1937年1月10日
- 本格的な宇和島市内バス運行開始
- 1937年6月21日
- 宇和島自動車と社名変更
- 1938年10月25日
- 三共自動車から大洲以南~高知県宿毛町にいたる
バス・ハイヤー・トラック等の事業買収
- 1940年6月21日
- 宇和島貨物自動車を買収
- 1943年4月1日
- 南予におけるバス事業統合母体となり、
八幡浜市営バス、三瓶自動車を買収
- 1943年7月10日
- 同上、四国自動車を買収
- 1944年6月1日
- 鶴島自動車整備株式会社設立
- 1945年7月12日
- 本社・堀端車庫、空襲により罹災
- 1946年4月24日
- 宇和島自動車労働組合結成
- 1946年8月20日
- 本社を追手通に移転
- 1948年7月20日
- 国鉄小口扱貨物連絡運輸開始
- 1949年3月1日
- 宇和島~城辺間急行バス運行開始
- 1949年5月20日
- 松山営業所(松山市新玉町)を開設し、
宇和島~松山間直通トラック運行開始
- 1950年7月16日
- 南予運送株式会社(トラック)を買収
- 1951年1月10日
- 高松営業所(高松市紺屋町)を開設し、
宇和島~高松間のトラック運行開始
- 1951年2月3日
- 貸切バス事業開始
- 1951年2月
- この年以降、1954年まで長期に亘るスト多発
- 1951年4月1日
- 通運事業開始
- 1951年10月10日
- 東洋車輛株式会社設立
- 1953年1月5日
- 宇和島オートパーツ株式会社設立
- 1953年
- 路線大観図作成
- 1954年11月23日
- 第二組合の従業員同志会結成し、労組分裂
- 1957年11月1日
- 宇和島自動車専門学校開校
- 1958年7月31日
- 萬栄倉庫株式会社を買収、
宇和島倉庫株式会社設立
- 1958年9月22日
- 宇和島観光株式会社を設立
- 1959年2月10日
- 盛運汽船バスのバス事業を買収
- 1960年7月28日
- 鹿野川湖遊覧船「さざなみ」就航
- 1961年11月15日
- 宇和島自動車専門学校、
愛媛県公安委員会指定教習所となる
- 1962年2月24日
- 路線トラック、本土(大阪・京都)への運行開始
- 1966年9月19日
- 蔦屋旅館買収
- 1967年3月7日
- 宇和島食堂株式会社設立
- 1967年4月12日
- 錦町本社ビル完成、本社業務移転
- 1967年5月10日
- 錦町本社ビル落成式
- 1967年9月16日
- 丸之内バスセンター落成式
- 1968年3月31日
- 蔦屋新築完成し営業開始
- 1968年7月31日
- 鹿野川湖遊覧船「さざなみ」営業廃止
- 1973年9月15日
- 通運事業廃止
- 1974年11月15日
- ハイヤー部門を分離、
宇和島ハイヤー株式会社設立
- 1976年12月23日
- 宇和島倉庫に一般区域貨物自動車運送事業
(愛媛県・高知県)譲渡
- 1978年1月1日
- 宇和島自動車学校と校名変更
- 1978年4月10日
- トラック部門を分離、
宇和島自動車運送株式会社設立
- 1978年10月19日
- 宇和島自動車労組の組織統一
- 1982年11月2日
- マイコンショップ「デンケン」開店
- 1983年6月29日
- 株式会社デンケン設立
- 1983年7月
- 企画ツアー開始
- 1985年6月1日
- 蔦屋、休業
- 1989年10月20日
- 高速バス宇和島~大阪線運行開始
- 1991年12月31日
- 宇和島食堂株式会社の事業を休止
- 1994年11月6日
- 高速バス宇和島~岡山線運行開始
- 1994年11月17日
- 高速バス城辺~大阪線運行開始
- 1995年8月1日
- 高速バス宇和島~岡山線運行休止
- 1997年10月1日
- JR路線バスの南予線バス全線引受
- 2009年7月17日
- 高速バス宇和島~東京線運行開始
- 2012年3月11日
- 宇和島~松山空港線の運行開始
- 2015年1月5日
- 高速バス宇和島~東京線、運行休止
- 2016年4月4日
- 九島大橋開通により九島線運行開始
- 2017年11月1日
- 宇和島~松山空港線運行休止
- 2017年11月5日
- 宇和島自動車学校開校60周年記念行事を行う
- 2017年11月10日
- 一般貸切自動車運送事業新制度による認可を受ける
- 2018年3月1日
- 宿毛営業所廃止、
貸切バス営業区域は愛媛県一円のみとなる
- 2018年11月28日
- 創業100周年
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大正13年8月に宇和島〜吉田線運行を開始した宇和島自動車の「吉田停留所」は、旅館であった。停留所と営業所を兼ねたもので車庫であると同時に売札業務も行っていた。
大正8年に試運転開業した際に吉田の「今治屋」という店を吉田往復の折り返し地点として利用していたため、その縁もあってか今治屋が停留所となったという。今治屋の主人は家業が旅館だっただけに乗り物に対する関心が深かったとか。 -
明治時代に誕生した馬車は人や物資を運ぶための輸送手段として広く使われていた。だが、鉄道や自動車の普及に伴い、馬車営業は年々衰退していった。
愛媛県下でも昭和10年頃になると、馬車営業者は10数名となり、旧南宇和郡御荘町〜深浦間を往復する6台の馬車を残すばかりになった。往復運行以外は、お客があれば出るといったありさま。馬車は戦後、その役割を終えることとなった。 -
昭和10年頃、衰退の一途をたどっていた馬車は、第二次大戦下に思わぬ復活を遂げる。ガソリンの統制によってトラック使用が厳しい制限を受け、その反動で馬車の運送利用が活況になったのだ。
ところが、馬車全盛に呼応するように運送賃金も高騰。少しでも余計に稼ごうとするあまり、法定積載量を無視して牛や馬を酷使する不届きものが現れるようになったという。現代でも法定積載を無視したトラックが厳しく処罰されるのと同様、当時の宇和島署も黙って見てはいない。目に余る悪徳馬車業者の一斉取り締まりを行ったという。
それでなくても、戦争の足音がひたひたと近づいていた時代。特に馬は軍用保護馬が少なくなく、飼料も以前のように米穀を与えることが許されず、体力は低下していたという。過積載だけでなく、動物愛護の精神もお忘れなく。 -
昭和15年2月7日夜のこと。猪の狩猟法違反があったという情報により、御荘署が捜査を進めたところ、なんと、その違反者は宇和島自動車城辺停留所の運転手A氏であったことが判明した。
警察官が事情を聞いてみると、「(旧)内海村須ノ川街道を車で走っているとき、猪一家に遭遇したんです。そのとき、ヘッドライトの灯りにびっくりしたんでしょうね。急に猪が断崖めがけて突進してきて、ばったり倒れちゃったんです」。そこで、これ幸いと車に積んで持って帰ってしまったとのこと。
狩猟に関する法律や鳥獣保護管理法などが厳しく制定されていて、害獣であっても時期や地域によって禁止される場合があり、またそもそも許可を得ていない人の狩猟は禁止されている。“棚ぼた”だなんて思って、勝手にひっくり返った猪でももって帰っちゃダメ絶対。
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昭和15年12月のこと。宇和島自動車のS運転手が、お客を満載したバスを走らせていると、前方に大手を広げた大虎(酔っぱらい)が立ちふさがり、ヘッドライトにしがみつく。Sさんが「退かんと殴るぞ!」と怒鳴ると、「やってみろ!これでも喰らえ!」と窓ガラスを叩き割ったから、さあ大変。乗客の1人が割れたガラスでケガをし、居合わせた兵隊たちが男を取り押さえるという大捕物になった。
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昭和3年ころ、宇和島運輸と八幡浜町の青木廻漕店が宇和島~別府航路を競争し、別府までの運賃が30銭にまで値下げとなった。継いで宇和島運輸傘下(昭和8年)に入った盛運社が昭和13年、天長丸を新造して別府航路に乗り出し、青木運輸(前述の青木廻漕店改称)の繁久丸と猛烈な運賃値下げ競争になった。ついに、宇和島~別府間はわずか5銭にまで値下げし、タオルをサービスするなど、両社共ヘトヘトになっていた。
結局、昭和16年海運統制により盛運社(昭和18年、盛運汽船と改称)は八幡浜~宿毛間、青木運輸は八幡浜~別府間運航で区分けをすることになった。その後、天長丸は戦中戦後にかけて南予の沿岸航路に活躍した。天長丸も寄る年並には勝てず、すっかり老朽化し、昭和41年4月その任務を終えて静かに消えた。 -
終戦直後から昭和20年代半ばにかけて「輪(りん)タク」と呼ばれた自転車タクシーが往来を行き交っていた。人力車と同じく、自転車後部に幌付きの座席を設けたものやサイドカーのように側面に座席があるものなどさまざまで、燃料不足から人々にもてはやされた輪タクだったが、その運転手「輪マン」の収入は実に厳しいものだった。当時、公務員の大卒初任給は1ヶ月約5,500円程度。輪マンは不眠不休で働いても1日150円ほどにしかならなかった。
宇和島市内では、駅や恵美須橋周辺、船着き場などに輪タクが列をなし、乗車料金は恵美須橋から築地までおよそ50円だったが、料金を聞いてから乗る人が多く、1日2人お客がつかまればいい方だったという。輪タクの改良や料金サービスなどに努めても、新たに登場したバスやハイヤーに敵うものではなく、さらに、嘆かわしいことに、料金を払わずに逃げたり、運転手を脅したりと、乗客のタダ乗りも後を絶たなかった。 -
昭和30年代、宇和島では「かつぎ屋」なる商売が盛んだった。
かつぎ屋とは第2次大戦後の食糧難の時代、米などは統制物資であったものの、それをかいくぐって農家から買い付け、かついで売り歩いた人のこと。少ない人で1人1斗(約15kg)、多い人で1俵(約60kg)の米を担いでいたというから驚きだ。
かつぎ屋同士で独自の自治会も結成していた。農家への買い付けには鉄道を利用していたことから、農繁期には当時の国鉄にとってもありがたいお客だった。そこで、国鉄自ら全国的にかつぎ屋の自治会結成を呼びかけ、発足。宇和島では250名の会員がいたという(昭和34年当時)。自治会では組合費のほかに、毎月500円の旅行積み立てをして年1回観光旅行までしていたというから、戦後20年近く経ってもなお商売の隆盛がうかがえる。
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昭和31年2月28日。その日、強風が吹き荒れる中、旧北宇和郡吉田町白浦の海岸を走っていた宇和島自動車のバス運転士Sさんは、バスよりも大きい高波が道路を洗っているのを目撃。直ちに、危険と判断したSさんは停車し、約40人の乗客に降車を求め、安全な別ルートで宇和島へ向かった。乗客たちは「細心すぎる!」と非難轟々(ごうごう)だったが、同じ日に、長浜の伊予灘沿いを走っていた別会社のバスが海に転落した事故を知ると、一転、運転士を賞賛する声に変わった。
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かつて宇和島市内の老舗木屋旅館の前に柳の大木があったことをご存知だろうか。
明治10年頃、堀端の料理屋街には牡丹桜と柳の並木道があり、柳の下は人力車のよい停車場でもあった。その後、徐々に数を減らし、昭和になると件の柳1本を残すのみとなっていた。バス通行の邪魔になると苦情が寄せられながらも、まちの風情として残されていた最後の柳だったが、ある日突然ばったりと倒れてしまった。昭和32年のことだった。 -
昭和33年12月、宇和島東高校刊行物委員の生徒たち4名が宇和島自動車の取材でやって来た。早速、本社で社長に対面。「村重社長はロマンス・グレーで一寸(ちょっと)藤山外相に似た柔らかな物腰の人」とその人物像を描いている。
おとなしく社長から会社の概要を聞いているかと思うと、「以前から、宇和島自動車では、誰でも入るとすぐ車掌をやらされるという話を聞いているが本当か」などと切り込むなど、率直なところが高校生らしい。もちろん、その理由は「現場の知識を得ないと仕事ができない」から。いろいろな話を聞いて社長室を出た生徒たち。「初めに予想したほど堅苦しくはなかったが、すんだと思うと解放されたようなゆったりした気持ちになる」と正直すぎる感想を書いているのが微笑ましい。
他にもさまざまな現場を取材。生徒たちの記事は翌年1月1日の南豫時事新聞に掲載された。 -
昭和33年12月4日、宇和島自動車では、宇和島市から旧南宇和郡一本松町まで新車バス10台による一大パレードを開催した。
この10台のうち、三菱ふそう自動車のエアサスペンションバス3台は、当時の国内最高水準の新車だった。全国でもまだ200台と走っていない優秀車で、四国では高知県交通と瀬戸内バスに各1台ずつあるだけの人気車種を無理して購入したもの。ほかはいすゞ自動車のリヤーエンジン3台とキャブオーバー式2台。
午前10時過ぎに和霊神社を出発。城辺、一本松を経て深浦に着。そこから城辺に帰って午後6時50分に本社に帰着するというスケジュールだった。
この新型バス、運転手に「振動の勘で30km/hは出ているかと思ってみると、メーターは40を指している。他車に比べて振動が少なく、疲れが全然ない」と言わしめるほど。当時としてはかなり優れた車だったことがうかがえる。
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昭和35年、旧東宇和郡宇和町の農家Kさんが、同町伊賀上法華津峠で鮮魚24kgの入ったトロ箱を拾って大喜び。早速、持ち帰って、近所の人たちにも分けて美味しく頂いたという。しかし、山中になぜ魚が…?
実はこれ、宇和島自動車のトラックが宇和島市から松山市三津へ運送中に法華津峠で誤って落としたものだったから、さあ大変。トロ箱1個、時価2,500円の魚をめぐって警察が動く事態となり、Kさんは遺失物横領の疑いで任意の取り調べを受けるはめに。
みなさんも路上で落とし物を見かけたら、必ず警察に届けよう。 -
内海突破(1915-1968)は旧南宇和郡内海村出身のコメディアン。1940年頃から、当時一世を風靡した「エンタツ・アチャコ」に並ぶほどの人気者だった。
昭和35年に帰郷した際には、鹿野川ダムから旧野村町までを遊覧船で遊び、故郷を満喫。その感想と5年前の帰郷の思い出をこう語っている。
「やっぱりふるさとはすばらしい。好物の皮ちくわ、トウモロコシも早速食べられましたしね。この前帰ったときは時の宇和島市長中村さんや宇和島自動車の村重社長に招かれて寒ホータレをごちそうになったが、あのうまさはいまだに忘れられない。」
大都会でスポットライトを浴びる人気芸人でも、忘れ得ぬ故郷の味があった。 -
昭和38年、ガソリンエンジンのバスが引退した。社内報創刊号で車体からの“お別れの手紙”として掲載された茶目っ気ある記事をご紹介。
「皆さんさようなら、長い間大変お世話様になりました。昭和二十八年九月三十日五台の同僚とともに初めて宇和島に来てから、早くも十年の月日が流れ去りました。まぶしく輝く銀色に赤帯も鮮やかなさっそうたる私の姿は道行く市民の皆様を思わず振返らせ、又私を運転される運転士は得意満面たるものでした。以来四十余万キロメートル、十年間の風雪に堪えて宇和島市内を今日迄走り続けて参りましたがいつしか同僚も一台また一台と現役を退き、使い易いガソリン車として一番最後迄残った私も、寄る年並みに色も褪せ型も古びて参りましたので今日かぎり皆さんとお別れする事になりました。私のあとはスタミナのあるいすずデーゼル君とのこと、心残りなく後を托する事が出来ます。どうか皆さん私同様可愛がって下さい」 -
昭和38年11月1日に、八幡浜〜旧三瓶町和泉地区を定期バス第1便が運行した。八幡浜を午前7時に出発したバスが新しい停留所の標識にさしかかると、「バスがきたぞ!」と子どもたちの歓声がどっと上がった。
和泉地区は山々に囲まれた56戸ほどの小さな集落。ここに暮らす小学生たちは約3kmの山道を歩いて通学しなければならないため、これまでは朝5時に起きていたが、バスのおかげでこの日は「7時まで寝ていた」と大喜び。32人の小学生を乗せた定期バスの第1便は満員にふくれあがり、山間の道を三瓶町へと入っていった。
同地区の人たちが定期バス運行の陳情を始めて4年で、その願いは叶えられ、まさに「文明の光がさしかけてきた」と当時の新聞がその喜びを伝えている。
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宇和島駅前通りで悠然と葉をそよがせるヤシの並木は宇和島の南国情緒を醸し出している。このヤシが植えられたのは昭和40年のこと。JR宇和島駅前から栄町ロータリーまで、約300mの区間で車道を広げるため、緑地帯が改修されたのを機に徳島から33本のワシントンヤシを取り寄せた。
「旅する人に南国の雰囲気を味わってもらい、宇和島の印象が残るように」と言う思いが今の風景を生み出した。
この風景は読売新聞社主催の「新日本街路樹百景」に選ばれている。 -
かつて「知永峠」といえば、宇和の法華津峠や津島の松尾峠と並んで南予の悪路の一つ。危険な急カーブが5ヶ所あり、バスが転落するなど大事故を引き起こす難所だった。
宇和島側には極端に狭い路面がいくつもあって、雨が降るたびに路肩が崩れ、運転手泣かせの場所でもあった。
そこで、総工事費2億5千万円をかけて、昭和41年から国道56号、知永峠の本格的な改良工事が進められた。4mの路幅は倍以上の8.5mに広げられ、宇和島市街から吉田間は約500m短縮。4ヶ所の急カーブもなくなり、峠特有のつづら折り道路は、その姿を消すこととなった。 -
昭和48年頃。宇和島自動車の6代社長である村重嘉三郎氏と、その息子であり専務取締役の村重享氏は、会社の通勤にあえて車を利用せず、片道2kmほどの道のりをいつも徒歩で通勤していた。上等なスーツを身に付け、颯爽と歩く銀髪の嘉三郎氏とロマンスグレーの享氏。爽やかな印象を与える父と子の風景は、さながら「小津安二郎の名作の1シーンをみるようだ」と、当時の新聞コラムが賛辞を寄せるほどだった。
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平成29年11月30日に残念ながら廃線となった宇和島自動車の船越〜武者泊線。その停留所の壁面に11月下旬、手描きのメッセージボードが掲げられた。
作者は停留所のそばで渡船民宿を営む50代の女性。かつて、3人の子供たちが通学で毎日利用していた。「運転手さんにちょっと待ってもらって」と出発時間に遅れそうな住民から電話がかかったり、車内で両替できないからと乗客が5千円札を崩しに来たり、「路線バスは生活の一部」だったという。お世話になったバスに感謝を伝えようと作ったボードには「遠い所まで 長い間 毎日 ありがとう」のメッセージ。運転手も「今まで走った思い出がよみがえってくる」と温かい言葉に思わず顔をほころばせた。
バス業務に携わるものにとって実に心温まるエピソード。ちなみに、現在では町営のあいなんバスが運行を続けている。
宇和島自動車は大正7年(1918)11月の創業以来、バス事業を基幹事業として、運輸業、観光業、自動車関連事業などを傘下に収め、「南予」と称される愛媛県南西部の地域社会に密着しながら、ともに歩んでまいりました。
そして平成30年(2018)、100周年を迎えました。この100年間は、日本全体を見ても、私たち宇和島自動車にとっても、幾度も時代の荒波にさらされ続けた、まさに激動の時代だったと言えるでしょう。
バス事業の乱立と再編、戦争による統制と戦後の混乱、高度経済成長と労働争議、バブル崩壊後の経済的停滞等、社会の大きな変化と幾多の危機を乗り越え、企業を継続してこられたのは、先見の明を持ち、決断力に富んだ、諸先輩方の多大な努力の賜だと実感しています。
日々の積み重ねが歴史という物語を紡いでいくように、私たち一人ひとりの日々の仕事がこれまでと次の100年に繋がっています。社員には、そのことを肝に銘じ、業務において見直すべきところがあれば改善し、企業として新たな方向性を見出していけるような意見を積極的に出し合い、自主性をもって宇和島自動車を共に発展させられるように努めてほしいと願う所存です。
そして何より、長きに亘って会社が存続してこられたのは、ひとえに地域のお客さまにご愛顧いただいた結果にほかなりません。お客さまの声には真摯に耳を傾け、頂戴したご意見を事業内容の改善に繋げられるよう全社一丸となって取り組んでまいります。
一方で、100周年は一つの大きな節目ではありますが、連綿と続いていく歴史の一つの通過点に過ぎません。昨今の技術革新や少子化など、社会は益々速度を上げて変化しています。バスの役割自体も地域社会のなかで変わりつつあります。現状に甘んじるのではなく、時代の変化に合わせてできるところから変えていくことを社員一同心掛けていきたいと考えています。
2019年には新しい年号も始まり、今後の日本の社会が大きく生まれ変わる予感を感じます。これからも南予地域の発展に貢献できるよう、みなさまとともに歩み続けていきたいと思います。