この記事では前半で「セックスワーカー差別集会への抗議行動2022」デモに参加した感想が語られています。
新法反対デモでは、登壇者が順にマイクを回して淡々とスピーチを行なっていました。それに対してカウンター側はセックスワーカー当事者のスピーチも交えつつ、シュプレヒコールを繰り返し集会に抗議していました。時にはカウンター側の抗議に呼応して新法反対デモの登壇者が語気を強めて話すなど、互いのスピーチがヒートアップすることもありました。
一方はスピーチリレー、他方ではシュプレヒコール、そして集会が始まった後も相変わらず続く右翼の街宣、さらには反ワクチン派のデモとカオスな状況でした
これ自体とても貴重なレポートなのですが、本当に大事なのは「新たなフェミニズム・ポルノグラフィ論の在り方」について語っている部分です。
大変長い文章なのでまず要点をピックアップします。これで興味を持ったら実際の宮本さんの記事もぜひ読んでみてください。この記事は宮本さんの記事を読んでもらいたいというためだけに書いているので、宮本さんの記事がホッテントリしたら消去します。
石川さんを絶望させたAV新法に反対するデモ参加者たちの行動
今回のデモは直前で石川優実さんが参加を取りやめたことが話題になっていましたが、実際のレポを見るとなるほどと思わされます。
①社会運動に「慣れすぎている」人たちによる、運動ありきの活動
新法反対デモはちょっと淡々としすぎているかなという印象もありました。
新法反対デモでは学者や弁護士、政治家の人たちが次々と登壇し、時間通りにスピーチを終わらして司会にマイクを渡す。それを機械的に繰り返す、という感じでした。
そのような方式をとるのは、要するに参加者の側には何も期待していない、ということですよね。自分たちの言いたいことを一方的に述べて参加者を啓蒙する、というスタイル。
参加者に何も期待しないということはつまり、扇動と動員が目的にあるということです。
②過去にもセックスワーカー救済のデモ活動に参加していた宮本さんからも「今回の集会は異常だった」と指摘されるほど、アリバイ作りのためだけの運動になっていた
最初の声明文では法案内容についての説明が一切ありませんでした。見事に扇動と動員以外の目的がないのです。
こういうことは左派の運動では最もやってはいけないことだと思います。情動で人を扇動し動員するという手法は本来右翼がやることです。それなのに、ましてや「左派」を自認する人たちが何も躊躇わずその手法に頼るというのは、いったいどういうつもりなんだろう
新法反対デモの主催者はこの日にデモを行ったというアリバイがほしかったのではないでしょうか。動員が目的だから、参加者の様子の撮影や集会に参加した人数にこだわる。時間通りスピーチを回していればそれで十分だし、シュプレヒコールで参加者を活気づける必要もない。一貫している
③カウンター側の行為を単に「挑発」と切って捨てる態度は、「安倍晋三」と変わらないとまで言い切られてしまう
カウンター側の抗議を「挑発」と呼んで片付けることはあんまりではないでしょうか。あなたたちとは対話する気がない、という明確な意志表示に他なりません。
カウンター側の抗議を「挑発」として退け、対話への道を閉ざす仁藤さんの姿勢は、政権批判をする人たちを「こんな人たち」と呼んだ安倍元首相の態度と何が違うのでしょうか。
④フェミニズムを主張しながら実際は極めて保守的・家父長的な態度に堕してしまっていた
運動のために当事者の存在を押し出し、その人の言うことを絶対視する、という姿勢は、当事者を無垢な存在として規定し、活動家の価値観に合わない当事者の存在を排除する、という点で極めて家父長的な態度だと思います
"性売買"に対する保守的な姿勢と家父長的な態度をとる運動が結びつくのは必然ですが、新法反対デモに限らず、多くの左翼運動がその結びつきに不注意であることに危機感を覚えてなりません。
⑤そもそも旧来のポルノ批判のやり方から全くアップデートできていない。デモ参加者の態度は10年前に批判された地点でとどまっている
第一に、表現には多様な読みが可能であるという点があり、何が不快感を与える表現で、何が差別なのかを決める当事者を批判運動が「正しい」存在に祭り上げてしまうという問題です。第二に、批判という運動のスタイルが、「差別されている」ことによる「生きにくさ」だけを強調することに終わるという問題があります。フェミニズムにとって、抑圧や被害体験の言語化は最初の一歩として重要です。しかしながら、それだけではフェミニズムの言説が女性の生きにくさを強調し、受動的な女性像を再生産することにつながってしまう
マッキノンやドゥォーキンのように、ポルノグラフィが性差別の核心に位置付くとする議論は、自らがセクシュアリティに関する近代の偏見にからめとられているのではないか。ポルノグラフィにすべての責任を帰すことはできない。「〜は悪いものである」と決めつけてしまうのは、単なる思考停止にすぎない
そして本題の「新たなフェミニズム・ポルノグラフィ論」への提言部分
「セクシュアリティについての議論をするとき、「無垢でもなんでもない私」から出発する意義を忘れてはならない。セクシュアリティの議論にこのことはとどまらない。どんな女性であっても、性差別に対して無垢でもなんでもないし、そこから議論は始められるべきであることを何度でも確認しておきたい」
アップデートされたフェミニズムは、女性はいい加減「無垢で純粋な被害者」という立場から脱却しなければならないという立場。日本のネトフェミはアップデートできてない時代遅れということです。
私がツイフェミやネトフェミを嫌いつつも、フェミニズム自体を応援したいと思うのは、フェミニズムという考え方自体は社会に必要だと思っているからです。「papa told me」や「コルセットに翼」といったマンガでフェミニズムと出会って以来、私がフェミニズムそのものはずっと信じています。
これに対して今のインターネット、特にツイッター界隈におけるフェミニズムの議論は旧時代の社会や個人の経験に基づいた偏見に固執している「老害」たちによって「不法占拠(スクワット)」されている状態であり、名前空間やミームが汚染されていて非常に望ましくないと感じています。
最近のツイフェミさんが起こす騒動に対して「ジェンダークレーマー」という言い方を使う風潮がありますが、本質的には「スクワッター」とのトラブルだと思っています。
今回の活動家の皆さんは、いうならばゆっくり茶番劇商標問題でお騒がせの柚葉さんだったり、プリコネにおいてペコリーヌの地位を奪って君臨してた覇導皇帝さんみたいなもんです。「本来のその位置にあるべきもの」を追い出して「我こそが〇〇だ」と名乗っていると考えると良いのではないでしょうか。
なので、理想を言えば、スクワッターのみなさんをスルーして、こうした建設的なフェミニズムへの提言を積極的に拾い上げていけるような状態を目指していきたい。
差別自体はなくなりません、必要なのは「不当な」女性差別の構造や差別行為をなくすことであり、性被害者を減らすことです。ミソジニストやミサンドリストの自己満足に付き合うことではありません。