息抜き記事。
「元が論理的じゃないから議論できないというのは逃げ。メチャクチャだと言うのならその点を具体的に指摘すればいいだけのこと」
みたいな発言を今日見かけました。
いや、無理でしょ。
というかこの発言をしている人はそもそも勘違いしています。
「メチャクチャだと言うのならその点を具体的に指摘すればいい」と言っていますが、それは議論ではありません。
これはただの「論調批判」であり、「論破」にすら至っていません。仮に論破だとしても、論破して終わりでは議論とは言わない。
両方とも「論」が付いているから、「相手を論破すること」と「議論」を混同しがちな人いますが、違います。
まず「セッションの成立(最低限の合意の成立)」が必要
DH0~DH3は、いわば、発言者と反論者の間のセッションが張られる前に通信が終わっているんだな、ということ。
DH4の段階に達して漸くセッションが張られ、意見のやり取りが始まる。
DH5の段階で、相手の論をお互いがどのように理解しているかについての合意ないし了解が初めて達成される。
そして、DH6では、思考というアプリケーションレベルのやり取りがなされることにより、核心を突いた議論が遂に可能となる。
セッションが成立していなければ議論とはいいません。セッションが成立した上で、はじめて議論のセットアップができる。
さらにこの先の定義を考えるとDH5のレベルまでは必要でしょう。 つまり
1:論拠を持って主張をする
2:相手が論拠を持って主張しているものは、自分の意見と違っていてもいったん受け止める。
3:1と2を「両者ともが」できる
この3点を満たさない限り、両者が議論をしている、ことにはならない。
なので、この時点で論理的でない人とはセッションを成立させることができませんのでエラーになります。
特に討論の場合は、審判が必須
https://iwatam-server.sakura.ne.jp/software/giron/ar01s02.html
討論では勝ち負けを決める審判がいないといけません。
更に言うと、議論には大きく分けて、討論、議決、対話の三種類がありますが
ネットで言う議論、特に「議論にならない」なんて愚痴が出る場合、まず間違いなく「討論」です。
お互いが対話をしているつもりなのにうまくいかないということはあんまり無い。
そして議論にならない討論とは、「どちらか、あるいは両方が自分が審判になってる」ケースです。
これらの条件が整っていないと討論は単なる言い争いに終わります。ほとんどのネット討論では審判がいませんが、これではルールのないサッカーのようなものです。ハンドだろうがファウルだろうが殴り合いだろうが何でもありのデスマッチになってしまいます
議論(討論)をできない人間であればあるほど、この第三者による審判を徹底的に拒否する
もうこれは、殆どの場合そうです。ほぼ例外はありません。
そういう人たちは自分が審判だと思っている可能性が高いです。自分が言ったことを自分で評価して自分を勝者にする。パソナの会長みたいなことをする権限が自分にあると思っているし、それを絶対に手放したがらない。
例えば、こちらがどれだけ根拠を述べても「自分が気に入らないものは論拠として認めない」というルールが発動するのか「あいつは論拠を持って話をしてない」といって突っぱね続けるような人がいました。それでも、彼の中では彼が審判なので、彼がすべて正しいわけです。
私は、論理的でないことを言う(それでいて、自分の方が正しいと思っている)人には、とりあえず「あなたがそう思うのは勝手ですが、それなら第三者の意見を求めてみましょう」といいます。ちゃんとした人や、普段から第三者の存在を意識して喋っている人、つまり「自分の意見だけが正解」という思い違いをしていない人は、あまりこれを嫌がりません。最初からそういう前提で話をしているからです。こういう人は、第三者の意見が自分と違ったら割と素直に受け付けることができます。*1
でも、自分が審判だと思っている人は「なんで第三者の意見を聞く必要があるのか」と突っぱね続けます。 自分の意見が本当に正しいと思っているなら、誰がその意見を聞いても正しいと評価されるはずなので問題ないはずなのですが、第三者の意見が自分と違うということはなんとなくわかるんですね。それでも自分のほうが正しいと確信しているから嫌がるのかもしれません。
議論ってのは、お互いが「ルール」を理解・合意してそれを守らない限りできない=結局相手を認めてない限りはまず無理
特に討論は格ゲーみたいなもので、なんでもアリのように見えて細かいルールがたくさんあります。
ちゃんとやろうとしたらすごい窮屈です。そして、大抵の人はそういう窮屈さをあえて受け入れるつもりはありません。大抵の人にとって、討論をする目的は、自分の正しさを押し付けたいということであって、自分がただしいかを確かめるつもりではないからです。
実際にそういうルールを強制されて議論をするという経験をしたことがある人以外は、その窮屈さを知らない。
あるいは、相手が自分にとって大切で、信頼できる人であれば、完全ではないけれど、ある程度の窮屈は自発的に受け入れるでしょう。
結局のところ、議論はよほど訓練を積んできた人か、親しい人以外とはなかなかやるのは難しいです。
私もなんだかんだいって窮屈なの好きじゃない
なので、Web上では好き勝手書きます。
そのかわり批判は受け付ける。そんな感じです。
でもそれは断じて議論じゃないです。
議論したいなら、第三者の存在または相手についてある程度の信頼は必要です。
相手もブログをやってて、
「その人の書いた記事ならたとえ自分と意見が違うものを書いてる記事を10記事くらい立て続けに読んでも苦痛じゃない」
と思うような人でないと議論は難しいかも、しれない。
おまけ
フィンランドの小学生が作った「議論のルール」というのがあります。
— Takao. (@Takao_Nukiyama) 2014年6月20日
日本の公的な議会の場があまりにも幼稚なので、 こういうのを拡大して議会の場に貼っておけばいいと思う。
誇張でも皮肉でもなく、私たちはこの小学生達に学ぶ必要がある。 pic.twitter.com/4ImR0fVn6N