上杉家は鎌倉時代に興った一族で、室町時代から戦国時代にかけて「関東管領」(かんとうかんれい:京都の室町幕府が関東の監視役に置いた役職)を世襲するなど、幕府の要職に就き栄華を誇りました。また、戦国時代には「越後の龍」として有名な「上杉謙信」が当主となり、勢力拡大を図る関東の「武田家」や「北条家」と幾度も戦を繰り広げます。今回は、上杉家の歴史や上杉家の中でも著名な当主達、上杉家ゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)などについてご紹介します。
上杉家の祖は、鎌倉時代の武将「上杉重房」(うえすぎしげふさ)。
上杉重房は、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)を祖とする藤原家の出身で、1252年(建長4年)に丹波国何鹿郡上杉荘(たんばのくにいかるがぐんうえすぎのしょう:現在の京都府綾部市上杉町)を領地としたことによって「上杉」を名乗ります。
室町時代には、「上野国」(こうずけのくに:現在の群馬県)を領地とした「山内上杉家」(やまのうちうえすぎけ)の初代当主「上杉憲顕」(うえすぎのりあき)が、関東を総管する「関東管領」(かんとうかんれい:京都の室町幕府が関東の監視役に置いた役職)に任命。それ以降、山内上杉家は関東管領を世襲するなど家格を上げ、上杉家の宗家として栄えます。
1552年(天文21年)に、12代当主「上杉憲政」(うえすぎのりまさ)が、「北条氏康」(ほうじょううじやす)との戦に敗れ領地を失い、「長尾景虎」(ながおかげとら)が治める越後国(えちごのくに:現在の新潟県本州部分)へ逃れることに。長尾景虎は逃げ延びてきた上杉憲政の養子となったのち、関東管領の座や上杉家の家督を譲られ上杉家13代目当主となり、上杉家は越後国の領主となります。
このとき、長尾景虎は上杉憲政の「政」の字を与えられ、「上杉政虎」(うえすぎまさとら)と改名。その後将軍・足利義輝より「輝」の字を与えられ、「上杉輝虎」(うえすぎてるとら)とし、最終的には「上杉謙信」(うえすぎけんしん)と名を改めました。
上杉謙信は関東管領として関東の平穏に尽力しました。上杉謙信の死後は、家督争いに勝利した上杉謙信の養子「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が当主に就任。上杉景勝は「豊臣秀吉」のもとで「朝鮮出兵」などに参加し豊臣秀吉の信頼を得ると、「豊臣五大老」に取り立てられます。しかし、豊臣秀吉から「陸奥国会津」(現在の福島県会津若松市・南会津郡)への加増転封(恩賞としての領地移動)を命じられ、今度は越後国から会津地方へ。
また、豊臣秀吉の死後も「石田三成」をはじめとする豊臣方に味方し「徳川家康」に対し挑発的な態度を取り、それに腹を立てた徳川家康は、上杉家討伐のため「会津征伐」へと乗り出します。会津へ向かった徳川家康を見て石田三成が挙兵、関ヶ原の戦いへと突入。しかし石田三成率いる西軍は敗北し、上杉景勝も徳川家康に降伏します。
敗軍の将として改易(領地を没収されること)もありえましたが、戦後に徳川家康のもとに赴き臣下の礼を取ることで、会津から出羽国米沢(でわのくによねざわ:現在の山形県置賜地方)への転封処分で許されました。その後、米沢藩の藩主となった上杉家は、明治維新まで同地を治め続けます。
古くは関東地方を統べる役職に就いていながらも、時代の流れとともに北陸地方や東北地方に拠点を移していった上杉家。しかし、上杉謙信をはじめ、歴史に名を刻む名君が功績を残し、移った先でも地元から尊敬の念を集める一族でもありました。
上杉謙信が上杉家当主となった時代、関東では、相模国(現在の神奈川県西部)の北条氏康や、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」が、領地の拡大を図っていました。
北条氏康は関東各地に勢力を広げながら力を付け、関東管領でもあった上杉憲政を上野国から敗走させるなど関東諸国にとって最大の脅威に。そのため北条氏康に対抗できる勢力を持つ上杉謙信は度々、北条氏康から侵攻を受ける諸国から救援・出陣要請を受けます。そのたびに上杉謙信は、越後から関東へ進軍し関東諸国による連合軍とともに北条軍と対峙。1561年(永禄4年)には、北条家の居城・小田原城(神奈川県小田原市)を包囲しますが、小田原城の守りは堅く落城させるには至りませんでした。
また、上杉謙信の仇敵としても知られる武田信玄とは、12年に亘り5度の戦を交える「川中島の戦い」でぶつかり合いますが勝敗を分けるに至らず、上杉謙信と武田信玄の勝負は決着が付かずに終わりました。
現在は、国指定の重要文化財として米沢市上杉博物館(山形県米沢市)に収蔵されています。
現在は個人が所有していますが、度々、米沢市上杉博物館で展示されることがあります。
刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)では、「写し」を所蔵しています。
現在は国宝として、埼玉県立歴史と民俗の博物館(埼玉県さいたま市)に収蔵されています。
国宗の作風は、鎌倉中期の立ち姿ですが、豪快さが見られない代わりに、反りの深い品格のある姿です。常に備前伝を守り、丁子(チョウジの実を並べたような形状)乱れを焼き、丁子映りも現れていますが、後世の相州伝の基本となる焼き入れ法で飛焼風(刃文の焼き頭が地に飛んだようになって現れた物)の所も現れ、小沸(刀身の熱処理の際にできる鉄の粒子)も付きます。
現在は重要美術品として、刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて所蔵しています。
大和伝に私淑した作品で、よく詰んだ地鉄に明るく冴えた直刃を焼き、食違風の刃や打除、二重刃風の刃が交じるなど見所が多い刀です。
現在は特別保存刀剣として、刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)で所蔵しています。
現在は、刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)で所蔵しています。
色々縅腹巻は、上杉謙信が所用していた甲冑(鎧兜)です。室町時代の名品で、戦勝を司る神「飯綱権現」(いづなごんげん)をかたどった前立(兜前部の飾り)の兜が、信心深い上杉謙信らしさを象徴しています。
現在は国指定の文化財として、上杉神社(山形県米沢市)に収蔵されています。
金小札浅葱糸縅二枚胴具足は、上杉景勝の家臣「直江兼続」が所用していた甲冑(鎧兜)です。兼続は、徳川家康から謀反の嫌疑をかけられた際に徳川家康に送った手紙が、会津征伐の引き金になったとされる「直江状」でも知られています。
鎧に付随した瑞雲(ずいうん:仏教で吉兆とされる、紫や虹色の雲)の上に「愛」の文字をあしらった兜は、TVドラマで一躍有名になりました。現在は、上杉神社に収蔵されています。
童具足は元服の際に使用された具足で、現存する物は極端に少なく、来歴等の情報が残っている甲冑(鎧兜)は稀です。
大黒頭巾形は、徳川家康が最も大切にしていた伊予札黒糸縅胴丸具足(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく)の兜を模写して制作されたと考えられています。
海賊は椎名の浪人が行なっているようで、そのような悪逆非道な行為を行なう海賊は少なからずいる。
復讐に向かう境、市振、玉の木、宮崎近隣は警戒し、そこに住む者へ、槍と旗を用意するように申し付け、その近隣の村々の者がひとつ集まり、海賊の舟の着くときを狙えば、海賊はちりじりに逃げるから、地下人も武装すること、良く村人に指示しておきなさい。
庄田隼人佑は、上杉軍のために鉄砲を十五挺用意しなさい。
直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守は春日山城の二ノ郭、三ノ郭に堅牢な、堀を造るように、兵に申し付けなさい。
境・宮崎において竹を伐採することを禁じます。
山吉孫次郎豊守・直江大和守にもこのことを申し付けあります。謹言
なお、河田対馬守にも手紙を送ってあるのでもう直ぐ届くでしょう。 以上
五月十四日 謙信(花押)
川隅三郎左衛門殿
庄田隼人佑殿
どちらの旗印も、現在は米沢市上杉博物館に収蔵されています。