「新刀」(しんとう)とは、1596年(慶長元年)から、江戸時代中期の1781年(安永10年)までに制作された日本刀を指し、その中でも、大坂(現在の大阪府)を拠点とした刀工の作品を「大坂新刀」と呼んでいます。大坂新刀は、江戸を拠点とした刀工の作品「江戸新刀」と並び称される、新刀の代表格です。ここでは、主な刀工と作品の特徴についてご紹介します。
「豊臣秀吉」が「大坂城」を築城して以来、城下町の整備も進められ、大坂は商業の中心地として発展しました。
商業活動の盛んな大坂には優れた刀工達が集まり、全国の大名や武士、帯刀を許された町人などから殺到する注文に対応したと言われています。
その中から、「大坂新刀の三傑」と称される「津田助広」(つだすけひろ)や「井上真改」(いのうえしんかい)、「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)をはじめ、「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)、「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)など、新刀の名手が輩出されました。
この他、大坂の刀工界発展に寄与した一派として、「石堂派」(いしどうは)のひとつ、「大坂石堂派」が挙げられます。
「津田助広」には、「ソボロ助広」と呼ばれる初代と、養子の2代「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)がおり、どちらも後世に名を残す名工です。
初代・助広は、播磨国(現在の兵庫県南西部)の出身。大坂へ出て、初代「河内守国助」の門人となります。通称「ソボロ」の由来には諸説あり、真相は不明で、一説には服装に無頓着でいつもボロを纏っていたために付いた名だとも言われます。1804年(文化元年)頃には、助広を差料(さしりょう:自身が腰に差すための日本刀のこと)にすると貧乏になるという迷信さえありました。
そんな不名誉な迷信とは裏腹に、作品の切れ味は世に名高く、初代・助広は、新刀上々作にして最上大業物(さいじょうおおわざもの)の評価を受けた数少ない名工のひとりです。
2代・助広について、特筆すべきは多作であったこと。生涯に1,700振あまりの刀を打ったとの説もあるほどです。大坂新刀を代表する刀工であり、江戸新刀の「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)と共に、「新刀の横綱」とも言われています。また、同じ大坂の井上真改と並んで最高の評価を得ており、真改との合作刀も残しました。
2代・助広は、「濤瀾乱れ」(とうらんみだれ)と呼ばれる刃文を創始したことでも知られています。これは、大海原の波が寄せては返す様子にも似た、華やかな刃文です。
井上真改は、俗に「大坂正宗」とも呼ばれ、津田越前守助広と大坂新刀の双璧をなす刀工です。
名工であった「井上国貞」(いのうえくにさだ:和泉守国貞のこと)の次男として、日向国(現在の宮崎県)木花村木崎で生まれた真改。9歳で父に師事して作刀を学び始め、早くから刀工としての力量を示すと、20歳の頃には父の代作(代わりに作品を作ること)を行なったと言われています。
作品の特徴としてまず挙げられるのは、大坂新刀屈指の美しさと評される精緻な地鉄(じがね)。地沸(じにえ)厚く付き、刃文は直刃(すぐは)、あるいは大湾れ互の目(おおのたれぐのめ)を焼きます。また、高温の焼入れにより匂口冴え、刃中にも良く沸(にえ)が表れて華やかです。
銘は、父と同じ「国貞」と切った時期もあり、父親の作品は「親国貞」、真改の作品は「真改国貞」と呼ばれています。
鎌倉時代に活躍した京の刀工「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)の末裔。父「忠綱」と同じ「近江守」を受領し、父子共に作品には「粟田口近江守忠綱」と刻銘しました。
作風は、大坂新刀らしい精緻に詰んで冴えた地鉄に、規則的な互の目を交えた焼き幅の広い刃文が特徴。壮年になると、濤瀾乱れに足長丁子(あしながちょうじ)を織り交ぜて焼きました。刀姿は優しく、鋒/切先が伸びています。
忠綱はまた、「彫りのない一竿子は買うな」と言われるほどの彫物の名手でもありました。伝統的な「剣巻龍」(けんまきりゅう)はもとより、「梅倶利伽羅」(うめくりから)や「鯉の滝登り」など、華やかな元禄文化の趣きを感じさせる精密な彫物のある作品を残しています。刀身に彫物を入れる場合は、茎(なかご)に「彫同作」、または「彫物同作」と銘を添えました。
井上真改の父である初代「国貞」は堀川国広の門人でしたが、国広亡きあとは、その高弟「越後守国儔」(えちごのかみくにとも)に学びます。独立後、大坂に移住。河内守国助と共に、大坂新刀の基礎を築きました。1623年(元和9年)に「和泉守」を受領。
作風は幅広く、多彩な乱刃を焼き、鍛えは優れて巧みであったと伝えられています。
国貞の晩年は健康であったとは言えず、10代の頃から才覚を示した息子の真改に作刀を任せることが多くなりました。
また、赤穂浪士の「堀部安兵衛」(ほりべやすべえ)が討ち入りの際に使用した日本刀が国貞の作品でした。刃長2尺5寸(95cm)の愛刀を振るって奮戦したとのことです。
石堂派とは、備前国(現在の岡山県)で「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)を興した「一文字助宗」(いちもんじすけむね)の子孫、「助長」(すけなが)を祖とする刀工一派です。
明応年間(1492~1501年)頃、近江国(現在の滋賀県)の蒲生家(がもうけ)に招かれた助長は、蒲生郡桜川村「石塔寺」(いしどうじ)の門前に移住。姓を石塔としますが、のちに石堂の字を使うようになります。
新刀時代を迎えると、石堂派は全国各地に分布。大坂に拠点を定めた一派が大坂石堂派です。
大坂石堂派の第一人者とされる「多々良長幸」(たたらながゆき)は、紀州(現在の和歌山県)石堂の「河内守康永」(かわちのかみやすなが)の門人でしたが、1681年(天和元年)に大坂へ移り住み、大坂石堂派を創始します。
作風としては、「備前一文字派」の作品を彷彿とさせる大丁子乱れを得意とする一方、互の目や互の目丁子を焼いた「末備前」(すえびぜん:室町時代末期の備前物)風の作品を残しました。