愛媛県にある「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)には、「大鎧」(おおよろい)と「胴丸」(どうまる)の折衷型のような鎧が所蔵されています。それが国宝「赤糸威胴丸鎧」(あかいとおどしどうまるよろい)。「胴丸鎧」(どうまるよろい)の存在については、「平治物語絵巻」などの合戦絵巻のなかで描かれていることで知られていますが、現存しているのは大山祇神社所蔵の赤糸威胴丸鎧1領のみ。ここでは、幻の鎧とでも言うべき胴丸鎧についてご紹介します。
「や~や~、我こそは・・・」。戦場において騎馬武者が名乗り合い、馬に乗ってすれ違いざまに弓を放ち合う様式化された1対1の戦い。平安時代から鎌倉時代にかけての戦い方の主流は、こうした「騎射戦」(きしゃせん)でした。そのため甲冑(鎧兜)に求められていたのは、弓矢での攻撃に対する防御力だったのです。
騎射戦では、左手に弓を持って右手で弦を引いて相手を狙うことになります。この場合、相手を自分の右側に置くと弦を引きにくいため、相手を左側に置くことが原則。そこで、隙ができる左側を守るために装備されていたのが「鳩尾板」(きゅうびのいた)と呼ばれる小さな楯状の防具でした。
また、右胸部分に装備された「栴檀板」(せんだんのいた)は、左胸に装備された一枚板状の鳩尾板とは異なり、伸縮性のある素材で制作。大鎧の着用者が右手で弦を引くことから、栴檀板に右手が引っかかって邪魔にならないように配慮がされていたのです。
大鎧を着用した騎馬武者の胴の下に装着している「草摺」(くさずり)は、前後左右の4間に分かれ、騎馬武者が鞍に跨がったときに大腿部を箱のようにガッチリと囲った形になります。そのため、防御力にはすぐれていましたが、足の動きは大きく制約されていました。
もっとも、騎馬武者は馬に乗って移動していたため、歩く動作をほとんど行なうことはありません。そのため、優先されたのは動きやすさよりも防御力。以上のことから大鎧は、騎射戦向けに作られた甲冑(鎧兜)であると言えるのです。
そののち、鎌倉時代末期頃になると戦闘規模が拡大し、戦いの主流は1対1で行なう騎射戦から「徒立戦」(かちだちせん)に移行。それに伴い馬上で弓を射ていた騎馬武者も馬から降りての戦いに備える必要が出てきました。もっとも上述したように、大鎧は機動性に優れているとは言えません。さらに兜、刀剣などを加えた総重量は約40kg。
自在に身動きを取るには厳しい重量で、機動性に乏しいこともあいまって地上で戦うには厳しいと言わざるを得ません。この課題を解決するためのヒントとなったのが、一般兵士が着用していた胴丸です。
大鎧は頑丈な大きな箱のなかに、体を入れるようにして着用する甲冑(鎧兜)。そのため、敵の攻撃を撥ね付けるような重厚さはありましたが、胴と体の間に隙間ができており重さとあいまって機動性に難点があったのは上述した通りです。
他方、平安時代から鎌倉時代にかけて騎馬武者以外の一般兵が着用していた胴丸は、機動性と軽量化の工夫が施されていました。
胴丸の草摺は原則として8間。これは、騎馬武者とは異なり徒歩移動だった一般兵が、歩きやすくするために工夫された結果でした。
また、胴丸は胴を丸く包むような形で着用し、右脇で引き合わせる形式となっているのが一般的。右脇から体を入れて「引合緒」(ひきあわせのお)で結び付けます。機動性を重視し大鎧に比べて軽量化が図られていた胴丸ですが、時代を経るにつれて末広がりの形から裾を絞った形に変化。
これは肩だけでなく、腰でも胴丸の重さを支えられるようにした物で、動き易さをさらに追求した結果が形となって現れたのです。
愛媛県にある大山祇神社には、「日本式甲冑」の常識を覆すような1領が所蔵されています。この甲冑(鎧兜)は両肩部分には「大袖」、左胸部分に鳩尾板、右胸部分には栴檀板を装備し、胴の全面は「弦走韋」(つるばしりがわ)の加工がされており、これらは大鎧の特徴。しかし草摺については7間に分かれており、胴丸の特徴を有しているとも言えるのです。
現存する胴丸鎧はこの1領のみですが、これを大山祇神社に奉納したと伝えられているのが「源義経」(みなもとのよしつね)。
日本屈指の知名度を誇るこの武将は、天才的な戦術家でもありました。「源平合戦」において当時の常識を覆すような数々の奇想天外な戦術で、源氏の勝利に大きく貢献。一連の戦いにおける源義経の行動を振り返ってみると、ひとつの特徴が見て取れます。それは勝利を手にするために、どうすることが効率的だと言えるかということ。
そんな源義経であれば、大鎧の持つ堅牢さと胴丸の持つ機動性を合わせ持つ形式の胴丸鎧を制作させていたとしても不思議ではありません。
源義経は、「一ノ谷の戦い」において、ある奇策を用いて平家に勝利を手中にしました。それが「義経の逆落とし」です。
この戦いにおいて源氏の平家攻略は難航し、戦況は膠着状態にありました。そこで源義経が着目したのは、平家が着陣している一ノ谷の背後から攻撃を加えること。
もっとも、平家陣営の裏手は断崖絶壁で、そこから馬に乗って駆け下り、攻撃を加えることは不可能に近い状況だと思われていました。そのため、平家陣営は背後に注意を払うことはなかったと言われています。
奇襲攻撃を実行することが可能か否かを判断するため、源義経が取った行動は馬を断崖絶壁へと突き落とすことでした。その結果、突き落とされた2頭のうち、1頭は足をくじいて転倒してしまいましたが、もう1頭は断崖絶壁を駆け下りて行ったと言われています。これを見た源義経は即座に突撃を決断。「皆の者、駆け下りよ!」と言うや否や先頭を切って馬に乗って駆け下り平家陣営に突入しました。
予想だにしていなかった方向からの襲撃を受けた平家陣営は大混乱。我先にと海に停泊させていた船へと逃れるなど総崩れの様相を呈し、停滞していた戦局は一気に源氏へと傾いたのです。
「屋島の戦い」において脇に挟んでいた弓を海上に落としてしまった源義経は、流された弓を拾い上げようとします。
その際、平家方の兵士に熊手をかけられて危うく海に落ちそうに。源義経はそれを太刀で振り払い、左手に持った鞭で弓を引き寄せことなきを得ましたが、家臣からの命の危険を冒してまで弓を拾おうとしたのはどうしてか、と言う問いに対して「源氏の大将がこのような弱い弓を使っていることを知られては恥となる。そのため命を顧みず拾いに行ったのだ」と答えました。
当時の戦いでは組織的な戦術よりも武将個人の力量が重視されており、それには力の強さも含まれます。そのため、平家に源氏の大将が弦の張りが弱い弓を使用していることを知られるのはご法度。なぜならば、大将(の力)が弱いことを敵に知られることは、精神的に敵を利することになりかねないからです。勝利を手にするために何をすべきなのかを考える、源義経らしい行動でした。
平家滅亡の戦いとなった「壇ノ浦の戦い」においても、源義経は常識にとらわれない行動に出ました。それが「八艘飛び」(はっそうとび)です。
「平教経」(たいらののりつね)に一騎打ちを挑まれた源義経は、ヒラリヒラリと舟を乗り移って彼方へと逃げ去ってしまったと言われています。相手に1対1の勝負を挑まれたら受けて立つのが武士の常識。しかし、その時点で勝利を確実にしていた源氏の大将にとっては無用の戦いだったため、源義経がこれにとらわれることはありませんでした。
壇ノ浦の戦いのクライマックスのひとつとも言える八艘飛びですが、源義経が総重量約40kgに上る大鎧を身に着けて舟を次々と乗り移っていくことは不可能だと言えます。なぜならば上述したように、源義経は自ら認めているほどに非力だったからです。
そんな源義経が八艘飛びを可能にする方法は、軽く動きやすい甲冑(鎧兜)を身にまとうこと。そうだとすれば、このときに源義経が身にまとっていた甲冑(鎧兜)が大鎧を軽量化し、機動性を高めた胴丸鎧だったという推測も荒唐無稽なものであると言い切ることはできません。
「平治物語絵巻」(へいじものがたりえまき)や「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)などの合戦絵巻物においても、胴丸鎧が描かれています。
例えば、平家物語絵巻に収録されている弓を持つ2人の兵の前を歩く歩兵。彼らが身にまとっている鎧には大袖や鳩尾板、栴檀板のような物が附属しているように見えることから、大鎧の特徴を有していると言え、草摺は歩兵が歩きやすいように分かれているようにも見えます。
1領だけとはいえ胴丸鎧が現存している以上、これらの歩兵の姿は作者の想像ではなく、実際に戦場において着用されていた胴丸鎧を収録しているとも考えられるのです。
大鎧と胴丸の「良いとこ取り」のような胴丸鎧ですが、戦い方が密集での徒立戦に特化されるにしたがって、中途半端な感じが否めなくなりました。なぜならば胴丸鎧は、あくまでも胴丸の特長を取り入れた大鎧であり、軽量化を図り機能性を向上させた胴丸にはかなわなかったからです。
そのため、室町時代に入る頃には身分の高い武将も胴丸に大袖などの装備をして戦で着用するように。戦においても様式美を重視し、どことなく優美な雰囲気が漂っていた時代は終わり、戦乱の世の中が幕を開けたことの表れとも言えます。