「来国俊」は、鎌倉時代中期頃、山城国(やましろのくに:現在の京都府中南部)に興った刀工集団・来一派の3代目頭領にあたる刀工です。同派は、事実上の祖と伝えられる「国行」(くにゆき)を初代として2代目となる「二字国俊」(にじくにとし)、来国俊と続き、のちの南北朝時代においても子や弟子達が作刀技術を継承し、多くの名刀を残しています。
本太刀とこれに付属する「衛府太刀拵」(えふだちこしらえ)は、丹後国宮津藩(たんごのくに・みやづはん:現在の京都府宮津市)藩主「本庄松平家」(ほんじょうまつだいらけ)に伝来しました。
「衛府太刀」とは、平安時代「近衛府」(このえふ)と呼ばれる宮中の警護にあたった官人が佩用(はいよう)した太刀のこと。江戸時代になると、公家の最も格式の高い礼服であった「束帯」(そくたい)を、宮中の儀式などに出席するときに武家も着用するようになり、その際、儀仗(ぎじょう:儀礼などに用いられた武具)用の刀剣を佩用しなければならず、衛府太刀拵はその1様式でした。
こちらの拵に添えられた「九目結紋」(ここのつめゆいもん)は、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)の生母「桂昌院」(けいしょういん)の実家であった本庄松平家の物。また同紋は、桂昌院が寄進した「室生寺」(むろうじ:奈良県宇陀市)や「護国寺」(ごこくじ:東京都文京区)の寺紋にも用いられています。