「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)は、それまで本の挿絵でしかなかった浮世絵版画をひとつの作品と捉え直し、「浮世絵」と言うジャンルを確立した人物です。この功績から「浮世絵の祖」と呼ばれることとなった菱川師宣は、どんな時代に生き、どのような生涯を送ったのでしょうか。菱川師宣の作品やエピソードとともに解説します。
「菱川師宣」と言う絵師の名は、「葛飾北斎」や「歌川広重」、「東洲斎写楽」、「喜多川歌麿」といった誰もが知る浮世絵師と比べると、知名度が高いとは言えません。
しかし菱川師宣は、「浮世絵の歴史を語るうえで絶対に欠かせない」と言うほど重要な絵師のひとり。歴史上の人物の重要さを知るためには、「仮にこの人が存在しなかったら、どれだけ歴史が変わってしまうか」を考えてみるのは良い方法です。
例えば葛飾北斎や東洲斎写楽、喜多川歌麿らの著名な浮世絵師が存在しなかったとすれば、「浮世絵の歴史」の流れが大きく変わってしまうだろうことは想像に難くありません。
しかし、菱川師宣の場合、その影響は「流れが変わる」程度にとどまらず、彼なしには浮世絵が存在せず、浮世絵の歴史自体がなくなってしまいかねないのです。
菱川師宣以前には浮世絵と呼ばれる物が存在しませんでした。菱川師宣の手によって生み出された物が、浮世絵の源流となったのです。浮世絵と言えば版画のイメージがありますが、元々は古典や物語の挿絵として版画の技術が利用されていました。
しかし、それでは書物に親しみを持った人だけが版画に接するにとどまります。菱川師宣の功績は第一に、古典や物語などの挿絵を増やし、サイズを大きくして、広く庶民が求める魅力的な物に改革したことです。
こうして版画の魅力が高まって価値が上がると、挿絵で使われていた版画を1枚の絵画として販売。大量生産が可能な版画は価格が安く、庶民の手に届く金額でした。
そのため、それまで富裕層にしかできなかった「絵を所有する喜び」を多くの人が味わえるようになったのです。庶民が絵を求めれば、絵の題材も変わります。
これまで古い絵の模倣ばかりしていた「御用絵師」達とは違って、目の前にある今現在が新しいモチーフとなって描かれるようになりました。
菱川師宣は、あらゆる階層の人々が生きる姿を克明に描き続け、のちに浮世絵の定番となる多くの題材を定着させたのです。
菱川師宣による様々な革新的工夫とアイデアによって、今日まで続く浮世絵の原型が作られました。後世の絵師達が浮世絵と言う巨大な芸術ジャンルで才能を発揮できたのも、菱川師宣と言うパイオニアがその世界の基礎を築き、市場そのものを作りあげたからなのです。
菱川師宣(本名:吉兵衛)は、房州保田(現在の千葉県鋸南市保田)に、父「菱川吉左衛門」と母「おたま」の間に第四子で、長男として誕生。両親としては、跡継ぎとなる男児の誕生に喜んだことが想像できます。と言うのも、父・菱川吉左衛門は染織関係の技術者である「縫箔師」(ぬいはくし)でした。
縫箔師とは、小袖などの衣類を装飾のために刺繍や摺箔(すりはく:金箔・銀箔を布地に貼り付ける技術)をほどこす職人。刺繍の図案の下絵も描くため、美術的素養が必要な職業です。また、布地を染める「紺屋」(こうや)もかねていました。
菱川家はもともと京都で縫箔師をしていましたが、江戸時代のごく初期に父・菱川吉右衛門は関東に移住。房州に腰をおろして縫箔師を始めます。菱川師宣が生まれた年については、「1618年(元和4年)」と「1630~1631年頃(寛永7~8年)」と言う複数の説があります。
しかし、実は父・菱川吉左衛門の生年月日が1597年(慶長2年)とはっきりしているため、菱川師宣が生まれたときに父親が何歳だったのか考えると、後者である可能性が高いことが分かります。
前者の「1618年(元和4年)」説を取ると、1597年(慶長2年)生まれの父・菱川吉左衛門が、20歳のときに第四子である菱川師宣が生まれたことになります。
しかし、江戸時代の平均初婚年齢は20歳前後であるため、この説はかなり不自然。このため、ここでは「1630年頃[寛永7年]」生まれとする説を採用することとします。
菱川師宣の前半生についての記録は少なく、詳しいことはあまり分かっていません。
しかし、彼が1680年(延宝8年)に書いた「大和武者絵」(むしゃ絵づくし)と言う絵手本(えてほん:絵の手本を集めた画集)の序文に、「闇計」(えんけい)と言う人物が菱川師宣の生い立ちについての短い文章を寄せています。
ここに房州の海辺 菱川氏という絵師
船のたよりをもとめて
むさし(武蔵)の御城下に ちっきょ(蟄居)して
自然と絵をす(好)きて青柿のへたより心をよせ
和国(やまと)絵の風俗三家の手跡を筆の海にうつして
これに基づいて自(みずから)工夫して
あとこの道一流を じゅく(熟)して うき世絵師の名をとれり
短い文章ですが、「浮世絵の祖」菱川師宣の幼少期から青年時代を断片的に知ることができます。「自然と絵をす[好]きて」とあるように、房州保田の海辺に生まれた吉兵衛少年(のちの菱川師宣)は、幼少期から絵を好みました。海と山に囲まれた房州保田の大自然を、その身で観察しては絵を描いていた姿が想像できます。
房州が仏教文化の息づく静かな土地だったことも、そうした生活を後押しする要素に。同じ関東でも、当時の江戸は工事現場だらけで騒がしいものでした。
一方、長く里見氏に統治され、太古より「黒潮の道」によって上方とつながりが深い房州は、そうした喧騒から隔たっていたのです。京都出身の父・菱川吉左衛門が関東の仕事場としてこの土地を選んだのも頷けます。
菱川師宣は若い頃から、跡継ぎの長男として家業である縫箔師の仕事を手伝いました。図案のデザインに触れながら、そのなかで絵画的なセンスと技術を高めていったのです。
やがて菱川師宣は、房州から海路を使い江戸に向かいます。その時期にも諸説あって確定していませんが、有力なのは、菱川師宣が16歳の頃だと言う説。また、若い頃に京都で絵を学んだと言う説もありますが、これも定かではありません。
いずれにせよ、菱川師宣は最初「絵師」になろうとは思っていませんでした。むしろ縫箔師の技術に磨きをかけるための修行として、江戸に出たとされます。
菱川師宣は絵師の名門である「狩野派」、「土佐派」、「長谷川派」三派の手法を学び、我が物にしていきました。
「狩野派」は、室町幕府の御用絵師「狩野正信」(かのうまさのぶ)を始祖とする画派です。漢画の流れを汲み、宮廷や幕府、寺社など様々な求めに応じて描きましたが、特に武家とのつながりが強いとされています。
織豊時代には「狩野永徳」(かのうえいとく)が織田信長・徳川家康に重用されて活躍し、江戸時代に入ると「狩野探幽」(かのうたんゆう)らが江戸幕府の御用絵師となりました。
「土佐派」は、平安中期の「藤原基光」(ふじわらのもとみつ)を始祖とする代表的な「大和絵」の画派です。1406年(応永13年)に「土佐将監」(行広)が宮廷絵所預(えどころあずかり)に任じられ、特に宮廷や公家と深いかかわりを持ちました。
安土桃山時代には一時衰退するも、江戸時代に「土佐光起」(とさみつおき)が宮廷絵所預に復帰しています。
「長谷川派」は、桃山時代に活躍した「長谷川等伯」(はせがわとうはく)を祖とする漢画の画派。「雪舟」の子孫を標榜し、特に法華・禅宗などの仏教画に強みがありました。
しかし後継者に恵まれず、狩野派や土佐派のような大規模な組織化は叶いませんでした。いずれも歴史と権威のある高名な画派。しかし、江戸でそれらの諸派に教えを請うたわけではありません。
「大和武者絵」序文にも「和国絵の風俗三家の手跡を筆の海にうつして これに基づいて自工夫して」と書かれていたように、菱川師宣はこれらの名門絵師に正式に入門したのではなく、それらの絵を模写してその技法を学び取ったのです。さらに自ら工夫を加え、オリジナルの画風を完成させるに至ります。
また、「あとこの道一流をじゅくして うき世絵師の名を取れり」とも書かれていたように、絵の道を一流に極めた菱川師宣は、この先浮世絵師の名で呼ばれる最初の絵師へと成長していくのです。
菱川師宣がいつ縫箔師から専業の絵師となったかも、資料が残されておらず不明です。
ただし、彼の名を著した最初の刊本が1672年(寛文12年)の刊行ですから、寛文年間以前であることは間違いありません。
絵師として活躍を始める前は、版元で版下作りなどの下積みをしたか、縫箔師として活動していたと考えられます。本業をこなしながら、徐々に絵師の世界に軸足を移していきました。
この寛文年間には、菱川師宣にとって大きな出来事が起こっています。1662年(寛文2年)父・菱川吉左衛門が66歳で亡くなるのです。
房州の海辺で縫箔の職人として一生を終えた菱川吉右衛門ですが、その晩年には大きな仕事をやり遂げます。死の4年前の1658年(万治元年)、菱川吉左衛門は縦3.6m、横2.1mの巨大な縫箔による「釈迦涅槃図」(しゃかねはんず)を完成させ、房州富津の寺院「松翁院」に奉納しています。
それは、吉右衛門の持つ刺繍と摺箔の総決算とも言える、絢爛豪華な仏画の巨大タペストリー。目を見張るその作品は、もはや職人と言うよりも芸術家の仕事に他なりません。
息子である菱川師宣も、父の仕事を見ていました。と言うのも、「釈迦涅槃図」の下絵を担当したのが菱川師宣であると言う伝承が残っているのです。
若き菱川師宣は、職人として生きてきた父親が最後に成し遂げた大仕事を目の当たりにして、どのような感想を抱いたのでしょうか。父の死から数年後に、菱川師宣は絵師として活躍を始めることになります。
あとに「浮世絵の祖」と呼ばれる菱川師宣ですが、浮世絵の祖と言われる人物は彼ひとりではなく、他に例えば「岩佐又兵衛」などがいます。
寛永から寛文年間に登場した複数の絵師が活躍し、出版産業の変化が重なったことで、浮世絵文化の礎が築かれました。
それでも菱川師宣が浮世絵の祖のひとりと言われるのは、そうした変化のなかで重要な役割を果たしたからに他なりません。当時の出版と絵師をめぐる状況について学びながら、菱川師宣の果たした役割を紐解いてみましょう。
当時の出版は木版印刷によって行なわれていました。文字だけの木版画は奈良時代からあり、「挿絵」のある本としても慶長から元和(1596~1624年)にかけて出版が開始。
その初期の物として、「伊勢日記」や「義経記」などの古典を題材にした「嵯峨本」(さがぼん)と呼ばれる活字本に、「本阿弥光悦」(ほんあみこうえつ)らの版画を添えて京都で出版された物が知られています。
続く寛永年間(1624~1644年)には、京都で木版による出版が増加。京都で始まった出版ブームは、寛文年間(1661~1673年)に江戸に到達します。
木版出版の流行により町に書店が増え、書物が一般庶民の手の届く物になりました。これにより、古典をもとにした浄瑠璃本、御伽草子、仮名草子、男女の情愛を描いた枕絵本などが庶民の娯楽として普及。
学問のための「読書」ではなく、娯楽としての「読書」が浸透し、庶民の識字率が上がっていくのです。菱川師宣が挿絵の絵師としてデビューしたのも、そんな出版ブームの最中でした。
彼の名前が入った最初の本は、1672年(寛文12年)の「武家百人一首」。この本には、本名の「菱川吉兵衛」と言う署名が入っています。
絵師の署名があると言うのは、当時画期的なことでした。後世の浮世絵師達が活躍する時代では、浮世絵師の著名は当然添えられます。
しかし、一介の町絵師が刊本に自らの名前を出すのは、江戸の絵師としては初めてのこと。
当時「絵師」と言えば、朝廷や幕府などの有力者の庇護を受けた「御用絵師」で、先に挙げた狩野派や土佐派などの有名画派に属している絵師がほとんどでした。それゆえ、画派に属さないフリーの「町絵師」が名前をアピールするという発想はありません。
ところが菱川師宣は、自らの名前を出して「町絵師」の存在をアピール。この行動が町絵師の地位向上へとつながっていきます。現代で言う「セルフ・ブランディング」、自己のブランド化を積極的に行なったわけです。
菱川師宣はその後、多くの刊本に挿絵を描き、自らの署名を入れて刊行することで、「師宣ブランド」を高め続けます。
菱川師宣が行なった工夫で最も浮世絵の発生につながったのは、挿絵を大きくしたことです。
それまでの挿絵は、読者の理解を助けるためのもので、あくまでも文字がメイン。絵は添え物に過ぎませんでした。ところが、菱川師宣はその「文」と「絵」の主従を逆転させたのです。
もちろん菱川師宣も初めからその取り組みをしたわけではありません。
例えば大坂の戯作者「井原西鶴」が執筆し上方(現在の京都付近)で大ヒットした「好色一代男」を江戸で刊行する際、1684年(天和4年)に、菱川師宣が挿絵を担当。そのときには西鶴が書いた文章を主役としていました。
本格的に挿絵を主役にしたのは、それから2年後の1686年(貞享3年)。「好色一代男」と同様の内容ながら文章を減らし、絵を増やして絵本化した「大和絵のこんげん」を発売します。
そこでは絵を主役にし、文章は紙面の5分の1程度に抑えました。ビジュアルがメインの本を作り上げたのです。菱川師宣が行なった、「絵を大きくしてメインにする」と言う考え方は、大きな消費を生み出します。
すなわち、文字を読むのが苦手でも本を読みたいと言う庶民が出版ブームの新しい消費者として取り込まれたのです。その影響力はこうした出版物が「師宣絵本」と呼ばれたことにも見て取れます。菱川師宣はまさに新しいメディアを作り出したのです。
「絵本」と言っても、現在の絵本とは少し意味が異なります。
現代の絵本と言う言葉は、一面の絵のなかに文字が添えられた形式の本と言う意味。
しかし、当時の言葉で絵本とは、「絵手本」を意味していました。つまり、絵師が絵を描く際の見本・模範となる画集や図案集のような物を指していたのです。「御用絵師」の各画派では、昔から伝わる門外不出の絵手本を厳重に管理し、それを参考に絵を描いていました。
先述の「大和絵のこんげん」以前にも、菱川師宣は絵ばかりを掲載した絵手本の体裁を取った書籍を出版しています。しかし御用絵師の使う絵本と言う格式高い言葉を憚ってか、「絵づくし」と言う名が用いられていました。
「大和絵づくし」1680年(延宝8年)、「和国諸職絵づくし」1685年(貞享2年)、「岩木絵づくし」1683年(天和3年)、「美人絵づくし」1683年(天和3年)、「団扇絵づくし」1684年(天和4年)、「浮絵続絵づくし」1684年(天和4年)……菱川師宣が描いたこれらの作品は、絵描きに向けた「絵の見本」としての形式を持つ出版物。
ところが出版後、菱川師宣や版元はあることに気づきます。絵師のための手本であったはずの本が、なぜか一般の人々に売れていたのです。
ここから菱川師宣自身も、文字が苦手でも楽しめる本としての絵づくしの可能性に着目。序文などに書かれた「刊行の目的」は、当初は「絵を学ぶ人の絵の見本」でしたが、次第に「なぐさみ」(楽しみ、遊び、娯楽)のためと言う言葉が添えられるようになりました。
こうして、絵本から「絵の手本」と言う意味は失われていきます。やがて絵本と分けて使っていた絵づくしと言う言葉もなくなり、今日のように絵がたくさん載っている楽しい本として絵本と言う言葉が残りました。
もちろん、そのすべてが菱川師宣の功績と言うわけではありませんが、彼が行なった本のビジュアル化が重要な役割を果たしたのです。
「名所絵」と言うと、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」や歌川広重の「東海道五十三次」のような、多色刷り版画シリーズが思い浮かびます。
それらより100年以上前、菱川師宣の時代にも、すでに名所絵へとつながる出版物が刊行されていました。それは「旅行ガイドブック」のような形で販売されており、まだ一枚絵の版画として成立してはいません。
菱川師宣の名所絵としては、1677年(延宝5年)の「江戸雀」が有名です。「江戸雀」は初めて江戸を訪れた人のためのガイドブック。江戸の地誌としても最古の物であり、風俗資料としても貴重な物。
他にも菱川師宣による物と推定されている名所絵があります。1678年(延宝6年)に刊行された奈良の名所ガイド「奈良名所八重桜」は、絵師の署名がありませんが、絵柄を理由に菱川師宣の画と推定されています。彼の活動初期には、同様の無記名の仕事も多かったと推測されます。
年月が経ち、1690年(元禄3年)に至ると、明確に菱川師宣の手によるガイドブックも刊行されています。
「東海道分間絵図」は、歌川広重の「東海道五十三次」の100年以上前に作られた東海道のツアーガイドです。
地図製作者「遠近道印」(おちこちどういん)の正確な地図をもとに、菱川師宣が東海道の街道の情景を鳥瞰図として描き添えています。
宿の名前や宿場間の距離、名所名物、茶屋、川の渡り方など、実際に東海道を旅する人のためのビジュアル・トラベルガイドとしての役割を果たしました。
なお、菱川師宣の死後に出版された1696年(元禄9年)の「和国名所鑑」も、日本各地の名所ガイド。菱川師宣が担当した見開きの絵に、和歌や俳句を添えた名所ガイドとして知られています。
師宣の時代の「名所絵」は、あとの時代の「冨嶽三十六景」や「東海道五十三次」のように、美しい景色を楽しむポスター状の風景画ではなく、実際に旅行者が参照しながら旅をする実用情報誌でした。その点、まだ「名所絵」とジャンルづけるよりは、実用書挿絵と考えることができます。
実際、他にも様々な実用書の挿絵を描いていました。例えば「余景作り庭の図」と言う本は造園のためのハウツー本。菱川師宣はこの挿絵も担当していたのです。
菱川師宣は、1685年(貞享2年)に「和国諸職絵つくし」と言う「絵づくし」(絵本)を制作。番匠(大工)、鍛冶屋、壁塗り、屋根の葺き替え、刃物の研師など、当時の様々な職業の仕事風景を記録した物です。
職人を絵として描く発想自体は、古くから存在しており、この「絵づくし」も、鎌倉時代から時折作られていた「職人歌合」(しょくにんうたあわせ)の形式を模した作品。
特に、室町時代の「七十一番職人歌合」を参考にしたと述べられています。しかし、「職人歌合」は、特権階級の貴族が和歌(狂歌)を添えて庶民生活を知り、楽しむために作られたもの。菱川師宣はその「職人歌合」を、庶民自らが見て楽しむものとして作り上げました。
「和国諸職絵つくし」では、多くの庶民的「職業」と同じひとつの職業として「武士」が描かれています。幕府による身分制のもとで当時の社会は成り立っていたので、とても特権階級のためにそれが描かれたとは考えられません。
実際、この平等な考え方は支配者である幕府の不興を買ったとも言われています。一説には、「和国諸職絵つくし」と、次の「和国百女」(わこくひゃくにょ)は幕府から注意を受けました。
1695年(元禄8年)の「和国百女」では、武家の奥方、商家、農婦、町人、遊女、比丘尼(びくに:女性の僧)など、様々な女性を描きました。
砧打ちや織物、洗濯といった日常の作業を行なう女性の姿が描かれていることは注目に値します。もはやその対象は職人を超えて、様々な日常風景へと拡がったのです。
こうした著作を通じて、時代の風俗が忖度なしに克明に描き残されました。身分や職業、性別にかかわりなく庶民生活を切り取った菱川師宣の絵は、町人文化として浮世絵が普及するきっかけになったと評価できます。
「和国百女」のなかで、菱川師宣は様々な階級、あらゆる職業の女性の生活を描写。それは同時に「時世粧」(じせいそう)すなわち、その時代のファッションを写し取り、描き残すことになります。
例えば人々が着る衣装の形、衣服に使われる生地の柄、帯の結び方、髪型、アクセサリー、小道具……。菱川師宣の絵には、流行や風俗への鋭い眼差しを見て取ることができます。もともと縫箔師と言う服飾デザインの専門家だったことが影響しているのかもしれません。
江戸における町人文化の誕生は、1657年(明暦3年)の「明暦の大火」と関係しています。明暦の大火は江戸の町を6割も焼き、武士も庶民も関係なく10万人におよぶ死者を出した未曾有の大火災でした。
大火災のあと、江戸復興のために多くの職人が集結。江戸のあちこちで工事が進み、復興の過程で各地の技術と意匠が持ち込まれました。火災は江戸のひとつの文化を焼き尽くすほど猛威を振るいましたが、人々は復興のなかで新たな文化を生み出していきます。
結果として、上方の影響を抜け出た江戸独自の新しい流行や習俗の発達が始まりました。復興がもたらした空前の好景気のなかで、芽吹いた文化が新しい商売へと昇華していく時代となったのです。
ファッションの移り変わりだけではなく、出版ブームもこうした背景から発生。菱川師宣の描き残した「時世粧」は、その記録の確かさにより資料的価値も高く、江戸初期に生まれたこの独自の文化風俗を現代に伝える貴重な資料にもなっています。
流行り廃りについては、菱川師宣自身も痛い思いをしました。実家の家業である縫箔師の仕事が、流行の変化によって立ち行かなくなってしまったのです。
縫箔師の仕事は、着物に刺繍や金銀の摺箔などの派手な装飾を施すこと。安土桃山時代に流行した派手な「慶長小袖」ですが、江戸時代に入るとめっきり流行らなくなってしまいました。
流行の変化は、戦乱の終わりと結び付けられて説明されます。安土桃山時代には、明日をも知れぬ戦いの日々のなか、どれだけ尖れるか、目立てるかと言う「かぶき者」の精神がもてはやされました。
しかし、江戸の泰平が深まるなかで幕府による「法度」や「倹約令」が相次ぎ、武士も庶民も地味で目立たず、従順なおとなしい服装が推奨されるようになったのです。
そうした状況で縫箔師と言う家業を継いだのは、菱川師宣の弟。しかし、彼は衣服をゴージャスに装飾する縫箔師として家を維持することを断念。
かつては業務の一部に過ぎなかった、布地を染める業務を主軸に据え、「紺屋」としてなんとか家を守ることになります。
菱川師宣が1672年(寛文12年)~1689年(元禄2年)に作成した「北楼及び演劇図巻」の題材は、江戸の「悪所」(あくしょ)と呼ばれた吉原遊郭と、歌舞伎の芝居小屋。その後も吉原の遊女と歌舞伎役者を描き続けています。
今では浮世絵の題材として「遊女」や「役者」は定番として知られていますが、当時そのような題材を描く絵師はいませんでした。浮世絵の「定番」を作ったのが、他ならぬ菱川師宣だったのです。
菱川師宣は、悪所だけでなく、例えば「船遊び」や「盆踊り」、「花見」など、庶民の行楽も描きました。江戸の人々が集まって騒ぎ、喜び、笑い、楽しむ姿を描いた絵は、またひとつの娯楽として江戸の人々に受け入れられたのです。
庶民に受け入れられる題材を選び、浮世絵を娯楽として定着させたことは、彼の大きな功績だと言えます。
かくして浮世絵の礎を築いたのが菱川師宣です。この功績だけで十分と思われるかもしれませんが、もうひとつだけ重要な要素があります。
菱川師宣の出版した本は「絵づくし」あるいは「絵本」と名付けられ、浮世絵としては発表されていません。そもそも「浮世」とは、仏教用語で「憂き世」(辛く苦しい世)と「浮世」(フセイ、はかない世)と言う2つの意味を持つ言葉。
特に江戸の中期には後者の意味が強くなり、「わたし達の生きている今」を意味する言葉として親しまれました。
したがって浮世絵も、「今を描いた絵」と言う意味で使われています。この言葉には、他の絵が「わたし達の今」を描いていなかったと言う意味が隠されているのです。
幕府公認のいわゆる「御用絵師」達の考えでは、先人の残した「絵の手本」を参考にして、古典の一場面を描くことこそが絵師の本分。その題材は古典に求められ、眼差しが浮世へ向けられることはありませんでした。
一方、菱川師宣が題材にしたのは浮世に他なりません。移り変わる流行や景観、祭りや遊郭など、これまでに示した題材はどれも目の前にある「江戸の庶民の今」。人々は「今生きているこの瞬間」を楽しみ、絵師はその「今」を記録します。
この姿勢は、菱川師宣のあとに続く絵師達にも受け継がれ、やがて人々は彼らのことを浮世絵師と言う名前で呼ぶようになるのです。
ちなみに、当時から浮世はもうひとつの意味も持ち始めました。つまり、「どうせ儚い浮き世なら、とことん楽しもう」と言う享楽、快楽を意味するようにもなります。
実際、菱川師宣も数多くの「枕絵」と呼ばれる性愛の世界を描いた作品を残しました。その数は膨大な作品の半数を占めていますが、この題材もまた浮世絵の定番のひとつであり、あとの浮世絵師達にも引き継がれていきます。
浮世絵と言う言葉は、自分達の今を描く絵師への親しみを込めた言葉として庶民に普及。当然、菱川師宣は最初に浮世絵師と呼ばれ、畏敬をもって讃えられることになります。
ところが、彼自身はその称号をあまり喜んではいませんでした。彼は自分のことを「大和絵師」(やまとえし)と自認していたのです。
たしかに、菱川師宣は若い頃に狩野派など各画派の手法を学び、それをリスペクトしながら新しい日本絵の世界を作り上げてきたと言う経歴があります。しかし、既存の絵師の概念から大きくはみ出した彼を、世間は「大和絵師」と呼んでくれませんでした。
彼を評して、新たな浮世絵師という概念が創り出され、本人の希望とは裏腹に定着。菱川師宣は、版元が彼のことを浮世絵師と書いた物を、わざわざ「大和絵師」に修正させたと言うエピソードもあり、聞き慣れない新しい称号を菱川師宣があまり有り難く思っていなかったのが見てとれます。
彼に与えられた浮世絵師と言う肩書きが、その後300年にわたり、日本のみならず世界中でも絶賛される職業になるとは、本人も思っていなかったに違いありません。
菱川師宣の生み出した革新的なビジネスモデルの頂点は、「版画を1枚絵として販売する」と言うものです。この手法は浮世絵の発展に大きな影響を与えることになります。
刊本の一部だった版画を1枚の絵として売ると言う発想は、想像以上に画期的なものでした。
それまで「絵」と言えば、絵師が時間をかけて手で描く「肉筆画」。それでは大量生産ができず、絵画を手にすることができるのは一部の有力者に限られていたのです。
しかし「版画」を販売することで事情が変化。安価で大量生産が可能となり、そば1杯分くらいの値段で「絵」を買えるようになりました。公家や武家、豪商のような富裕層だけでなく、一般の庶民にも「絵画を所有する」体験が可能になったのです。
物語や実用書の付属物だった「絵」そのものが、単独で商品として扱われることも画期的でしたが、それ以上に、版画と言う生産方式を組み合わせることで、ひとつの文化を生み出したと言えます。
挿絵に始まった木版画は、役者や花魁、力士のブロマイドとして、あるいは名所ガイドやニュース、広告として、子供のおもちゃ、大人の性愛の楽しみとして……様々なニーズと結びつき、またたく間に広まりました。
菱川師宣が発明した「一枚絵の版画」は新たなマーケットを創出し、やがてその舞台であとの浮世絵師達がしのぎを削ることになるのです。
菱川師宣が初めて一枚絵の版画を発売した1670年(寛文10年)ごろは、まだ多色刷りの「錦絵」は存在せず、当初は黒1色で摺った白黒の「墨摺絵」(すみずりえ)で発行されました。菱川師宣の作品のなかでは、吉原遊郭の風景を12枚の組物版画として構成した「吉原の躰」が特に知られています。
まもなく、墨摺絵に手で彩色した「丹絵」(たんえ)が登場。これは「丹」(紅殻)を中心に、黄土などで彩色した物で、延宝年間(1673~1681年)から正徳年間(1711~1716年)に制作され、菱川師宣も丹絵の制作を試みました。
菱川師宣の死後、紅色などの絵の具を使用して手彩色する「紅絵」(べにえ)や、黒を漆で引き立てる「漆絵」(うるしえ)が登場。さらに寛保年間(1741~1744年)頃、複数の版木を使い、「見当」(けんとう)と言う目印を付けて位置を合わせることで、紅色と緑、黄などの数色での印刷を可能とする「紅摺絵」が登場しました。
私達が浮世絵と聞いて思い浮かべる多色刷りの錦絵の技術が確立されるのは、菱川師宣の死後70年を経た、明和年間(1764~1772年)のこと。
この技法では、絵師と彫師と摺師の分業で制作されます。絵師の描いたフルカラーの絵を色ごとに分解して彫師が色ごとの版木を彫り、その版木を使って摺師がフルカラーの錦絵を完成させるのです。
菱川師宣は、版画だけでなく、肉筆画でもその才能を発揮し、絵巻・屏風・軸物などで傑出した作品を残しています。特に、晩年には肉筆画の傑作を数多く生み出しました。
なかでも特に有名なのが、菱川師宣の代名詞とも言える「見返り美人図」。
郵便切手の図案に採用されたことから、菱川師宣の代表作として広く知られています。また、数ある浮世絵の歴史のなかでも特に著名な1枚と言えるでしょう。元禄前期(1688年頃)から菱川師宣が亡くなる1697年(元禄7年)までに描かれた、まさに最晩年の作品。
「見返り美人図」に限らず、菱川師宣の描く美人は高い評価を受けます。「菱川様(よう)の吾妻おもかげ」と呼ばれた彼の美人絵は、これまでの京都風の美女像に対して「これぞ江戸の美人だ」と称賛を受け、井原西鶴にも「菱川が書きしこきみ(小気味)のよき姿枕」と評されました。
この評価の背景には、江戸の流行を的確に切り取った菱川師宣の観察眼が欠かせません。
無地の背景に女性ひとりを描くと言う「見返り美人図」のスタイルは、上方で寛文年間(1661〜1673年)に流行した寛文美人図を踏襲しています。
しかし、一方で描かれた女性の「玉結び」の髪型や「吉弥結び」(きちやむすび)と言う帯の結び方などは、当時の江戸の流行そのもの。
また、女性を正面から描かなかったことも寛文美人図の形式に反しています。振り返った一瞬の姿を捉えることで、髪や帯などのトレンドを細かに描くことができました。
さらに、菱川師宣は具体的なモデルを立てないことで、「特定の誰か」ではない「江戸の女性像」を描き出すことに成功。どこにもいないモデルにもかかわらず、「どこかで見かけるかもしれない」と言う印象を、観る者に与えたのです。
晩年の傑作としては、他にも重要文化財になっている屏風絵「歌舞伎図屏風」があります。
歌舞伎が行なわれている芝居小屋(中村座)の全景を左右2枚の屏風に描いた物です。入り口や観客席、舞台、楽屋、芝居茶屋など、それぞれの場所に描かれた役者や裏方、観客など285人の老若男女が、活き活きとして魅力的な絵。署名はありませんが、画法の特徴から菱川師宣が晩年に描いた作品と判明しています。
さらに、亡くなる2年前の1692年(元禄5年)に完成した「大江山鬼退治絵巻」は、「源頼光」一行による酒天童子征伐を描いた絵巻。
公家の手による「詞書」(ことばがき:前書きのこと)がついており、菱川師宣の名声が庶民だけでなく武家や公家にも届いていたことが分かります。
数多くの作品を生み出し、あとに続く浮世絵師の基礎を築いた浮世絵師の祖、菱川師宣は1694年(元禄7年)にこの世を去ります。
生年を1630年(寛永7年)前後とする説ならば、享年は64歳前後。老齢を理由に隠居することもなく、晩年まで版画の制作はもちろん、肉筆による大作を生み出し続けたのです。
浮世絵師として親しまれ、また武家や公家にも名声の届いていた晩年の菱川師宣のもとには、数多くの門弟が集まっていました。彼らは菱川師宣の指示で版画制作の作業を分担。菱川派のいわば「工房」を構成していました。
そのなかには菱川師宣の実子の「菱川師房」(もろふさ)もいましたが、菱川師宣の死後、工房は求心力を失い、解散してしまいます。
その後も、菱川派直系の弟子には大きな活躍をする絵師は現れていません。息子の菱川師房も父の死後は絵師を辞め、父の郷里・房州に戻り、菱川師宣の弟が継いでいた実家の紺屋(縫箔屋から染め物の紺屋になっていた)を継ぐことになります。
菱川師宣の死後「菱川派」は消滅。菱川師宣が編み出した画法を直接に継承した絵師の活躍はなく、また息子達も浮世絵師を家業として継ぐことはありませんでした。
しかし、それでも菱川師宣が数々の「工夫」によって作り出した浮世絵の世界では、数多くの後継浮世絵師が育っていきます。本人が望むと望まざるとにかかわらず、浮世絵師の祖、菱川師宣の名は、この世に浮世絵がある限り永遠に残り続けるでしょう。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 菱川師宣「大和武者絵」1680年(延宝8年)
- 作・伊原西鶴、画・菱川師宣「好色一代男」1684年(貞享元年)
- 菱川師宣「江戸雀」1677年(延宝5年)
- 菱川師宣「東海道分間絵図」1690年(元禄3年)
- 菱川師宣「和国諸職絵づくし」1685年(貞享2年)
- 菱川師宣「和国百女」1695年(元禄8年)