【麒麟がくる 美濃編】のロケ地かも!?明智光秀ゆかりの地(岐阜県)

戦国時代、本能寺で「織田信長」(おだのぶなが)を討ったエピソードで知られる「明智光秀」(あけちみつひで)が、2020年(令和2年)の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公に決まりました。謎とされている織田信長を討った理由をどのように描くのか、また、ドラマを通じて謀反を起こしたことによる明智光秀のネガティブなイメージは払拭されるのか。放映前から「待ち遠しい!」という方もたくさんいらっしゃるでしょう。
そこで、明智光秀の出生地と言われる岐阜県から、ドラマのロケ地になりそうなスポットを予想してみました。

明智光秀が仕えた斎藤道三、織田信長の足跡を残す岐阜市

岐阜市にゆかりのある武将として有名なのが、「斎藤道三」(さいとうどうさん)と「織田信長」です。明智光秀はこのふたりに仕えて、活躍の場を得ました。大河ドラマでも、明智光秀はふたりと深くかかわることでしょう。

岐阜市にある斎藤道三と織田信長に関連するスポットをご紹介していきます。

斎藤道三、織田信長の居城 岐阜城

岐阜城

岐阜城

金華山の頂上にそびえる「岐阜城」は、かつて稲葉山城と呼ばれていました。戦国武将の斎藤道三は稲葉山城を居城にして、美濃(現在の岐阜県)を治めます。

しかし、息子である「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)との間に勃発した「長良川の戦い」で戦死。その後、織田信長が斎藤義龍やその一族との戦いに勝利して美濃を手中にすると、稲葉山城は岐阜城という名に改められて、織田家の居城となりました。

現在、岐阜城は岐阜市のシンボル的な観光スポットとなっています。3層4階の構造となっており、1~3階は歴史的資料を展示するフロアで、4階は岐阜市を一望できる展望フロア。なお、岐阜城には金華山の麓から登山道を歩いて登ることもできますし、ロープウェイで上がることもできます。

「麒麟がくる」では、明智光秀の人生に大きな影響を与えた斎藤道三と織田信長がキーマンになることでしょう。そのふたりの居城だった岐阜城がロケ地になることは、十分にあり得ますよね!?

織田信長とその息子 織田信忠を祀る崇福寺


崇福寺

崇福寺

本能寺の変」にて、織田信長とその息子 「織田信忠」(おだのぶただ)は 明智光秀に討たれました。ふたりを弔う地は全国に20ヵ所ほどありますが、岐阜市にある「 崇福寺」(そうふくじ)もそのひとつです。本能寺の変のあと、織田信長の側室の「お鍋の方」(おなべのかた)がこのお寺に遺品を納め、お墓を建てました。

今でも本堂の裏には、織田信長と織田信忠の名が刻まれたお墓があり、参拝客が途絶えることはありません。また、寺には織田信長の書いた手紙や織田信長の愛用した櫓時計も収蔵されています。

崇福寺で有名なのは本堂にある「血天井」です。血の染み付いた痛ましい天井には、こんな逸話があります。

時代は変わりますが、関ヶ原の戦いの本戦が始まる約1ヵ月前、西軍の重要拠点である岐阜城で、織田信長の孫「織田秀信」(おだひでのぶ)は東軍の攻撃を受けました。岐阜城を守りきれず織田秀信は高野山に逃れますが、西軍の兵士38名が戦死。この兵士達を弔うために、血の付いた岐阜城の床板を崇福寺本堂の天井に移したというのです。

崇福寺は、戦国時代の戦がどういうものなのかを現在に伝えています。崇福寺を訪れて戦国時代の戦について理解を深めておけば、麒麟がくるの戦のシーンもより楽しめることでしょう。

隠居した斎藤道三が住んだ鷺山城

岐阜市の中心部にある標高約70mの「鷺山」(さぎやま)の頂上には、かつて「鷺山城」がありました。稲葉山城と家督を息子の斎藤義龍に譲り、隠居した斎藤道三が住んだのがこの城です。

隠居後は平穏な余生を送っていた斎藤道三でしたが、斎藤義龍との仲が険悪になると、鷺山城を追放されます。そして、長良川の戦いで斎藤道三が死去すると、鷺山城は廃城となりました。

現在、鷺山城の跡地は公園になっています。鷺山の麓から山頂の公園までは歩いて15分ほど。公園内には、かつて城があったことを示す石碑や、この地の歴史についての解説板が設置されています。

同じ斎藤道三ゆかりの地である岐阜城と比べると、観光客がそれほど多くはなく、ひっそりとした印象の鷺山城の跡地。その静けさは、息子に討たれるという無念の死を遂げた斎藤道三を悼んでいるかのようです。

明智光秀のかつての主君が眠る道三塚

道三塚

道三塚

岐阜城の北側にある住宅街では、不思議な光景を見ることができます。町の中で存在感を放ちながら佇む、石碑と墓石。この場所は斎藤道三を祀っている「道三塚」(どうさんづか)です。どうして斎藤道三ほどの武将の塚が由緒正しい場所ではなく住宅街の中にあるのかというと、こんな経緯があります。

戦国時代、斎藤道三の塚は崇福寺の中にありました。しかし、長良川の氾濫により流されてしまいます。のちの1837年(天保8年)、斎藤家の菩提寺(一族のお墓がある寺)の住職が、流されてしまった塚を見かねて今の場所に移しました

その後、時代が変わり開発が進むことで、住宅街の中に戦国武将の塚があるという奇妙な景色が生まれたのです。

明智光秀はかつて斎藤道三を主君と仰ぎました。麒麟がくるでは、崇福寺内にあった頃の道三塚で、明智光秀が主君の死を悼み、手を合わせるシーンがあっても不思議ではないでしょう。

そしてこの道三塚ですが、2019年(令和元年)に覆屋(おおいや:貴重な文化財や史跡等を風雨から保護するための建築物)が寄贈されました。
寄贈に協力したのは、岐阜市で広報誌などを制作している「株式会社中広」の代表取締役会長「後藤一俊」氏です。
同年、7月17日に除幕式が開催され、後藤一俊も道三塚へ「多くの観光客に足を運んでもらいたい」と話していました。

寄贈された覆屋は、ヒノキの寄棟造りで屋根は銅板葺。今回の覆屋寄贈に合わせ、史跡説明看板の内容も一新しました。
「麒麟がくる」の放送に合わせて、こうした史跡整備は岐阜市内のいたる場所で行なわれており、明智光秀をはじめ、斎藤道三など岐阜市ゆかりの武将への人気が高まっています。
道三塚を管理する岐阜市は「岐阜城跡の発掘などを進め、新しい道三像、光秀像を探求したい」と発信していることから、岐阜市は観光スポットとして、今後も目が離せません。

刀剣ワールドをの話題をお届けする刀ブロの「斎藤道三の墓碑『道三塚』に行こう!」をご覧いただけます。

観光名所「道三塚」についてご紹介します。

明智一族の栄華と没落の跡が残る可児市

岐阜県可児市には、かつて明智一族が住んでいました。この地で、幼少期の明智光秀も家族との安らぎの時を過ごしたことでしょう。

しかし、それも長くは続かず、明智一族は戦火に巻きこまれて滅び、明智光秀は安住の地を失ってしまったのです。

可児市には、明智一族の栄華と没落の跡が残っています。

明智光秀の出生地とされる明智城

明智城址

明智城址

岐阜県可児市にある明智城の跡地には、大手門や曲輪の遺構が残っていますし、歴史を記した石碑も立っています。室町時代にこの地にあった明智城は明智一族の居城であり、明智光秀の生涯を語るうえで重要な場所です。

「美濃国諸旧記」という書物には、「明智城が明智光秀の出生地」と記されています。ただし、明智城と呼ばれる城は可児市の他に岐阜県恵那市にもあり、この書物がどちらの城のことを明智光秀の出生地として指しているのかは分かっていません。

可児市の明智城が廃城となったのは、1556年(払治2年)のこと。斎藤道三とその息子の斎藤義龍の間で戦が始まると、斎藤道三の家臣である明智光秀の一族が住む明智城も、斎藤義龍に攻めこまれました。明智光秀の叔父にあたる城主の「明智光安」(あけちみつやす)は、籠城をして抗戦します。しかし、敵の侵攻を止められず、落城前に自刃したのです

一説によると、明智城に籠城していた明智光秀は、落城前に明智光安から「明智再興」を託されて脱出したと言われています。

炎上する明智城を遠くから見つめて、一族の再興を胸に誓う明智光秀。麒麟がくるでこんなシーンがあったら、とてもドラマチック!「明智光秀が明智再興を誓った場所」として、明智城の跡地はターニングポイントになるかもしれません。

日本一大きな明智光秀の位牌が収められている天龍寺


天龍寺

天龍寺

明智城の跡地のすぐ近くにある「 天龍寺」(てんりゅうじ)は、明智一族を祀っているお寺。本堂に収められている明智光秀の位牌は1m84cmもあり、日本一の大きさです。本堂の裏側には、明智一族を弔うための供養塔や石仏もあります。

2019年(令和元年)からは、金色の印が押してある限定御朱印の授与が始まりました。この御朱印には、明智家の家紋である「桔梗」(ききょう)の印も押してあります。金色の御朱印をいただけるのは毎月最後の金曜日。明智光秀ファンなら絶対に入手しておきたい品です。

明智光秀の逸話が伝わる恵那市明智町

岐阜県恵那市の南部にある明智町は、名前から分かるように明智光秀とゆかりのある町です。この町には、数々の明智光秀の逸話が伝わっています。

その逸話とかかわりのあるスポットをご紹介していきましょう。

悲痛な想いでひび割れた供養塔がある龍護寺

龍護寺

龍護寺

明智村の北西にある「龍護寺」(りゅうごじ)は、明智光秀にゆかりのあるお寺です。

寺宝である「九条衣」(くじょうい)という袈裟には、こんな逸話があります。山崎の戦いで明智光秀が敗れて死去したのち、龍護寺に落ち武者が訪ねてきました。落ち武者は「主君を供養して欲しい」と頼み、明智光秀の着ていた和服を置いていきます。その和服の布を縫いこんだのが九条衣だそうです。

また、龍護寺には明智光秀の供養塔があるのですが、そこには大きなひび割れが入っています。「明智光秀の供養塔には必ずひび割れが入る」という言い伝えがあり、高野山にある明智光秀の供養塔に至っては何度、修繕してもひび割れてしまうのだとか。

このひび割れの原因は「悲痛な想い」にあると言われています。悲痛な想いとは、逆賊の汚名をかぶってまで天下を獲ったのに、三日天下と揶揄されるほど短い期間で天下をあけ渡して散った明智光秀の無念の想いなのかもしれません。

龍護寺にあるひび割れた供養塔の前に立つと、明智光秀の悲しみ、悔しさが伝わってくるようで感傷的な気持ちになりそうですね。

明智光秀が勉強するために通ったという天神神社


天神神社

天神神社

明智町北側にたたずむ山の中腹にあるのが「 天神神社」(てんじんじんじゃ)です。京都の「 北野天満宮」(きたのてんまんぐう)の分祀(ぶんし:本社と同じ神様を祀った神社)と伝えられており、祭神は学問の神様である「菅原道真」(すがわらのみちざね)。

若い頃の明智光秀は、この神社で学問に精進したと言われています。京都の「嵯峨天竜寺」(さがてんりゅうじ)から雲水、勝恵という学僧を招いて、このふたりに師事したそうです。

明智光秀は軍略や学問に秀でているうえに、和歌や茶の湯などの文化的教養も持っていた智将でした。麒麟がくるでも、明智光秀の勤勉さを描く場面があることでしょう。もしかすると、天神神社で机に向かっているシーンがあるかもしれません。

悲劇的な最期を遂げた明智光秀の母 於牧の方の墓所

明智村の北東には、樹齢400年を超える御神木があります。この御神木の下にあるのが、明智光秀の母「於牧の方」(おまきのかた)のお墓です。

このお墓は1743年に、8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)により建立されました。「南無阿弥陀仏」としか刻まれていない、飾り気のなさが印象的です。

於牧の方については、明智光秀の母ということしかはっきりと分かっていません。ただ、悲劇的な最期を遂げたという、こんな逸話が残っています。

戦国時代、於牧の方は敵軍の人質となってしまいました。敵軍との約束さえ守れば、彼女は解放されるはずだったのですが、明智光秀の主君である織田信長がその約束を破ってしまいます。これに激怒した敵軍が、明智光秀の前で母をはりつけの刑にしたのでした。

この悲しい逸話は、麒麟がくるで再現されるのでしょうか。もし再現されたら、涙無しでは見ることができないシーンになるでしょう。

明智光秀を支えた人物に関するスポット

大河ドラマにもなるほど、戦国時代を鮮烈に駆け抜けた明智光秀。そんな明智光秀を支えていた人物達がいます。それは、妻の「妻木煕子」(つまきひろこ)、家臣の「可児才蔵」(かにさいぞう)、母親の於牧の方などです。

岐阜県内にある、明智光秀を支えた人物にかんするスポットをご紹介します。

明智光秀の妻 妻木煕子にゆかりのある妻木城(土岐市)

妻木城

妻木城

岐阜県土岐市の南部にある標高409mの山の頂上には、「妻木城」の跡地があります。この場所は、石垣や土塁などの遺構が残っている県指定史跡です。山の麓から頂上までは登山道が設けられているので、数々の遺構を見物しながら登山することもできます。

南北朝時代に築かれたという妻木城は、戦国時代になると妻木氏の居城となりました。妻木氏とは美濃地方の氏族で、明智光秀の妻の妻木煕子はこの一族の出身です。

妻木煕子が、明智光秀と結婚する前にどのような人生を送っていたのかは分かっていません。しかし、妻木氏の居城である妻木城で妻木煕子が育ったということは、十分に考えられるでしょう。

妻木煕子は良妻だったことで有名です。例えば、浪人時代の明智光秀が客をもてなす接待費がなくて困っていたとき、妻木煕子が接待費を用意しました。どうやって接待費を捻出したのかというと、当時の女性の命とも言える髪を切って、売り払ったそうです。

このように献身的な妻木煕子を明智光秀は愛していたので、側室をひとりも持ちませんでした。麒麟がくるでも、明智光秀と妻木煕子の夫婦愛が描かれることでしょう。妻木城でふたりが初めて出会うという展開もあるかもしれませんね。

明智軍屈指の猛将 可児才蔵の出生地、願興寺(御嵩町)


願興寺

願興寺

可児才蔵という武将はご存知ですか?  槍の名手で、関ヶ原の戦いでは東軍で最も多くの首を獲ったとされる猛者です。可児才蔵は一時、明智光秀にも仕えており、山崎の戦いにも出陣しています。

そんな可児才蔵の出生地が、岐阜県御嵩町にある「願興寺」(がんこうじ)です。この寺に残る古い書物によると、可児才蔵の母は元々、越前(現在の福井県)の大名「朝倉義景」(あさくらよしかげ)の側室でした。しかし、朝倉家が没落してしまったので、身重でありながら美濃へと逃れます。そして、たどり着いた願興寺で可児才蔵を生み、育てたそうです。

現在の願興寺は、伝統文化が息づくお寺として有名。本尊の「薬師如来坐像」(やくしにょらいざぞう)をはじめ、24体の重要文化財を保有しています。願興寺で生まれ育った可児才蔵は、麒麟がくるに登場するのでしょうか。得意の槍術で活躍する姿を期待しましょう。

明智光秀の三日天下にまつわる白山神社(山県市)

白山神社

白山神社

最後にご紹介するのは岐阜県山県市にある「白山神社」。この神社の周辺には、「明智光秀の運命の地」と呼べるスポットが2つもあります。

ひとつめは、神社に隣接する林の中にある「桔梗塚」(ききょうづか)。この塚は明智光秀のお墓で、石碑や供養塔が並んでいます。また、毎年4月と12月には明智光秀の供養祭も行なわれているのです。

ふたつめは、神社付近を流れる川の中にある「行徳岩」(ぎょうとくいわ)。明智光秀の母である於牧の方は懐妊したとき、この岩の上でこう祈ったそうです。

「産まれるのが男の子だったら、3日でもいいから天下を獲るような立派な子にして下さい」。

於牧の方の祈りは、のちに「明智光秀の三日天下」という形で叶ってしまいます。これには運命の皮肉を感じずにはいられません。

さて、ここまでは麒麟がくるのロケ地になるかもしれない岐阜県内の観光スポットをご紹介してきましたが、この麒麟がくるが放映される2020年には、愛知県名古屋市に、刀剣・日本刀の博物館である名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」が誕生しますので、歴史ファンはこちらも注目です!

博物館内では刀剣・日本刀や甲冑(鎧兜)など、貴重な歴史的資料を展示予定。名古屋刀剣ワールドは、麒麟がくるとともに歴史の魅力を広くお伝えしていきます。

  • 名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」

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